能登2011-24⑬水仙の咲く桃源郷・大西山(輪島市)

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 雪がところどころに残る田の畦で、水仙の葉が頭をもたげ、つぼみをふくらませている。人口わずか50人の輪島市・大西山には4月半ばになると、数万輪の花が咲きほこる。「能登の桃源郷」とよぶ人もいる水仙の里の歩みは30年前、ホームセンターの店先にあった3粒の球根からはじまった。(2013年取材)

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ホームセンターの球根3粒から

 輪島市中心部から東へ14キロ。大西山地区は、川沿いの細い道をのぼりつめた標高100メートル前後のひらけた谷にある。
 地区の最奥の集落にすむ竹中信子さん(73)は30数年前、農機具の修理に市中心部のホームセンターにでかけた際、水仙の球根3個を450円で買った。球根は1年後に9個、2年後に27個……と、ねずみ算式に増えていった。
 山里の農業でなにより大変なのは草刈りだ。1年間、手をくわえなければ田畑は柳やネムノキがしげり、山にかえってしまう。畑の周囲やシイタケのほだ場などに水仙を植えれば、草刈りのつらさもいやされるのでは、と竹中さんは考えた。
 草を刈りながら、水仙にまつわるヨーロッパの神話や、桃源郷のはじまりをえがいた武者小路実篤の小説を思いだした。吉野の千本桜(奈良)や越前海岸(福井)の水仙も、最初は人の手で植えたのだと知り、先人の苦労に思いをはせた。
 球根が増えると近所にもくばるようになる。いつしか集落じゅうのあぜや斜面が黄色と白にいろどられるようになった。ここ数年は外からの見物客も増えてきた。
「人さまがたくさんござる(来る)から見苦しいことはできんし、気を抜けませんねぇ」

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見頃をむかえて水仙=2013年

 大西山は1軒あたり平均6反(60アール)の田をつくり、旧南志見(なじみ)村では農地が広い豊かな地区だった。干し柿が名産で、秋は皮をむいてつるす作業におわれた。冬は雪におおわれた山のあちこちから炭焼きの煙が立ちのぼった。
 竹中さんは子どものころ、焼きあがった炭を窯からとりだす作業を手伝った。
「遠くの窯からのぼる煙が青くなると『あの窯はもう蒸しがかかるな』ってわかる。あちこちに煙が立っているから山の仕事もさびしくありませんでした」
 だが、豊かだったムラも、東京五輪のころから若者が流出する。炭焼きはもちろん、干し柿づくりもとだえた。20数年前を最後に子どもは生まれず、住民の8割は65歳を超えた。
 小中学校で竹中さんの同級生だった元小学校教諭の坂本春雄さん(73)は5年ほど前、肥料袋いっぱいの球根を竹中さんからもらった。以来、田のあぜなどに水仙を植えている。
 定年退職後は地域に恩返ししようと、2012年12月まで区長を4年間つとめ、住民がつどう行事に力をいれてきた。水仙の季節には「猿鬼伝説」にまつわる場所やお宮を歩きながら花を堪能するウオークラリーをもよおし、夏はマイクロバスで花火大会を見にいく。
 集落こぞっての東京旅行やグランドゴルフ大会、バーベキュー、新年会……。年間約10回の行事を企画してきた。道ばたにはプランターを設置するなど水仙以外の花も増やしている。
「なにもない所だけど、輪島で一番花がきれいやと思ってます。みんなで仲良く美しい里をつくり、まちにでた子が『すばらしい故郷だ』って自慢できて、帰ってきたらゆっくり休める場にしていきたいね」

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坂本さん夫妻の手作りアートがならぶ=2013年

農作業歌は「結」のシンボル

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ふりむき峠から大西山の集落を一望=2013年

 田植えなどの農作業や茅葺き屋根のふきかえは「結」と呼ばれる共同作業でこなした。大西山地区には、田んぼでみんなで歌った13種の「農作業歌」がうけつがれている。
 共同作業の日、手伝ってもらう家は、きな粉をまぶした白飯を朴葉でくるんだ「朴葉飯」をふるまった。食器がいらず、手で食べられるから作業飯にぴったりだった。坂本さんは子どものころ、母が昼の朴葉飯を半分のこしてもちかえるのが楽しみだった。白飯は最高のごちそうだからだ。
 当時の主食は大根や豆をまぜた飯やジャガイモ、ソバなどだ。父が打ったソバはうどんより太く「ミミズ団子」とよんだ。「今もソバを見るとゾッとする」と笑う。
 「結」は、出稼ぎと機械化によってくずれてゆく。このままでは農作業歌も消えてしまう、と危機感をつのらせた住民は1963年ごろ「民謡保存会」を結成した。歌の先生は、屑米を石臼でひいた「かいの粉」を食べて戦時中を生き抜いたおばあさんたちだった。72年には市の無形民俗文化財になり、各地のイベントや結婚式で披露するようになった。
 2代目の保存会長をつとめた故上野谷辰雄さんは、流しソーメンや、こいのぼり数百尾を谷間におよがせるイベントにも力をそそいだ。保存会は2010年に休止したが、今につながる村おこしの発端になった。

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庭のかまくらは子どもたちの遊び場=2013年

水田がはぐくむ地下水

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山の上の棚田は地下水の水源=2013年

 大西山には最近まで水道がなく、各家が山から水を引いていた。日照りがつづくと入浴を減らすなどしてしのいだ。坂本さんの妻の澄子さん(62)はある年の夏祭りの日、刺身を準備する最中に水がでなくなって青ざめた。約2キロはなれた金蔵地区の親類宅で料理してもらった。
 水道を引くには1戸あたり約40万円の負担が必要だ。沢の水が豊富な家ははらいたくない。地区の意見をまとめるのはむずかしかった。
 運送会社の役員だった区長の向畑昇さん(66)宅は山の水が豊富だが、ある時ふと思った。
 大西山の田の8割は集落より上の斜面にあり、生活排水が混じらないからおいしい米がそだつ。山の棚田は地下水をおぎなう役割をはたしている。だが高齢化で空家が増えて田が荒れれば地下水は枯れてしまう。その時にのこった家だけで水道を引こうとしたら負担は100万円ではきかないだろう。
 向畑さんは、農林水産省の中山間地域等直接支払制度に目をつけた。山あいの農地を維持すれば1反(10アール)あたり約2万円が交付される。
「みんなが町内のためにカネをつかうって意識なら、清算や事務の仕事はオレがボランティアでやるよ」
 向畑さんは集落のみんなに提案した。
 交付金は各戸に分配するのが普通だが、大西山では半分は共同でつみたてた。5年間でためた1400万円を負担金にあてて、水道は2007年に完成した。
「長年の村おこしでお互い理解しあっているからできたんだと思います」
 向畑さんは、同年代の4人でグループをつくり、高齢者の田の耕作を請け負っている。減農薬・有機栽培米の直販もはじめた。
「田をやめたら草も刈らんようになって町内が草ぼうぼうになる。私らはあと10年はやれるげん、百姓で利益をあげられるように努力したい」
 前区長の坂本さんは向畑さんらを「集落の最後の守り人」とよぶ。
 2012年、大西山にはじめてイノシシがあらわれた。桃源郷は山にもどってしまうのか、向畑さんらの努力が実をむすぶのか。ぎりぎりのせめぎあいがつづいている。

2024年、人が消えた桃源郷

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人が消え、2024年は田植えを断念した

 2024年4月21日、地震であちこちくずれた道をたどって大西山を再訪した。10年前に取材した坂本春雄さん・澄子さん夫妻が避難先からもどったときいたからだ。
 白と黄色の可憐な水仙がゆれ、シバザクラやチューリップ、菜の花があぜに咲きみだれている。「美しい水です ご自由にお使いください」としるされた塩ビパイプからはおいしい山水があふれている。「桃源郷」の風景は10年前とかわらない。ただ、人影はまったくない。
 坂本さん宅は「ひまつぶし工房」という看板と、菜の花を生けた古木がかざられている。
 2013年に取材したとき、「能登にはイノシシはいないといわれてきたけど、去年からではじめました」と坂本さんは危惧していたが、今はイノシシだらけ。山の上にある7−8ヘクタールの水田は毎年電気柵でかこっている。4年前にはシカも確認された。
 水仙の栽培をはじめた片山信子さんは高齢者施設にはいった。「集落の最後の守り人」と坂本さんが期待した向畑昇さんは病気で亡くなった。2024年、大西山にすむのは17軒30人に減っていた。
「『いずれは『ポツンと一軒家』やねぇ』ってみんなで話をしとったんですよ」と坂本さん。
 でもまさか、こんなに突然「ポツンと一軒家」になるとは考えていなかった。

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坂本幸雄さん=2024年4月

「明朝までに」全村避難

 2024年の正月は例年になくあたたかだった。かまくらができるほどの豪雪地帯なのに、雪は軒下にちらほらのこっている程度だった。
「おだやかで、いい正月やねぇ」
 夫婦でかたりあい、おそめの昼食をとってテレビを見ていた。
 午後4時すぎ、1回目の地震がおきた。
「ひどかったねぇ」
 そう話しながら念のためストーブを消したら、ドーンと轟音をたててすさまじい揺れがおそった。食器棚はたおれ、戸はふっとび、瓦は飛ぶ。立ちあがることもできず、こたつをかかえておさまるのを待った。
 揺れがとまって外にでると道路は裂け、斜面がくずれている。水道も電気もとまり、携帯電話もつながらない。
 戸も家具もたおれて物が散乱した家には泊まれない。3日間は車中泊をして倉庫で食事をとった。電気がいらない石油ストーブで暖をとり、卓上コンロと土鍋でごはんをたいた。明かりはキャンプ用のランタンやローソクをつかった。
 地震の翌日、隣家の息子が「(海沿いの)名舟は携帯がつうじるらしいから、歩いて行ってみます」と言う。子どもへの連絡をお願いした。
 道路は寸断されている。重病のお年寄りは山の上の道路までかつぎあげて救急車にのせた。輪島病院で看護師をしていた2人は、5時間歩いて出勤した。
 家を片づけながらすごしていた10日夕方、消防の関係者がたずねてきた。
「南志見(なじみ)は全戸避難することになりました。あす午前9時までに荷物1個だけもって改善センターにあつまってください」
 地区の住民約700人がいっせいに避難するのだという。
 あわててトランクに着替えや貴重品をつめた。11日昼前、南志見地区の中心の農村環境改善センターからヘリコプターに5,6人ずつ乗って輪島市街のマリンタウンにとんだ。そこで50人ほどが乗れる大型ヘリに乗りかえて金沢にむかった。
 つれていかれた金沢市の体育館は、ダンボールで仕切りがつくられ、毛布がならべられている。「こんなところにおらんならんのかなあ」と考えていたら、高齢者施設に案内してくれた。24時間暖房で風呂はきれいで快適な施設だった。その後、子どもの家にうつった。
 集落の17軒は、子どもや親類宅、行政の避難所など散り散りばらばらになってしまった。

山水の大切さ実感

 2カ月後の2月17日、停電が解消されたときいて、坂本さん夫妻は無人の大西山にもどってきた。4月になっても郵便も宅急便はとどかない。当然、水や食料の支援はいっさいない。最寄りの商店までは車で20分かかる。水道も復旧していない。でも電気があれば、2007年の水道整備以前につかっていた井戸から地下水をくみあげられる。
 エコキュートの風呂はこわれたから、風呂場をファンヒーターであたため、じょうろにお湯を入れて行水した。
「水道だけでなく、山水をのこしとくのは本当に大事なんだすねぇ。ガスでわかす昔ながらのお風呂だったら、もっとよかったんでしょうねぇ」

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2024年も水仙は里をいろどった

生業の基盤と住まいの復旧を

 地震から4カ月余りの4月12日、南志見地区の中心部にある小学校跡に仮設住宅54戸が完成し、一部の住民が避難先からもどって入居し、自宅にかよってかたづけをはじめた。
 大西山は比較的地震の被害は軽く、どの家も雨もりはあるものの、全壊した家屋はほとんどなかった。坂本さんの自宅も準半壊だった。でも準半壊の場合、修理費の補助は最大34万3000円だ。これでは風呂の修理もできない。
 山村の高齢者の大半は、国民年金(満額でも月額6万8000円)しか収入がない。
「みなさん、西山にもどってきたいと言うけど、自力で家をなおすのはむずかしい。仮設住宅の期限の2年がすぎたらどうなるのか……。集落は終わってしまうがじゃないか。私らも、金沢にいこうか、とか、冬だけ子どものところにいこうか、とか、いろいろ考えています」
 大西山は集落より上に、7−8町歩(ヘクタール)の棚田がある。70歳前後の「若手」2人が担い手としてたがやしてきた。その棚田が集落の地下水の水源になってきた。
 だが地震で田には亀裂がはいり、用水や農道がくずれ、2024年は田植えを断念せざるをえなかった。田畑は1年放置すると、雑草におおわれてしまう。
 米作りという生業があるから、若手が集落にのこり、雪かきなどを手伝ってくれた。地下水も保全された。下草を刈り、花をそだててきたから桃源郷と見まごう風景が維持されてきた。
 農道や用水路といった生業の基盤と、住まいの復旧なしには、世界農業遺産(GIAHS)の里山里海は維持できず、イノシシなどの野獣が跳梁跋扈する「山」にかえってしまう。そんなギリギリの状況に大西山はたたされている。
「助けあいながらやってきたけど、ささえる側が弱ってきた。大西山にずっとすむがは無理だとしたら、横の連絡をどうつないで、みんなで集まることができるか、考えていかないかんな、と思っています」
 坂本さんは集落の終わりをも見すえている。

 大西山 最盛期には42軒約250人が住んでいたが、2013年は24軒50人。2024年4月は20軒36人(住民基本台帳)。明治の町村制施行で南志見村に属した。南志見村は1954年の7町村合併で輪島市の一部になった。輪島市の無形民俗文化財に指定されている13種の「農作業歌」や、「猿鬼伝説」も伝えられている。

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