大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」71 安富信

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夕飯は居酒屋で「酒盛り」

 神戸総局をもう卒業したいと思っていたのだが、やはり、阪神・淡路大震災震災のことをもう少し書かないと。なんか、この1年酒鬼薔薇聖斗事件だけを取材したように読まれるのも嫌やな、と感じた。なので、今回は、震災報道への思い、そして、わずか1年足らずだったが、楽しく、そして今回は、苦い思い出も多い神戸総局総集編としよう。
まず、前回書こうとした楽しい毎夜毎夜と繰り返された夕食から。比較的大きな事件や、社会面を騒がす事が多い神戸。と言っても毎晩忙しい訳ではない。暇な時は、泊まりクルー(3人)が総局に揃う概ね夜7時半か8時を過ぎた頃から、夕飯に出る。普通の会社員や公務員の方々には信じられないと思うが、新聞記者はこの夕飯が主に居酒屋などでの酒盛りに近いものになる。
 前にも書いたが、当時の神戸総局は最寄り駅が阪急花隈駅、JRだと元町駅。繁華街の元町辺りだと歩いて10分ほど。時間に余裕があれば、たいてい元町界隈に繰り出す。ご存知の通り、この界隈は、中華をはじめ、美味しい店が多いが、なぜかその当時は、お好み焼き屋か居酒屋で飲み食いしていた。連れ立って行くのは、総局長と両次席、3席、そして、遊軍記者だ。だいたい4、5人というパターンだ。

たまには私を誘って! 文句あるんだから

 まあ、いつもほぼ同じメンバーなので、取り立てて新しい話題はないのだが、よく行った。ある日、遊軍の女性記者が飲食途中に噛みついてきた。
 「デスクはいつも、男の子ばっかりと飲みに行って! たまには私も誘ってくださいよ。いっぱい文句があるんだから」。いや、参った。正直言って、この記者、ちょいと苦手だったんだよな。しかし、こう言われたら、後には引けない。もう1人の次席Kさんに応援を求めたが、体良く逃げられてしまった。仕方ないので、三ノ宮東門街の行きつけのスナックに連れて行った。
 少し酔っていたのか、彼女はガンガン文句を言った。日付がかわっても続いた。隙を見て総局に応援を求めたが、誰も来ない。ようやく1時過ぎに、件のM記者が現れた。やっと帰れる。それから1時間ちょい、彼女の愚痴を聞いて、解散となった。まあ、こんな風に何にもない夜も同じように更けて行くのだが。この飲み食いの場所で、いい記事のヒントになることが多い、と今でも都市伝説のように信じている。今の若い記者には信じられないかもしれないが。

3度目の「1.17」の連載記事

 こんな日々を過ごすうちに、3度目の1.17が巡って来る。当時、読売新聞大阪本社では記念日を迎える1か月以上も前から硬軟、いわゆる硬い記事から、社会面で取り上げる柔らかい記事の連載の準備を始める。当時は、硬派連載を主に地方部、軟派を社会部が受け持っていた。社会部では現在、大阪読売の専務を務める足達新さんらが、連載担当のキャップとして、12月中頃から神戸総局に毎日のように出勤して来て、彼らが社会部や地方支局の記者を選抜した取材チームを組んで、約1か月以上、神戸に出張宿泊して、取材を続けた。その中では、姫路支局にいたN記者や福井支局から来たH記者らの顔が浮かぶ。  

震災3年目の連載記事など

 そんな風にコツコツと積み上げた連載記事は、概ね7回〜10回程度1月17日の前後に掲載される。そんな記事を一挙写真でお見せして、神戸総局編を締めたい。あっ、一つ大事なことを書き忘れていた。かくのごとく、めちゃくちゃ忙しい最中、信じられないような事件も起きた。流石、神戸だ。それは、少年事件が一段落着いた8月末に起きた。やっと遅い夏休みを取っていたデスクや記者も何人かいた。

山口組№2が神戸のホテルで射殺された

山口組若頭射殺、安富デスクの顔色うかがう記者たち

 1997年8月28日午後3時過ぎ、神戸市中央区の新神戸オリエンタルホテル4階ロビーで、指定暴力団山口組若頭の宅見勝・宅見組組長(当時61歳)が、4人の男に射殺され、隣の席にいた歯科医師(当時69歳)が巻き添えで死亡した。神戸らしいと言えばらしい事件が起きたのだが、連続少年殺傷事件が一段落し、ようやく遅い夏休みを取っていたデスクや記者も多く、旅先で事件を知った彼らは連絡を取り合い、「安富さんにどうやって連絡を取ろうか? すぐに帰らないといけないか」などと相談していたらしい。それほど、権力を振りかざしていたのか? 筆者は。
 改めて、ごめんなさい。(つづく)

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