人と防災未来センターでの1年間の調査研究員での生活が終わった2006年7月、読売新聞大阪本社に戻った。憧れの災害担当編集委員として。
記者のなれの果て
この編集委員というポジションは一般的にあまり知られていないので、ひとくさり。
よく、講演会などで、「編集委員ってどんな仕事してると思いますか?」と聴衆の方に聞くと、「社説を書いている人」とか「紙面を編集している人、つまり編成マン」と言われる。
どちらも間違いです。そこで、筆者はこう説明して、笑いを取る。
「記者の成れの果てです」と。
テレビの解説委員に似ているか?つまり、ベテランの専門記者である。 ほとんどの記者がヒラの記者からデスクになって、次長、部長とライン職になり、編集局長とか人事部長や総務局長と出世して行くのと違って、記者に戻って定年を迎える。
筆者も地方部次長になった頃は、やがては部長、局長になるものだと思っていた。 しかし、その思いが次長時代に次第に変わった。
「沈まぬ太陽」の「熊のような記者」
一つは、ライン職で出世して楽しいのか?と先輩たちを見て、疑問を抱いたからだ。もう一つは、丁度この頃、関東大震災(1923年)から80年を迎えて、東京本社で連載企画をやるというので、応援に行った。その時、中心になって取材していたのが、編集委員の鶴岡憲一さんだった。
大阪本社の同僚の記者から、「すごい編集委員がいる」と教えられて東京本社に行ったのだが、正直、第一印象は、敏腕編集委員にはとても見えなかった。もっさりした感じで、言葉使いもイマイチだった。
しかし、こちらの意見を良く聞いてくれたし、連載のさばき方も非常に素晴らしかった。
言葉数は少ないが、彼が日航機墜落事故いわゆる御巣鷹山事故の時に、社会部の運輸省担当記者で、以来ずっとこの事故を追っていることを話してくれた。山﨑豊子の小説「沈まぬ太陽」に、熊のような記者だが、鋭い記者のモデルになって登場し、後書きで山﨑さんから実名で感謝されているほどだ。
まあ、こう書いてしまえば、筆者がライン職で出世できたのに、自分から編集委員を選んだように聞こえるが、そんなカッコ良いものでもない。最近会った先輩記者は逆に「首になるような情報もあった」と言うから、上司が編集委員にしてくれた、というのが本当のところか。
災害・防災・減災取材の日々
兎に角、筆者にとっては、久しぶりにやりがいのある部署だった。人と防災未来センターで培った人脈を生かせるし、わずかながら始めた災害情報の研究も続けられるからだ。毎日あくせくして記事を書かなくても良い。ルーティンは、月に一度くらい回って来るコラム欄の執筆くらい。好きなテーマを追いかけて、取材して執筆したものを解説面に掲載するのが主な仕事だった。
当然、災害、防災・減災に関係するものばかり書いた。これが後に、編集委員を辞めさせられる原因になったのだが、それは後で。
2006年は、地震、水害等そんなに大きな災害はなかった。

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