大阪市長への「提言書」は黙っていた自分への怒り−−「平凡な校長」の卒業論文           久保敬(小学校校長)

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大阪の公立小学校で校長をと詰める久保敬氏

某市立小学校に勤める久保敬です。居酒屋「風まかせ」が大阪・真田山にあったころから時々行っていたので、カンコさんとは20年ぐらいのお付き合いでしょうか。目立たない「ふつう」の教員が今は「平凡」な校長をしています。そんなぼくですが、大阪市長へ提言書「豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために」を出したことで注目を集めることになりました。きっと、カンコさんも驚いたんじゃないでしょうか。

目次

10年続く、笑顔を奪う市長のトップダウン

2021年4月19日、緊急事態宣言に伴い、市長が突然、全面オンライン授業を行うと報道発表をしました。昨年度末の突然の一斉臨時休校の際も、市長による報道発表で初めて学校が知ったように、これまでにも何かにつけて同様のことが起こっていました。

振り返れば、この10年ほどの間に、トップダウンでどんどん決められていく業務に追われ、絶えず「競争」に晒されているような状況に教職員の笑顔は減り、教育という仕事に対するモチベーションが薄れていくのを感じてきました。

そして、2020年早々、予想もしなかった新型コロナウイルスの感染拡大。暑い夏のマスク、冷たい冬の手洗いや部屋の換気にも耐え、様々な制約のある中、新しい生活様式に合わせて、けなげに頑張る子どもたちがいます。それなのに授業時数の確保や学力調査にこだわり、子どもを追い立てようとする。誰のための何のための教育なのか。

大阪の公立小学校で校長をと詰める久保敬氏

政治主導の教育が問題だ!

オンライン学習の環境が整っていないことが問題なのではなく、政治主導の教育のあり方そのものの問題なのだという怒りの噴出がこの「提言書」でした。それは、市長に対してではなく、「いつか政治や時代の流れが変わるはず、それまでの辛抱」と思考停止し、黙ってきた自分への怒りだったのだと思います。

子どもたちには、たとえ自分一人の意見だったとしても、おかしいと思ったことは「おかしい」と言う勇気を持とうなどと言っておきながら、自分自身はどうなのか、このまま定年退職を迎えたらきっと後悔するという気持ちになりました。

ただ、市役所宛に郵送しても市長の手元に届くとは、正直思っていませんでした。自分を納得させるための提言書でしたが、郵送したと言っても何の証拠もありません。

誰かに証人になってもらおうという気持ちで、4月16日の夕方、3人の先輩の元教員にラインで提言書を送りました。それがネット上で一気に拡散し、4月18日の夜にはヤフーニュースに載り、教育委員会の知るところとなったようです。ちなみに郵送した提言書は、4月18日の昼頃に配達されていたことを、教育委員会は後で確認したとのことでした。

「先生、辞めないで」「先生から卒業証書がほしい」はげまし続々

朝日新聞をはじめメディアで大きく取りあげられ、ネット上でも大きな反響がありました。市長の記者会見での「発言内容ではなく、決められた仕事をしていなければ処分される」という発言もあり、心配した保護者や子どもたちが、たくさんのメッセージを寄せてくれました。

心配した6年生の子どもたちが「先生、辞めないでください。先生から卒業証書をもらいたいです」と言いに校長室に来てくれました。騒ぎが大きくなったので、嫌がらせの電話などが学校にかかっていないか心配してくださる方もたくさんいましたが、おかげさまで、ほとんどが共感や励ましのお電話で、バッシングの電話は3人ほどでした。中に“松井の友だち”というしつこい人はいましたが。

また、今までに、大阪だけでなく、全国から励ましや共感のお便りを100通近くいただきましたが、嫌がらせの手紙は1通もありません。

久保敬校長の元に届いた手紙

いろいろな所から講演のご依頼をいただくようになり、都合がつく限り話をさせてもらっています。「生き抜く教育ではなく、生き合う教育を」「競争ではなく協働の社会を」という想いを多くの人と共有し、子どもたちの未来のために学校はどうあるべきかという話し合いがあちこちで盛り上がってくれることを願っています。

「校長の提言書は政治活動だ」市長発言こそ教育への政治介入

6月24日、顛末書についての教職員人事・服務観察担当課長の聞き取りがあり、8月20日、教育公務員としての職の信用を傷つけたとして大阪市教育委員会より「文書訓告」を受けました。「他校の状況を斟酌することなく、独自の意見で、教育委員会の対応に懸念を生じさせ、関係教職員らの努力を蔑ろにした」とその理由が書かれてありましたが、「独自の意見」がダメだというなら、何も言えなくなってしまうのではないでしょうか。

提言書を出したことには何の後悔もありませんし、「文書訓告」をいただき、むしろ今はすっきりとした気分です。市長が記者会見でぼくの文書訓告について質問を受けた時、「校長のしたことは政治活動だ。大阪市の方針に従えないのなら、市長になって教育行政基本条例や学校活性化条例を変えればいい」というようなことを言われていました。

ぼくは、自分を育ててくれた大阪の教育の中で培った教育的信念に基づいて自分の思いを述べただけであって、それが政治的なものとして捉えられるのだとしたら、それこそが、政治の介入により教育が独立性を失っていることの証ではないかと思います。

教育委員会には、オンライン授業をめぐっての今回の一連の対応にきちんと向き合い、港中学校の名田校長先生が取りまとめられた255人の意見書など保護者や市民から出された疑問や怒りの声に、誠実に答えていただきたいと思っています。

「文書訓告」は定年前に受け取った合格通知

ある学習会でお話しさせてもらったとき、元高校教員の大先輩の方から、「あの提言書は、あなたの教員としての『卒業論文』ですね」と言っていただきました。うれしかったです。「文書訓告」は、その論文の合格通知だと思っています。その言葉を誇りにして、来年3月の定年退職までの残された限りある時間を大切にし、コロナ禍の重苦しい今だからこそ、子どもたちと泣いたり笑ったりしながら、共に生きる喜びをかみしめたいと思います。

勇気くれた全国の人とつながりたい!

定年退職後、コロナ禍が収まったら、共感や励ましをいただいた全国方々を訪ねて回り、直接お会いして、お話ししたいと考えています。本当に人生何が起こるかわかりませんね。せっかくですから面白がって、第2の人生を歩みたいと思います。「風まかせ」で飲んだくれたりしていたら、「しっかりしろ」と声をかけてやってください。

 

○久保敬さんの「提言書」はこちらです。

 

<大阪市教育行政への提言  豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために>

 

子どもたちが豊かな未来を幸せに生きていくために、公教育はどうあるべきか真剣に考える時が来ている。

 

学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している。そこでは、子どもたちは、テストの点によって選別される「競争」に晒(さら)される。そして、教職員は、子どもの成長にかかわる教育の本質に根ざした働きができず、喜びのない何のためかわからないような仕事に追われ、疲弊していく。さらには、やりがいや使命感を奪われ、働くことへの意欲さえ失いつつある。

今、価値の転換を図らなければ、教育の世界に未来はないのではないかとの思いが胸をよぎる。持続可能な学校にするために、本当に大切なことだけを行う必要がある。特別な事業は要らない。学校の規模や状況に応じて均等に予算と人を分配すればよい。特別なことをやめれば、評価のための評価や、効果検証のための報告書やアンケートも必要なくなるはずだ。全国学力・学習状況調査も学力経年調査もその結果を分析した膨大な資料も要らない。それぞれの子どもたちが自ら「学び」に向かうためにどのような支援をすればいいかは、毎日、一緒に学習していればわかる話である。

現在の「運営に関する計画」も、学校協議会も手続き的なことに時間と労力がかかるばかりで、学校教育をよりよくしていくために、大きな効果をもたらすものではない。地域や保護者と共に教育を進めていくもっとよりよい形があるはずだ。目標管理シートによる人事評価制度も、教職員のやる気を喚起し、教育を活性化するものとしては機能していない。

また、コロナ禍により前倒しになったGIGAスクール構想に伴う一人一台端末の配備についても、通信環境の整備等十分に練られることないまま場当たり的な計画で進められており、学校現場では今後の進展に危惧していた。3回目の緊急事態宣言発出に伴って、大阪市長が全小中学校でオンライン授業を行うとしたことを発端に、そのお粗末な状況が露呈したわけだが、その結果、学校現場は混乱を極め、何より保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている。結局、子どもの安全・安心も学ぶ権利もどちらも保障されない状況をつくり出していることに、胸をかきむしられる思いである。

つまり、本当に子どもの幸せな成長を願って、子どもの人権を尊重し「最善の利益」を考えた社会ではないことが、コロナ禍になってはっきりと可視化されてきたと言えるのではないだろうか。社会の課題のしわ寄せが、どんどん子どもや学校に襲いかかっている。虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。10代の自殺も増えており、コロナ禍の現在、中高生の女子の自殺は急増している。これほどまでに、子どもたちを生き辛くさせているものは、何であるのか。私たち大人は、そのことに真剣に向き合わなければならない。グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言うが、そんな社会自体が間違っているのではないのか。過度な競争を強いて、競争に打ち勝った者だけが「がんばった人間」として評価される、そんな理不尽な社会であっていいのか。誰もが幸せに生きる権利を持っており、社会は自由で公正・公平でなければならないはずだ。

「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。そうでなければ、このコロナ禍にも、地球温暖化にも対応することができないにちがいない。世界の人々が連帯して、この地球規模の危機を乗り越えるために必要な力は、学力経年調査の平均点を1点あげることとは無関係である。全市共通目標が、いかに虚しく、わたしたちの教育への情熱を萎えさせるものか、想像していただきたい。

子どもたちと一緒に学んだり、遊んだりする時間を楽しみたい。子どもたちに直接かかわる仕事がしたいのだ。子どもたちに働きかけた結果は、数値による効果検証などではなく、子どもの反応として、直接肌で感じたいのだ。1点・2点を追い求めるのではなく、子どもたちの5年先、10年先を見据えて、今という時間を共に過ごしたいのだ。テストの点数というエビデンスはそれほど正しいものなのか。

あらゆるものを数値化して評価することで、人と人との信頼や信用をズタズタにし、温かなつながりを奪っただけではないのか。

間違いなく、教職員、学校は疲弊しているし、教育の質は低下している。誰もそんなことを望んではいないはずだ。誰もが一生懸命働き、人の役に立って、幸せな人生を送りたいと願っている。その当たり前の願いを育み、自己実現できるよう支援していくのが学校でなければならない。

「競争」ではなく「協働」の社会でなければ、持続可能な社会にはならない。

コロナ禍の今、本当に子どもたちの安心・安全と学びをどのように保障していくかは、難しい問題である。オンライン学習などICT機器を使った学習も教育の手段としては有効なものであるだろう。しかし、それが子どもの「いのち」(人権)に光が当たっていなければ、結局は子どもたちをさらに追い詰め、苦しめることになるのではないだろうか。今回のオンライン授業に関する現場の混乱は、大人の都合による勝手な判断によるものである。

根本的な教育の在り方、いや政治や社会の在り方を見直し、子どもたちの未来に明るい光を見出したいと切に願うものである。これは、子どもの問題ではなく、まさしく大人の問題であり、政治的権力を持つ立場にある人にはその大きな責任が課せられているのではないだろうか。

 

 

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