能登2011〜24①集団脱出のムラ(輪島市門前町深見)

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 2024年1月1日、能登半島を震度7の地震がおそった。私は被災した輪島市に、朝日新聞輪島支局長として2011年から4年間駐在していた。今回の地震で、私が取材した多くの集落が孤立し、無人の里になった。このままではいくつものムラが消えてしまうのではないか? そんな状況で自分になにができるのか? 大手メディアの物量作戦には対抗すべくもない。やれるとしたら、かつて私が見た能登の魅力と、被災後の再生を追うことではないか−−。
 とりあえず、2月10日から12日にかけて奥能登を再訪した。まずは輪島市門前町の県道のどんづまりにある小さな集落・深見から紹介したい。ここは2007年の地震でも今回も、道路の崩壊で孤立し集落ぐるみの脱出を余儀なくされた。(年齢は2012年の取材当時)

目次

船員のムラが孤立、団結して集団避難

海岸道路のどん詰まりの深見。2007年も2024年も道路わきの岸壁が崩れて孤立した

 標高200メートルの絶壁に立つ猿山灯台周辺には3月末、白や薄紅色の雪割草が咲きほこる。登山道の入口にあたる深見は、毎年この時期だけは多くのハイカーでにぎわう。
 2007年3月25日、区長の板谷弘さん(77歳)は雪割草見学の登山客の受け付けをしていた。突然ドーンとつきあげられ、経験のない揺れが襲った。
 集落の約80人は3カ所の高台に避難した。北海道南西沖地震(1993年)の津波で漁船が防波堤にのりあげたことがあるからだ。まもなく「津波は50センチ」との予報がはいり、人々は漁港にあつまった。
 突然、数百メートル先の崖がくずれ、巨岩が轟音とともにころがり落ちて2車線の海岸道路をふさいだ。山越えの細い道も土砂や倒木で埋まり、集落は孤立した。
 板谷さんは漁業会社の漁船をよび、約60人が4トンの漁船に乗って2キロはなれた鹿磯(かいそ)港に脱出した。
 男性約20人は集落にのこり、山側の道の土砂や倒木を除去し、軽自動車がとおれるようにした。亀裂がはいった崖にはビニールシートを張った。だが2日後、市役所から全員退去するようもとめられた。
 深見の住民は市内の避難所で1カ月暮らしたあと、約7カ月間を仮設住宅ですごした。そのころ仮設住宅や避難所で深見の住民と接した男性は「門前はどの集落もまとまりがあるが、深見は、清掃も炊事も手際よく分担して抜群の団結力だった」と評する。
「選挙でも全員の票がかたまる。地震はつらいことばかりだったが、団結心があるから区長しとってもやりやすかったよぉ」
 5年後の2012年に私が取材した際、板谷さんはそうふりかえった。

雪割草

全国の灯台を建設、戦後は船員に

 深見は1966年の海岸道路開通までは「陸の孤島」だった。地区内には分校しかないから、小学5年生以上は山道を1時間歩いて道下(とうげ)地区の学校にかよった。戦前は大半の住民が集落内で結婚していた。
 お宮の祭神は「赤ちゃん神様」とされる。年3回の祭りでは、生米をすりおろした「すり粉」を笹の葉の上にのせて供える。「貧乏なムラで鯛はあげられんから『精進神様』ってことになったんやろね」と板谷さん。
 海岸の清掃や山道の草刈りなどの「仲間仕事」が年4回あり、参加できない人は1日5000円の出不足金を支払う。こうした行事や会合は年20回を超える。
 平地がなく、急斜面に棚田を刻む半農半漁のムラだから、戦国時代末期には年貢にたえかねて全村が十数年間新潟に逃げた歴史をもつ。
 出稼ぎも戦前から盛んだった。1920年完成の猿山岬灯台の建設に総出で参加して技量をみとめられた深見の男たちは、北海道から沖縄まで全国20カ所の灯台建設に従事した。彼らは「田舎の農漁民」ではなく、先進的な仕事ができるトップレベルの技術屋集団だったのだ。
 戦後の一時期は肥料用のイワシ漁が盛んだったが、その後は働き盛りの男はこぞって船員になった。1977年には世帯主36人中26人を船員が占めた。
「船員は炊事も洗濯も自分でやる。定期的に防火訓練もする。団結が欠かせない生活の経験が、避難所での生活で役だちました」
 35年間貨物船で世界を航海した吉田勲さん(62歳)は話す。
 深見では毎月末、消火訓練をしている。非常用の飲料水を交換し、集会所を掃除する。東日本大震災後は津波を想定した訓練も実施した。
 輪島市周辺は1833(天保4)年に7.2メートルの津波に襲われ、市街地だけで207軒が流された。そのためか深見周辺の漁村の墓地は高台にもうけられた。だが高齢化で坂をのぼるのが大変になり、深見の墓はすべて平地におろされた。
「墓にあがれんからしかたないが、(東日本大震災の)津波を見て、昔の伝説は大事にせなだめやと思いましたね」
 板谷さんは語った。

板谷弘さん。後ろの崖が崩れ孤立した

避難所で生きた「婦人消防隊」の経験

 岡山県出身の六田貞子さん(58歳)は1973年、20歳で深見にとついできた。2キロ南の鹿磯(かいそ)までは舗装道路だが、そこからは車のすれちがいもむずかしい土の道だった。
 あまりのへんぴさに「だまされた」と思った。
「せめて鹿磯に住もう」と何度もたのむ貞子さんに夫は言った。
「鹿磯にでたら(さらに人が多い)道下(とうげ)にでたくなり、次は金沢に行きたくなるにきまっとる」
「おなかに赤ちゃんがいなかったら絶対わかれてた」と六田さんは笑う。
 深見は、谷沿いのわずかな平地に折り重なるように民家がつらなり、江戸時代には大火で全集落が焼けたこともある。1966年に海岸道路が開通するまでは消防車もたどりつけなかった。働き盛りの男は船員だから集落にいない。そこで留守をあずかる女性が58年に「婦人消防隊」を結成。2台の軽便ポンプで放水訓練を毎月かさねてきた。

 2007年3月25日に能登半島地震がおきると、消防士だった六田さんの夫はその日のうちに漁船に自転車をつんで出動した。
「おらっちをおいていくんけ!」
 貞子さんが不満をもらすと
「仕事やさけぇ行かんならん!」と言って家をでて、1カ月間帰ってこなかった。
 最初に避難した門前西小学校体育館には、200人超の避難民がつめかけた。救援物資がとどくと他地区の区長は「50軒あるから水100本くれ!」などともっていくが、深見は区長が集落にのこったからまとめ役がいない。
「私らもほしいんやけど……」
 浜谷久美子さん(65歳)がとおずおずと切りだすと「あんたらは言わんさけぇ当たらん(もらえない)」と言われ、悔しい思いをした。
 数日後、深見の住民は阿岸公民館にうつった。自らも被災したのに家族をかえりみず、食事の分配や清掃にあたる市職員を見て、六田さんが提案した。
「みんな大変なのはいっしょ。できることは自分たちでしよう」
 元気な女性を4人ずつ7班にわけ、当番の日は朝5時に起きて食事をつくり、総菜用に山でミズブキやワラビを採ってきた。部屋掃除や仮設トイレの消毒もになった。親類などから差し入れがあると等分にわけて「○○さんの娘さんからミカンをいただきました」と紹介した。運動不足解消のためラジオ体操もした。
「公民館では深見の人だけになり、避難生活が快適になりました」
 集落単位で避難する意義を六田さんは強調する。
 男手がない集落で「婦人消防隊」などの活動をしてきた経験が、深見の女の結束力を生みだした。でも六田さんは笑いながらこう言う。
「夫以外の男には強いけど、夫には絶対服従。私もパパがいたら(避難所を)しきるなんてできなかった」
 元船員の夫をもつ浜谷さんは「たまに帰ってくると朝昼晩ごちそうつくって大事にする。普段いないからなおさら夫を立てるんよ」と笑った。

平均年齢74歳でも「ワンチーム」

 抜群の結束をほこった深見でも高齢化は深刻だ。かつて標高200メートルの猿山岬灯台の直下まできざまれていた棚田は森にかえった。最後まで田をつくっていた3軒も2007年の地震で水管理ができなくなり、耕作をやめた。「火の用心」を呼びかける「夜番」は「年寄りが川にでも落ちたらかえって危ない」と07年ごろに休止した。
「平均年齢は70を超え、あとは櫛の歯が抜けるようになるんでしょうが、いざという時には体が不自由な人を助けて避難できる形をつくっていきたいね」
 区長の吉田勲さん(62歳)は語った。

 8年後の2020年1月、日本居住福祉学会の研究集会で深見をたずねた。集会所には、ほぼ全世帯の計31人が参加した。
 8年間で戸数は4戸減り29世帯に、人口は17人減の56人、平均年齢は74歳になったが、団結力と人々の独特の明るさはかわらない。最近も車庫の火災を自分たちで消しとめたという。
「深見はどんな大変なときでも一致団結してあがってきました。ラグビーW杯のようにワンチームで対処できることが一番よいところです」
 区長は誇らしげにあいさつした。
 「船員」が育んだ力は高齢化とともに衰えつつある。住民が死ぬまで深見に住みつづけるには、ヘルパーや訪問看護師などの充実も欠かせない。でも団結力がある深見は、ほんの少し公的制度で下支えすれば、高齢化になやむ全国のムラのモデルになりうるのではないかと私には思えた。

北前船の船主の集落・黒島

 深見の3キロ南、海沿いの高台に開ける黒島地区は、北前船の船主や船員(船頭や水主)の居住地として、江戸後期から明治にかけて栄えた。
 「黒瓦」「格子」「下見板張り」という特徴をもつ町並みは重要伝統的建造物群保存地区であり、とりわけ旧角海(かどみ)家住宅は廻船問屋の住宅として国指定重要文化財に指定されている。2007年の地震で大きな被害をうけて輪島市に寄贈され、3億4200万円かけて解体・復元工事がほどこされ、2011年7月に完成した。
 黒島地区は2007年の地震で3分の1が半壊以上と判定され、約200人が高台の公民館に避難した。その経験をふまえ、09年に輪島市で最初の自主防災組織を立ちあげた。
 北前船以来の伝統で、黒島地区には昭和40年代は二百数十人の船員がいた。
 船員は自分で炊事も洗濯もする。集団行動もなれている。避難生活をおくった公民館では、かつて商船のコックをしていた男性5,6人がの炊き出しを担当した。夫の留守を切り盛りしてきた女性は、高齢者の安否確認や家の片付けを男性にたよらず手際よくこなした。
 2012年まで10年間区長をつとめた川端一人さん(76歳)も57歳まで外国航路の船乗りだった。
「給水時間やごみ収集日の伝達など、組織的な動きが得意で助かった。今の自主防災組織のメンバーも大半は元船員です」
 だが、江戸時代以来の船員文化は失われつつある。黒島の船員は2012年で最後の1人が退職した。過疎もすすみ、06年に228世帯479人だったのが13年は209世帯397人。高齢者の割合は7割を超えた。(2020年1月は176世帯304人)
 09年3月、輪島市役所の勧めで町内会長ら21人で自主防災組織を発足させた。阪神大震災後にできた防災士の資格をとる研修も毎年数人が受講している。消火や倒壊家屋からの救出の訓練を実施し、避難所運営の方法をまなび、原発事故を想定した訓練にも参加した。
「自主防災で対応できるのは安否確認や要介護の人のお世話、避難所の運営ぐらい。でも定期的に訓練をすると災害や事故のこわさを実感できる。高齢化がすすんでいるからなおさら、組織での訓練が大切だとかんじています」と川端さんは話す。

被災高齢者の健康を守った保育園

大倉さんのつくった花畑。奥の下見板張りの家が大倉さん宅

 2007年の地震の際、旧輪島市では多くの市職員が役場に泊まりこんで対応したが、当初は末端の集落まで手がまわらなかった。一方、06年まで独立した町だった門前地区では、民生委員が要介護者の寝室の位置などをしるした「地域みまもりマップ」を毎年更新していた。このマップをもとに安否を確認し、がれきのなかから高齢者を救出した。公民館や老人ホーム、保育所、国民宿舎などの公共施設が避難住民の健康を守った。
 当時「くしひ保育所」の所長だった大倉好子さんは自宅が半壊となったが、勤務先の保育所に150人の避難者をうけいれた。保育所には床暖房や調理室があり、間仕切りもある。隣家の畑から野菜をわけてもらって調理し、お年寄りの便秘をふせいだ。「ホテルのようにすごしてもらおう」と、朝はクラシック音楽を流した。「なんで住民をうけいれたんぞ!」と怒る上司とけんかしながら10日間、避難所を運営した。
 能登半島地震で「関連死」をださなかった理由として、田舎ゆえの人間関係の強さと、快適な公民館や福祉施設の存在が指摘されてきた。だが深見や黒島の住民の行動力の背景には「普通の田舎」とは異なる「船員」の文化があった。また、良質な公共施設だけではなく、その施設を住民のために生かそうと奮闘した人権意識の高い職員がいたのである。
 2007年の地震で大倉さん宅は半壊で、隣家は全壊だった。隣家の跡地は更地になった。
「草が生えて、私には面倒みられん、大倉さん、畑さし(畑をやって)」
 そうたのまれ、埋まっている石やコンクリート、瓦などを何百回もはこんで処分した。買ったばかりの新車ヴィッツはボロボロになった。
 6月、花屋さんからゆずられた30種4000本の苗を植え、花が咲きはじめると、壊れた自宅と仮設住宅を往復する住民もたちよるようになった。
 その年の秋、被災住民の癒やしを願って「いきる」という花文字をつくった。2年目は「かんしゃ」とした。近所の人からベンチや天使の彫像などの寄付が相次ぎ、入口には「Welcome」の看板をかかげた。ベンチがあるから、近所の人があつまっておしゃべりするミニ公園になった。

2024年正月、深見はふたたび孤立

2011年の鹿磯漁港
2024年、海底が隆起した鹿磯漁港

 2024年1月1日、震度7を記録する大地震が能登半島を襲った。どんづまりの集落・深見はふたたび孤立した。
 2月10日、私は深見への県道をたどったが、2キロ手前の鹿磯で通行止めだった。
 2007年には深見の住民はこの鹿磯まで船で脱出した。
 今回はどうしたのか。
 テレビの報道によると、地震から6日目、区長が集落の住民をあつめ、「自衛隊のヘリコプターでの救助が決まった」と告げ、「はなれたくない」と訴える人にたいして、「慣れ親しんだ場所だが、余震で崖がくずれかねず、危険だ。命の危険がせまっている」と説得し、全員いっしょに集落をはなれた。
 今回はなぜ船をつかわなかったのか?
 海を見てすぐにわかった。
 志賀町から輪島市門前町にかけての海には、天然の岩海苔を収穫するコンクリート製の「のり島(のり畑)」がつくられている。それらが軒並み「陸」になり、乾燥している。砂浜を守るため沖合にしずめた消波ブロックも陸になっている。海岸線が100メートル以上後退したのだ。
 そして鹿磯港は3.6メートル隆起して海底の一部が露出し、漁船が何隻も座礁していた。これでは船をだすことはできない。
 重要伝建地区の黒島も、2007年を超える被害だ。07年の地震で角海家の主屋(おもや)は形をたもっていたが、今回は完全につぶれた。

黒島の天領祭り 左が北前船の船主屋敷・角海家の主屋、右は下見板張りの民家(2012?)
2024年2月、左のつぶれた家が角海家の主屋

2007年にのこった家は壊滅

 前述の大倉さんがすむ住宅地・道下(とうげ)地区にはいって息をのんだ。
 2007年の地震以降に建て替えられた家はのこったが、07年にたおれなかった古い家は軒並みつぶれている。
 大倉さんの家が見つからない。かたむいた家の整理をしていた男性に案内してもらうと、1階がつぶれ、2階がななめに地面に突き刺さっていた。私設公園の彫像も横倒しになってころがっている。大倉さん夫妻は無事で、金沢方面に避難しているらしい。数百軒あるこの地区で今も自宅に寝泊まりしているのは2月11日現在、5軒ほどだという。(つづく)

全壊した大倉さん宅。左が私設公園
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コメント

コメント一覧 (2件)

  • みんなげんきジム米田和正です、3月20日から能登に入りますので、記事をしっかり拝読いたします❗阪神淡路大震災を西宮市神楽町で体験しみんなげんきジムを避難所として開放いたしました。多くのボランティアの皆様の支援を受け今があります。その後東日本大震災、熊本地震、ネパール地震、シリアトルコ地震と微力ですが後方支援を含めてボランティアをして参りました。
    3月20日から能登に入りますので、風まかせ情報ありがたいです

    • 今ごろは能登でしょうか。多くの被災地でのボランティア、頭が下がります。
      私は一昨日まで能登に出かけていました。
      お帰りになって、お時間があれば、活動内容を「月刊風まかせ」に書いていただけたらうれしいです。(藤井)

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