ドキュメンタリー映画「「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち」トークイベント 原告遺族と監督を迎えて 文箭祥人(編集担当)

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東日本大震災発生から11年後の2022年3月11日、大川小学校に、追悼と未来への想いを込めて84本の竹あかりを灯す「第1回大川竹あかり」が行われた。冒頭の写真(©2022 PAONETWORK INC.)は、原告遺族の紫桃隆洋さんが自宅近くで、「竹あかり」の試作品をつくっている様子を映したもの。「第2回大川竹あかり」は今年3月11日、実施される。

2月25日、大阪・十三の第七藝術劇場で「「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち」上映後、原告遺族の只野英昭さん、寺田和弘監督が登壇した。このトークイベントの内容を報告します。

目次

石巻市・大川小学校が津波に襲われた2011年3月11日から、最高裁の決定が出る2019年10月10日までを振り返る

大川小学校を襲った津波

14:46  東日本大震災発生

14:50頃  大川小学校児童は校庭に移動し、そのまま校庭に待機

 :52  大津波警報 防災行政無線(予測津波高6m)

15:10頃  大津波警報 防災行政無線(2回目)

 :20頃 消防車「高台避難」呼びかけ 大川小学校前を通過

 :28頃 石巻市広報車「追波湾の松林を津波が越えた」と「高台避難」呼びかけ、大川小学校前を通過

※追波湾から大川小学校までは直線距離で3.7キロ 追波湾には堤防がない

 :35頃 「三角地帯」への移動を開始

※「三角地帯」は大川小学校の横を流れる北上川の河川堤防付近のこと

 :37頃 大川小学校に津波到達

津波に襲われた大川小学校 ©只野英昭

大川小学校の児童・教職員の被災

児童数:108人 死亡:70人 行方不明:4人 津波に巻き込まれ生存:4人 帰宅などで生存:30人 行方が依然として不明のままの親はわが子を探し続けている。

教職員:13人 死亡:10人 津波に巻き込まれ生存:1人 帰宅などで生存:2人

大川小学校 津波裁判の経緯

遺族は「走れば1分で駆け上れる裏山があるのに、どうして先生たちは裏山に避難させなかったのか」、「学校で何があったのか」、「わが子が津波の犠牲になったのはなぜなのか、どうしてこんなことが起きたのか」を知りたいと願い、石巻市教育委員会に対して、保護者説明会を開くよう求める。

2011年4月 石巻市教育委員会が遺族・保護者への説明会を開く。2014年3月まで計10回開催。

この説明会で、石巻市長は「これは宿命だ」と言い、教育委員会は生存児童の聴き取り資料を廃棄した。

2013年2月 文部科学省主導による大川小学校事故検証委員会(第三者検証委員会)発足

2014年3月1日 大川小学校事故検証委員会が最終報告を石巻市に提出

検証委員会は、「校庭からの避難が遅かった」、「三角地帯に向かって避難した」ことが事故の原因だと結論付けた。遺族にとって、検証前から分かり切っていたことだった。石巻市は検証委員会の結論が出されたことをもって、事故の検証も説明も打ち切った。

遺族が求めた「なぜ」「どうして」は解明されず、遺族は裁判を通じて「真実」を明らかにする以外、取れる方法がない状況に追い込まれる。

法廷にのぞむ遺族たち ©飯考行

2014年3月10日 犠牲となった児童74人(54家族)のうち、23人の遺族(19家族)が石巻市と宮城県を提訴

2016年10月26日 仙台地裁判決 原告勝訴「現場過失認定」

2018年4月26日 仙台高裁判決 原告勝訴「平時からの組織的過失を認定」

判決は、「石巻市教育委員会、大川小学校校長らが組織全体として地震発生前に津波避難場所を定め、避難訓練をし児童の安全を確保すべき義務を負っていたにも関わらず、これを怠った」

2019年10月10日 最高裁 上告棄却・不受理決定 「平時からの組織的過失」を認めた仙台高裁判決が確定

遺族が撮影した膨大な映像から映画が生まれた

只野英昭さん(右)、寺田和弘監督(左)

映画「生きる」は、遺族が被災後から撮り始めた1000ギガバイトにも及ぶ膨大な映像を元にして、寺田監督が自身の取材と撮影映像を交えて再構成して制作したもの。寺田監督はこう話す。

「膨大な記録映像ですが、原告遺族の只野さんが撮影したものです。映画をつくるために撮影したのではありません。「あの日、何があったのか」を知りたいと思っていた只野さんは、石巻市教育委員会の保護者説明会や文科省主導の検証委員会の様子を記録するためビデオを回し続けました。それが1000ギガバイトという膨大な資料になりました。それを今回、まとめた形になっています」

「僕は、遺族の視点に立って、この映画をみてもらいたいと思って、作りました。先週、東京の映画館で上映が始まり、多くの学校の先生が観に来て、深く考えてくださっています。東京での最初の上映は、74人のお客さんでした。上映スタートにふさわしい数字かなあと思っています」

「この映画は、事実を記録した映像が元になっています。こうした事実が地元の人ですら理解されていない現状があります。本来であれば、まず地元でこの映画を観てもらって、と思うんですが、なかなか難しい状態があります」

只野さん

「地区で捜索している人や助かった人から、「事故の検証をすると、学校の責任を地域住民の責任だとされるから、検証するな!」と言われたことがあります。そう言われて、悔しかったです。逆でしょ。しっかり検証して何がいけなくて事故が起きたのか、それを明らかにしないと、多くの地域住民が亡くなったのは仕方がなかったよね、そうなるのを恐れました。だから、検証しないとダメだ、ふるさとのみんなのためにも検証しないといけない」

市も第3者委員会も、遺族の「なぜ」に応じない。そして裁判へ

裁判の記録係だったと言う只野さん。寺田監督は裁判について質問する。

寺田監督

「只野さんだけではなく、多くの原告のみなさんは、そもそも、裁判を起こそうと考えていなかったと聞きました。只野さんはどうでしたか」

只野さん

「被災後、噂に引っかき回されていた現状がいっぱいありました。自分は、あの日のことをしっかりと、どういう経緯で学校で娘が亡くなったのか、本当のことを知りたかった。別の遺族たちが集まって、裁判を起こそうとしているという噂がありました。それが事実か噂か確かめるために、その話し合いの場に行ってみたら、自分が知りたかった、「あの日何があったのか」を調べようとしている遺族の集まりでした。もちろん、自分もそのメンバーに入りました。遺族の中に検証メンバーと呼ばれている何人かがいますけれど、その最後のメンバーになりました」

只野さんは、長女の未捺さん(当時小学校3年生)、妻のしろえさん、父親の弘さんを津波で失う。長男の哲也さん(当時小学校5年生)は津波にのまれるが奇跡的に助かった。

寺田監督

「「あの日、何があったのか」を知りたいと裁判を起こしましたが、結局、裁判では答えがありませんでした。それでも、原告は控訴審判決で心ある判決だと言いますが、どういう思いからですか」

只野さん

「震災遺族となった我々弱者に対して助けてくれる人は誰もいませんでした。行政は責任を負う側なんで、向こう側です。第3者検証委員会が開かれましたが、第3者と言いますが、委員全員が向こう側でした。だから、どういう検証結果が出るかわかっていたので、検証委員会には反対していたんです。検証委員会から出てきた検証結果は遺族が検証したものとかわりませんでした。もっとひどくなりましたが。みなさんは、第3者検証委員会は正しくやられていると思うでしょうが、有識者と言われて参加した委員は、いろいろな専門家ですが、彼らは、自分の専門ではない部分を検証しました。すなわち、素人だったんです。だから、検証した部分は完璧な詐欺です。表向き有識者がやったからいいだろうと思うかもしれませんが、現実は、完璧な詐欺だったということです」

4人の生存児童のうち、メディアの取材に答えたのは只野さんの息子さんただ一人

只野英昭さん

寺田監督

「大川小学校の児童は、児童全員が亡くなってしまった家族もあれば、親御さんが迎えに来て家に戻った児童もいます。只野さんは息子さんが助かり、娘さんがお亡くなりになっています。被災者のみなさんは非常に複雑な状況にあります。唯一、只野さんは、遺族であり生存児童をもつということですが」

只野さん

「震災後、息子はいろいろなテレビや新聞に出て、「あの日、どうだったんだ」と話しました。もちろん、自分が息子の尻を叩いてあの日のことをしゃべれと言ったわけではありません。たしか、6月のNHKのインタビューの時だと記憶していますが、息子が、「起きたことを多くの人に知ってもらいたい」とカメラに向かって一生懸命、話していました。その様子を見ていた時、本来の親だったらそんなことを言われたくないと思いますが、自分は「お前が伝えたいというなら、いいよ、付き合うよって」、あの日からずっと、そうしてきています」

「NHKの「クローズアップ現代」で「生存児童がいる家族と遺族との間に壁がある状態だ」と話したと記憶しています。本当に、助かった子どもの親と遺族の保護者に壁があって、今までのコミュニケーションが全く絶たれてしまいました。遺族からすると、生き残った子どもは見たくないということがあります。生存児童の親からすれば、なかなか話しづらい。そういう見えないけれど、ものすごい壁があります。その間に、自分がちょうどいたんです。どうしたものかと思ましたけど、逆に間にいたからこそ、好き放題できるのかなあと思います。生存児童は4人しかいません。4人のうち、メディアにしゃべるのは息子しかいません。他の助かった児童の親御さんは、子どもを守ろうとして、語らせないようにしてしまったんです。そういう意味のはざまにいたという状態です」

多くの教育関係者が大川小学校を訪れ、「私だったらどうするか」と自問自答

寺田監督

「只野さんは語り部を大川学校でやられています。ポツンと立っている人に話しかけて、語り部を始めることがよくありますが、なぜ、そうしているのですか」

只野さん

「バスでやってきて、バスを降りるなり、大川小学校の目の前の山を見て、「なんで目の前に山があるのに逃げなかったのか」と言う人がいる一方、「山は急だもんね」と言って帰る人もいるんです。いやいや、我々遺族が言っている山は、そんな急なところではなくて、授業で登っていた緩やかな斜面のことです。「山は急だ」と言われて悔しいんですよ。ちゃんと登れる場所があるよ、と言いたい、それから語り部を始めました」

寺田監督

「どんな人が大川小学校に来ていますか」

只野さん

「ずばり、教育関係者です。今年の2月から特にです。卒業間近の大学4年生だとか、4月から教壇に立つという人とか、たくさん来ます。どうして来たんですかと聞くと、「311の時、自分だったら何ができるか、自問自答しにきました」と言う人がものすごく多いです」

只野さんは、話を続ける。

「大川小学校には当時、11人の先生がいました。そのうち10人が亡くなりました。助かった子どもに話を聞くと、半分ぐらいの先生は「山に逃げよう」と言っていたみたいです。結果的に避難の目的地として、川の方向を選んでしまった。どうして山に逃げないとだめだと大きな声で言えなかったのか。大川小学校に来る人来る人に話すんですけど、「生きるか死ぬかという時に、管理職の目の色をうかがって、言いたいことも言えないで、死ぬようなバカなことはやめてください。でかい声で山でなければだめだ、その一言を言ってください」。あの日も、半分くらいの先生が一緒になって、「山だ!」と言ってくれたら、それですんだ話なんです。それができなかった。検証委員会がしなければならなかったことは、津波の情報もあって、どうして目の前にある山に登らなかったのか、そこを検証しなければいけなかったわけです。被害を繰り返さないためにも、先生たちやこれから教員になる人に伝えるために、語り部をしています。もう一つ、同じ遺族になってほしくないからです」

寺田監督

「只野さんだけでなく、「同じ遺族になってほしくない」と多くの遺族が話します。遺族から「教訓にするために子どもを育てたわけではないけれど、こういう事態になってしまったら、せめて、教訓にしてもらいたい」、こういう言葉を聞きます。この「せめて」の意味を、できるだけ多くの人に感じていただければと思います」

震災時の浸水エリア想定、宮城県は「デタラメだった」

トークイベントは会場との質疑応答へ。

「地元の災害想定がそもそも、小さかったという意見がありますが、どう思いますか?」

只野さん

「ほぼ間違っていないと思うことを話します。想定されていた浸水エリアと実際に東日本大震災で浸水したエリア、宮城県と岩手県では全然、違いました。宮城県は激甘です。デタラメだったということです。例えば、自分の家が建っていた場所は、大川小学校から海側に直線距離で800mあったはずです。海抜は自分の家も大川小学校も1m12㎝です。自分の家は浸水エリアでしたが、大川小学校は浸水エリアではありませんでした。同じ海抜なのに、なんで!?と思った時、おそらく、学校を避難所にしたかっただけなんです。それどころか、もっと沿岸部にある地域の体育館はもっと低い海抜のはずが、浸水エリアではなかったのです。そういうところがいっぱいあります。それが被害を大きくした原因にもつながっていると思います」

寺田監督

「大震災から12年が経ったわけで、なぜ、そういう設定をしたのか、説明できるはずです。ところが、未だなされていません。これは非常に問題があると思います。それから、仙台高裁の時ですが、大川小学校より海側に暮らしている児童も多くいて、つまり、通学路のことですが、裁判官が「学校にいる時だけでなく、登下校の時も、学校の責任として子どもたちを守ると、なぜ言えないのか」と被告側にかなり質問していました」

只野さんの息子さん、「Team大川 未来を拓くネットワーク」を立ち上げる

会場から只野さんに質問。

「息子さんは、のびのび生きていますか。いろいろ大変な体験をして、人間不信や社会不信、そういうことがないように願うんですが、いかがでしょうか」

只野さん

「同じ質問をいろいろな人から受けます。生存児童の中で、あれだけメディアに出ているのは息子だけです。大川小学校の校舎が残っているのも、息子が「残してほしい」という声をメディアの人たちの協力を得て拡散してもらって仲間が増えて、最終的に残すことができました。あの日からあれだけ、いろいろなメディアに出たから、つらくなかったはずはないです。正直に言うと、忘れろ!しゃべるな!と言われた方がつらかったと思います。児童は4人助かっていますが、一人だけ津波にのまれなかったんです。3年生の男の子です。その子は本当のことを、石巻市の教育委員会に話しているんですけれど、証言は録音しないし、メモは廃棄するし、それでその子の証言はないものにされてしまいました。その子は母親ですら、あの日のことを聞いてくれなくて、その後もずっと、聞いてくれなかったんです。確か、中学1年生の冬から不登校になってしまい、今、引きこもりです。逃げれば逃げるほど、病みます。映画の最初に出てくる、生存教員の遠藤先生。遠藤先生は、最初は教育委員会に本当のことを報告しているようです。おそらく間違いないです。遠藤先生が心病んだのは、作文を渡されて、これ読んでおけ!これを話せ!後は出てくるな!そうして表に出られなくて、10年も生きていれば、十分病みます。俺は、むしろ、つらい時もあったかもしれないけれど、息子にしゃべらせて良かったと思います。ちゃんと、あの日のことを言葉にすることが、いかに大事か。まだまだ、話せていない子がたくさんいます。そのまま、大人になっていくのは危険だと心配しています。人それぞれ個人差があるし、向く方向も違うので、強要するものではないですが、できる人はこっちだよ、と手招きして導くことぐらいは、自分も息子もできるんじゃないかと思います」

只野さんの話が続く。

「はじめて会った人に「あの日どうだった?」とマイクを突き付けられたら、そのインタビューはストレスにしかなりません。でも、ちゃんと、普段の会話ができるような関係になってから、「あの日どうだった?」と聞くと、それは傾聴ケアになるはずです。息子には、親しくなってからでないと取材させないようにしていました。震災から3年後、息子が中学2年生の時、NHKだと記憶していますが、カメラに向かって言った言葉があります。「あの日、妹だったり、お母さんだったり、じいさんだったり、近所のおじちゃん、おばちゃん、いろいろなたくさんの別れがあったけれど、でも、あの日から、いろいろな人との出会いに自分は救われた」。こう言っていました。やっぱり、そうなんだ。いろいろな人との出会い、そこに救われた、俺もそうでした。息子は俺以上に感じていたみたいです。メディアの取材が傾聴ケアになって、つらいどころか、助けてもらった、実はそうなんです」

22歳になった只野さんの息子さん、哲也さんは去年2月、『Team大川 未来を拓くネットワーク』を立ち上げる。インスタグラムにはこう書かれている。

<私たちは東日本大震災当時の大川小学校の子ども達108人のいのちを真ん中に、子ども達の生きた証を次世代へ継承していくため発足し、活動しています>

只野さん

「先ほど話したように、息子は傾聴ケアに救われました。大川小学校の生存児童は、ほとんど傾聴ケアがなされていません。大川小学校だけではありません。被災地、特に宮城県。宮城県は「学校で震災のことをしゃべるな」とやっています。スクールカウンセラーを置いているみたいですが、毎週、人が変わります。それでは機能しないはずです。違う人が次々、担当するから信頼できる関係が築けず、子どもたちは言葉を発しませんよ」

会場から質問。

「映画のタイトル、「生きる」に込めた思いは?」

寺田和弘監督

寺田監督

「遺族からああしてくれこうしてくれと、ほとんど言われませんでした。そうした中、いわゆる遺族像、泣いて弱い存在の遺族像、そういうのは止めてほしい、ちゃんと事実を描いてほしい、それから、ちゃんと前を向いている姿も描いてもらいたいという声がありました。その通りだと思いつつ、本当に前を向いているというふうには僕自身、なかなか思えなかったんです。ずっと悩んでいました。最後の取材が最後のシーンになっていますが、原告遺族の今野浩行さんが高校生に話すシーンです。今野さんが「生きたい」と口にしたように聞こえました。実際は、後で聞き返すと、「生きようとしている」でした。翌日、原告遺族の紫桃隆洋さんに「昨日、今野さんが「生きたい」と話していましたが、どのような思いなんですか」と聞くと、「うちのおかあさんもいつも言っているけれど、子どもたちが生きたかった命を生きるということだと思いますよ、僕もそうですから」と話しました。それから、只野さんといろいろな話をしたり、他の方といろいろな話をしたことをずっと思い浮かべて、鍵かっこをつけて、「生きる」にしました。遺族の声として、大きな声ではないけれど、「生きる」が出てきたんじゃないかと思います」

●映画「生きる 大川小学校 津波裁判を闘った人たち」公式サイト

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〇ぶんや・よしと  1987年MBS入社。2021年2月早期退職。 ラジオ制作部、ラジオ報道部、コンプライアンス室などに在籍。 福島原発事故発生当時、 小出裕章さんが連日出演した「たねまきジャーナル」の初代プロデューサー

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