能登2011-24⑭先端のムラ、在来種の大豆で脚光(珠洲市・横山)

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 能登半島の北端ではかつて「大浜大豆」という在来種の大豆が栽培されていた。冬場には豆乳を海水でかためて熱々の寄せ豆腐つくり、囲炉裏端ですすった。高度経済成長をへて姿を消したと思われたが、村おこしの一環で復活。地域の活性化と絆づくりの切り札になっている。(取材は2011年)

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葉たばこ拡大で消えた品種

 能登半島北端の禄剛崎の西側に位置する珠洲市の横山集落は、約30軒の農家がそれぞれ5反(50アール)前後の田畑や出稼ぎで生計をたててきた。1997年、当時流行した「一村一品運動」に影響され、集落の全戸で「横山振興会」を結成した。
 だが、なかなか売り物の「一品」がきまらない。めだった活動もないまま2年がすぎたころ、昔、畑の大豆をしぼった豆乳を海水のにがりでかためて豆腐をつくり、納豆も手作りしていたことが話題になった。
「年寄りが元気なうちに昔ながらの知恵をつたえてもらおう」
 1999年、大豆の共同栽培をはじめた。四角くかためない「寄せ豆腐」や、稲わらで発酵させた藁苞(わらづと)納豆を調理する会をひらき、市内のイベントに出品するようになった。
 ところが2003年、低温と長雨で共同栽培の大豆が全滅してしまう。途方に暮れていると「うちにある豆をつかおう」と、ある農家が見なれない大豆を提供した。普通の大豆より大粒で黒いヘソがある。「大浜大豆」だった。
 二三味義春さん(64)は高校卒業後に2年間農協につとめた際、大浜大豆をあつかった記憶があった。県内でも高品質で知られていたが、収穫時期が11月半ばで通常の大豆より1カ月おそい。稲刈り後に男は出稼ぎにでるから、雪が散らつくなか、収穫などの重労働を女性がになわなければならない。そのため、10月中に収穫でき、県からの助成金もある奨励品種への植え替えがすすんだ。さらに1961年にはじまった葉たばこ栽培が拡大すると大豆畑は一気に姿を消した。二三味さんも、国営農地開発でできた畑8ヘクタールで葉たばこをつくるようになった。

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開拓地で大浜大豆をつくる二三味義春さん

 40年ぶりに大浜大豆を見た二三味さんは「これはおもしろいがじゃないか」とひらめいた。翌年、集落共同で、大浜大豆2キロを3反(30アール)まいた。次の年は9反に増やした。2006年には二三味さんは葉たばこの畑を一気に大浜大豆にきりかえた。たばこの需要減にくわえ、農薬の規制強化で従来以上に人手がかかるようになっためだった。
 収穫した豆のサンプルを京都や岩手のこだわり豆腐の店におくると「これはええ豆や」と評価され、取引がはじまった。市内のイベントでも寄せ豆腐や納豆が大好評で、毎回50万円を売り上げるようになった。
 売り上げ金をつかって年に1度、集落ぐるみで温泉施設などへ日帰り旅行をしている。以前は、集落全体があつまるのは祭りだけだったが、料理の試食会や地区の清掃など、なにかあればこぞってあつまるようになってきた。二三味さんはかたる。
「集落で旅行なんて今までは考えもしなかった。大浜大豆をつくるがになって、よけい仲良くなりました」
 集落旅行のある初夏の一日は、横山の集落はもぬけの殻になるという。

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原発の亀裂いやす「地豆腐」

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大浜大豆で豆腐をつくる=2011年、道の駅「狼煙」

 禄剛崎灯台(珠洲市狼煙町)のたもとにある道の駅「狼煙」の目玉商品は、大浜大豆と天然にがりでつくった1丁350円の「地豆腐」だ。豆乳ソフトクリームとおからドーナツをくわえた大浜大豆の3商品だけで、年間約2200万円を売りあげている。
 直売所や駐車場などの施設は、国の交付金を活用して珠洲市が1億6000万円かけて整備し、2009年春に完成した。運営をになう「株式会社のろし」は、大浜大豆を栽培する横山地区と、施設がある狼煙地区の98世帯のうち87世帯が計380万円を出資して設立した。

 かつて狼煙と横山の両地区は「水と油」の仲だった。
 狼煙には「能登最北端の地」として多くの観光客がおとずれ、人口も横山の倍。行政や農協の役職につく人も多い。横山側には「なんもかも狼煙にとられる」と反感をもつ人が多かった。一方、そんな横山の農民を狼煙側は「爪に灯をともすようにして小金をためるが、思い切りがなくて煮え切らん」「学校をつくるときも横山のもんは寄付もせん」などと評してきた。純農村の横山と、漁業や観光もある狼煙の気風のちがいだった。
 だが横山から見れば元気な狼煙地区も、衰退にあえいできた。観光客は最盛期の3分の1に落ちこみ、20数軒あった民宿は3軒に減った。
 そんななか、1970年代から「珠洲原発」の建設計画がもちあがった。賛否をめぐって地域は割れた。予定地のひとつ寺家地区はすぐ隣だ。漁民の多くは当初は反対だったが、電力会社のもたらすカネの力で、次第に推進派が力を増した。
 「株式会社のろし」社長の新弘之さん(74)は、狼煙の壮年層がつくる「義生団」の団長だった。新さんはふりかえる。
「最初は不安もかんじたが、電力会社につれられて北海道から九州まで視察するうちに、原発は安全で地域の活性化につながると思うようになった。福島のような事故は考えもしませんでした」
 しかし2003年、原発計画は凍結される。あとには賛成派と反対派の亀裂だけがのこった。
 過疎と高齢化で、狼煙の水田の4割は耕作放棄状態になった。2007年ごろには、荒れた田のために賦課金(1反あたり1100円)をはらうのはもったいと、土地改良区脱退をもとめる声がふきだした。
 そのころ、隣の横山地区では大浜大豆が脚光をあび、狼煙にできる道の駅で、その加工品を売りだすことになった。珠洲市土地改良区の瀬戸谷義信・事務局長は狼煙の人々に圃場整備にくわわるよう説得した。
「豆腐をつくる施設(道の駅)がもうすぐできる。観光客が来るようになったとき田が荒れていたらさびしいぞ」
 大浜大豆の成功が「もう一度、農業を前向きに考えよう」という空気を狼煙にも生みだした。話し合いをかさね、隣接する横山・川浦地区とあわせて27ヘクタールの圃場整備が2012年度からはじまることになった。

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新弘之さん

 夏休み。「道の駅」には観光バスが次々にやって来る。
「原発によるしこりもとけて昔のにぎわいがもどりつつあるねぇ」
 新さんは感慨深げだ。
 横山地区で大浜大豆をつくる二三味さんの表情もあかるい。
「マスコミにでて『横山はええ集落だ』といろんな人に言われるさかい、どんどん自信がついて、狼煙への劣等感もなくなりました」
 一時は絶滅しかけた「幻の大豆」によって、地域は息を吹きかえしつつある。

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道の駅「狼煙」=2012年

灯台がそだてた進取の気性

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 禄剛埼灯台は石造りで高さ12メートルある。1883年に完成した。夕方、灯台のたつ標高36メートルの高台にのぼると、ゴーゴーと海鳴りがひびくなか、オレンジにかがく水面をフェリーの影が横切っていく。敦賀から北海道にむかうフェリーは、灯台の沖で真北に進路をかえて北海道に直進する。狼煙の沖は日本海航路のいわば交差点なのだ。
 明治期までは、この海を北前船が行き交っていた。新弘之さん宅の仏壇の引き出しには、和紙に墨でえがいた北前船の設計図がのこっていた。
「あんたの先祖は、沖を走る船の絵をえがいて船をつくる参考にしとった。すごい人やった」
 子どものころ近所の人にいわれた。祖父はイワシ舟などをつくる船大工で、「台おろし」(進水式)には紅白の餅をまいた。
 灯台のある高台には1963年まで4世帯の灯台守がすんでいた。ズーズー弁の東北出身者が多く、子どもは立派な洋服を着て、見たこともないゲームを楽しんでいた。
 中学生のころ、初代南極観測船になる前の「宗谷」が沖合に停泊した。灯台への物資補給のためだった。小舟を近づけて縄ばしごでのぼると、売店にはチューインガムやチョコなどのハイカラな品々がならんでいた。灯台は都市の文化につながる「窓」だった。灯台守の家族とふれあった狼煙の子のなかから、少なくとも7、8人の灯台守が輩出したという。
 新さんらは、最盛期の3分の1に減った観光をもりかえすため「道の駅」を計画した。「いっしょにやってほしい」と市長にたのまれ、大浜大豆を復活させた横山集落と手をむすんだ。
 農民のまじめさと、海民の行動力がいっしょになって、大浜大豆の豆腐や「豆乳ソフト」といった人気商品が生まれた。
「北前船や灯台があったから新しいものにいどむ心がそだった。灯台がなければ道の駅もできんかったと思うよ」

2024年、五右衛門風呂と二槽式洗濯機が活躍

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住民と帰省した家族80人が避難生活をおくった集会所=2024年2月
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炊き出しのボランティア
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 2024年元日、二三味義春さん(77)は家族とともに珠洲市街の施設に入所している母に面会に行き、午後3時半ごろ帰宅した。
 まもなく最初の地震がおきた。
「けっこうひどいなぁ、去年(2023年5月5日の奥能登地震)とにてるわぁ」
 二三味さんは道の駅「狼煙」の社長をつとめている。道の駅は元日も午後3時まで帰省客むけに営業していた。子どもたちは屋外に避難したが、二三味さんは部屋にのこり、「道の駅」の職員に順に電話をかけた。
 最後の職員に電話をかけているとき、経験したことのない揺れがおそった。
 携帯はふっとび、立つこともできない。食器棚がたおれ、壁が落ちて換気扇が頭上におちた。柱が左右に30センチゆれ、天井が割れて青い空がのぞいた。
「これでオレの人生も終わるがかなぁ。しゃあないなぁ……」
 そんな考えが頭をよぎった。しばらくして揺れがおさまって家の外にでた。
「津波がくるぞ!」
 集落の人たちが山の斜面にある二三味さん宅の前にあつまってきた。
 その後、集会所に全住民が集合した。横山地区は27世帯30人ほどだが、帰省してきた子や孫もいるから約80人が、24畳の集会所ですごすことになった。
 横山では1999年以来、村おこしの一環で、「藁苞(わらづと)納豆」を手作りしてきた。蒸した大豆を藁のつとにいれ、毛布やふとんにくるんで保温した。そのため大量の布団を押入にためこんでいた。コロナ禍で4年ほど納豆づくりを休んでいたから、においがぬけていたのも幸いだった。
 大豆をたく巨大な鍋で80人分の汁をつくる。宝くじの助成金で前年(2023年)に入手した発電機であかりを確保した。農業用の500リットルのタンクと水中ポンプをつかって地下水をくんできた。
 電気でわかす風呂は停電と断水でつかえないが、二三味さん宅は追い炊きができるタイプの風呂だった。もう1軒、五右衛門風呂の家があった。2軒で風呂をわかして、集落の人たちが順に入浴した。
 洗濯機は、蛇口からじゃぶじゃぶ水をながす全自動はつかえないが、集落に2つあった二槽式洗濯機が活躍した。「古いもんが活躍した。近代的なものはダメやったわ」と二三味さんはふりかえる。
 1月4日になると、燃料のガソリンが底をつきはじめた。
 帰省していた若者らが、トラック2台で片道16時間かけて金沢にガソリンを買いにでかけた。友人や友人のそのまた友人に1人1、2缶買ってもらい、600リットルをつんで帰ってきた。
「横山は、そば打ちなどの行事や、ドブ掃除や草刈り、道普請などに、都会にでた子どもたちも参加していた。そういうシステムをつくってっからよかった。常日頃が大事やね」

小規模な簡易水道の強み

 横山では地震後、東京の子どものアパートに3月末まで身をよせた家が1軒あった。病気や身体の障害で自立できない人ら5人が金沢などに避難した。それ以外は、10日ほどして停電が解消すると、こわれた自宅の一室だけかたづけて夜は自宅ですごすようになった。
 隣の狼煙地区は、横山の2倍の60世帯ほどだが、65歳以上の住民はすべて金沢などに避難し、集会場に寝泊まりしているのは20人程度だった。4月半ばの時点でも高齢者はほとんどもどってきていない。
 だから横山をおとずれた泉谷満寿裕市長は「ここはみんなのこってるがか!」とおどろいた。
「横山の人間は鈍感なんか、ちょっこり神経抜けておかしいんやわ。市長、あんたが珠洲におるあいだはわしらも珠洲におるわい」
 二三味さんはこたえた。
 珠洲市では地震から4カ月たっても広域で断水がつづいている。
 市内の9割の世帯は、市南部の鵜飼川のダムから取水した水を利用している。水道網が広域ゆえに復旧がままならない。横山は周辺4集落とつながる簡易水道だから2月末には水道が復旧した。大規模な水道はふだんは便利だが、小規模な簡易水道のほうが災害時には強いのだ。

人がいるから、農の復旧もすすむ

 二三味さんは、山の上の開拓地を中心に大浜大豆を8町歩(8ヘクタール)つくり、横山の水田22町歩の8割の耕作をうけおっている。
 地震後にみてまわると、集落周辺の水田のパイプラインが20数カ所で破断していた。農道がくずれて山の畑にたどりつけない。歩いて見にいくと、畑はあちこちが陥没している。そうした不具合を確認するたびに市役所や県庁に農道などの補修を要求してきた。5月には田植えをして、大浜大豆の種をまかなければならないからだ。
 乾燥・調整施設が全壊していることもわかった。8月末までに施設ができなければ、収穫した米や大豆をくさらせてしまうことになる。
 農地・農業用施設の災害復旧には費用の9割を補助する制度があるが「審査に3カ月かかる」と言われた。さらに、補助をうけるにはまず自分で支払う必要があるという。
「棺桶に片足つっこんだ77歳のじいさんに銀行はカネをかしてくれん。どうしろって言うんや! 現場をちゃんと見て、8月いっぱいに施設をたてさせてくれ」
 市役所や県庁、国会議員らにうったえている。
 横山地区では地震後も住民がすみつづけ、田畑や農道の様子を毎日見て、問題があれば市役所などにすぐ相談する。だからほかにくらべれば復旧のペースははやい。
 住民が外に避難して人がまばらな地区は、農地や農業施設の被害実態を把握することすらできない。市役所の職員もみずから被災しているから、すみずみの農地まで見てまわる余裕はない。農道を補修してもらえず、山の上の開拓地の農地までガソリンをかかえて徒歩でかよっている農家もいるという。
 さらに、市場に出荷しない自家用の畑は、イノシシよけの電気柵を復旧したくても補助の対象にすらならない。
「このままでは、農家がやる気をなくして荒れてしまう。大きな農家じゃなくても、小さな家庭菜園だってそれがなくなると在所は草ボーボーになる。小さな家庭菜園も大事げんて」
 二三味さんはそううったえる。

「生業」のネットワーク復興を

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小栗さんと二三味さん=2024年、横山の集会所

 道の駅「狼煙」の運営をになう「株式会社のろし」は、大浜大豆を栽培する横山地区と、施設がある狼煙地区の住民が出資して設立した。社員とパート7人ほどがはたらく貴重な雇用の場だ。
 新型コロナや2023年5月5日の地震の被害からたちなおりかけたところに今回の地震がおそった。
 それでも地震から3カ月後の4月4日、ボランティアや復旧工事の作業員むけに週2日だけ開店し、オンラインショップも再開した。さらに4月28日からは「丹生そば」を食堂で提供しはじめた。1日200丁製造していた大浜大豆の豆腐も、製造を担当してきた女性が避難先からもどり、5月から復活する。
 16年前に白山市から移住し、道の駅ではたらく小栗美和さん(41)はSNSをつうじて道の駅の現状を発信しつづけている。「東京なんかではすでに能登半島地震は忘れられかけている。忘れられたら能登はあぶない」と危惧するからだ。
 名物の豆腐は、豆乳を揚浜式塩田でつくられる天然にがりでかためる。だが海が隆起してしまい、塩田でまく海水をくみあげるのがむずかしくなった。塩田の復活がなければ豆腐はつづけられない。新鮮な魚貝類を供給した漁師や海女も、外浦の漁港が全滅して海にでられない。大阪から移住して釣り船をいとなんでいた男性も帰ってこられなくなった。
 おいしいリンゴをつくる果樹園や野菜農家は農道の崩壊で作業もままならない。道の駅の魅力的な特産品を下支えしてきた農林漁業の基盤の一日でもはやい復旧がもとめられている。
「第一次産業の生業(なりわい)があるから、里山里海が維持されてきたんです。『創造的復興』は、生業をささえてきた人を支援して、生業を団子のようにつらぬいて、今ある資源を大事にしなければだめですよ」
 小栗さんは力説する。

またも「巨大防潮堤」計画

 4月14日、二三味さんや小栗さんはニュースに耳をうたがった。
 国土交通政務官の石橋林太郎・国土交通政務官が珠洲市と能登町をおとずれ、防潮堤整備を検討する方針をしめしたという。それにたいして泉谷市長は「4メートル、5メートルの防潮堤を整備するということになれば、景観が失われ、非常にストレスもたまると思うが、住民の大事な生命・財産は守らなければならない。地域のみなさんと対話して最適解を見つけるしかない」とこたえた。(NHK)
 東日本大震災の津波被災地では、住民の声を無視して行政主導で巨大防潮堤が建設されたが、防潮堤の背後には人はもどっていない。「生業」を無視した大規模土木工事による失敗を能登ではくりかえしてはならない。
「美しい海を見たくて観光客は来てくれるのに、どでかい防潮堤なんてとんでもない。それよりも、隆起してしまった岩礁の上にコンクリートの道をつくって、小規模でよいから漁港を復活させるべきや。農林水産業と観光を手放したら『珠洲沈没』になってしまうわ」
 生業のためだけではない。志賀原発事故で陸路が封鎖された際、漁港から脱出することが想定されていたことも忘れてはならない。

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