大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」72 安富信

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「あの人が来る!」

 あの人が来る! 松江支局に激震が襲った。
 1998年3月上旬。同じ頃、読売新聞大阪本社編成部にいたM原さんから筆者に電話が入った。
「鬼っ!」
 筆者の松江支局長転出は、あちこちに、衝撃を与えたようだ。あの人が来る!と叫んでいたのは、当時松江支局員で酒鬼薔薇聖斗事件の応援取材で神戸総局に応援取材に来たことがある、現科学部次長のY井さん。神戸での筆者の傍若無人ぶりを見て……

津波警報、避難躊躇しトラウマに

 と、ここまで書いて筆が止まっている。2023年12月17日。この後、年末は孫たちがやって来て、続きを書かなかったのだろう。そして、年が明けた2024年1月1日午後4時10分、緊急地震速報が鳴った。大晦日から元日にかけて筆者は妻と兵庫県豊岡市の城崎温泉に泊まっていた。ここ数年のルーティンだ。孫たちが大晦日朝に帰った後、城崎温泉で疲れを癒やすのだ。元日の朝は穏やかに迎えた。それが、夕方になって一変した。能登半島を震源とする大地震が起きた。最大震度7、200人以上の方々が亡くなり、1万人以上が避難生活を送っている。
 災害を教えている身としては、心が折れた。しかし、大学の入試や定期試験、卒業論文、成績評価などが立て込んでおり、今は現地を訪れることも出来ない。日本避難所支援機構(JSS)代表理事を名乗っているが、事務局長の金田真須美さんは真っ先に能登に駆けつけて、避難者のケアに当たっているというのに、切歯扼腕するばかりだ。
 その上、城崎温泉では現場近くに津波警報が発令されたのに、速やかに避難することが出来なかったというトラウマも重なっている。宿泊していた宿は日本海から約3キロ、旅館のすぐ横を円山川が流れている。堤防は1m、津波が遡上してくれば、ひとたまりもない。しかし、旅館の事務員らは「大丈夫、大丈夫」を繰り返すだけで、他の宿泊客は誰も逃げない。妻も「大丈夫じゃない?」という。正直言ってかなり躊躇した。暗くなるし、寒い。津波は来ないんじゃないかな? 
 そうこうするうちに、神戸学院大学社会防災学科の同僚の先生方から次々とLINEが入る。「城崎温泉でしょ? 逃げてますか?」。娘からも心配するLINEが入る。やっと妻もすぐ近くの高台に逃げることを了解し、2人で高さ30mほどの高台に逃げた。近所の住民も30人ほど避難していた。約1時間、津波到達予測時間を過ぎても、津波は来なかった。旅館4階の部屋に戻った。
 災害情報、それも「避難指示や津波警報が出ているのに、人はなぜ逃げない?」を研究材料にしているのに、この様だ。他人に厳しく自分に甘い、当にそんなことを正月早々に体験し、かつ、能登半島地震の被害状況を見て、しばらく、この連載を書く気力を失っていた。本当に言い訳だけど。3月になれば、うちの大学も、被災地に学生たちをボランティアで出す計画もあるようだし、筆者も出来るだけ早く支援に行きたい。そう思いながら、久しぶりに筆を起こした。
 現大阪本社科学部次長のY井さんの「あの人が来る!」から再開しよう。まるで化け物でも来るような言い方だ。松江支局では、彼の言葉を間に受けて全員が筆者の支局長就任に怯えていたようだ。その前に「鬼!」と電話してきたM原さんは、どうやら筆者が彼の松江支局異動を仕組んだ張本人だと勘違いしていた。筆者も松江転勤だと知ると、さらに絶句した。

13年ぶりの松江にワクワク、怯える支局員たち

 それほど新松江支局長は「好まらざる」人物だったのだ。本人は10数年ぶりに初任地に行ける、とすこぶる喜んでいたのだが。家族も妻の実家が近い松江への転勤を歓迎し、中学1年になる長女、小学1年生の長男と妻、4人全員で松江に引っ越した。新しい住まいは支局の上階の3階だった。当時は原則、支局長は支局住まいだった。
 1998年3月15日、13年ぶりに松江支局に戻った。42歳。若い支局長だ。無茶苦茶張り切っていた。次席は後に大の親友となる石井裕之さん。読売新聞を早期退職し、今は姫路市内のNPOの理事を務めている。この件はまた後ほど。実は、石井さんは、筆者に良い印象を持っていなかった。彼が阪神・淡路大震災で地方部から神戸総局に応援取材に行った際、阪神支局次席だった筆者と原稿のやり取りをして、極めて不快な思いをしたという。
 3席に先のM原さんと女性記者T本さん。共に入社12年目のベテラン記者でM原さんとは京都総局でよく飲んだ仲で後に本社の編成記者として活躍していた。T本さんは旧婦人部や生活情報部で沢山の記事を書いてきた。4年目のS根さんや3年目のY井さん2年目のM尾さんとM岡さん、新人記者のO達さんと女性のA井さん。6人の若い記者の手本となるベテラン記者、石井次席も経験十分なデスク、筆者は彼らの成長に大いに期待し、実際にわずか1年足らずだったが、非常に楽しい支局長生活だった。(つづく)

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