地震から11か月、豪雨から2か月。様々なご縁が重なり、私は11月の能登に行くことになった。
正直、初めての土地で自分に何ができるのか見当もついていなかったが、せっかくの機会だから、分からなくてもまず現地を見て、色々経験し、吸収しようと心に決めて能登に向かった。
被災した輪島塗、第二の人生
3日間お世話になったのは、穴水にある「ボラ待ち館七海(しつみ)」。立派に色づいた赤い紅葉と手入れの行き届いた黄緑色の苔の植え込みの横で、心太郎というワンちゃんがぴょんぴょん飛び跳ねて出迎えてくれる。ここでは、まず、建築士の方に教わりながら、輪島塗の片付けと整理を体験させていただいた。
倉庫にある箱の中には、朱色や黒色のお椀や小皿、お重が無造作に入れられている。どれも深みのある色合いで、なかには鶴や波の絵が細い金箔の線で施されているものもある。少し埃をかぶっているが、素敵なものばかりだ。私の作業は、それらを種類別に分け、個数を数えるというもの。輪島塗を手に取ったのは初めてだったが、しっとりしていて、意外にも軽く感じた。お椀が飲み口にかけて薄くなっていたり、爪で叩くとコツコツと音が吸収されていくような心地良い感覚がしたりと、普段使っているプラスチックのお椀にはない特徴を体感して、この器で毎日の食卓を囲んだら、きっと気分が上がるだろうなあと感動した。

地震で被害を受けた輪島塗の多くは、捨てられたり、引き取ったボランティアによってメルカリで安く販売されたりしている。七海の建築士の方は、そんな状況の中で、輪島塗を少しでも大事に、有意義に使ってもらうために、輪島塗の新しい使い方を発信する企画を考えている。この日の整理と片付けは、その第一歩となるものだった。
傷ついたり使われなくなったりした輪島塗も、おつまみ入れや小物置き、さらにはクリスマスツリーの土台などなど、工夫すれば何にでもなることができる。まだまだ使える輪島塗が粗末に扱われるのはもったいない、ひと工夫して輪島塗で毎日がちょっと楽しくなればいいよね、という彼女の発想はとても素敵だ。輪島塗の第二の人生の始まりに関われたことに、私もワクワクした。
「東日本」とのつながり
七海には、他に国際協力NGOのADRA Japan(アドラ・ジャパン)の方やボランティアの方が数名滞在していて、能登の料理を囲みながら、活動のお話や学生時代のお話、ボランティアに関わり続ける思いなどをたくさんお聞きすることができた。
意外だったのは、能登で東北の話がたくさんできたこと。私が能登に心を寄せた理由の一つに、仙台で東日本大震災を経験したことがあったのだが、ボランティアさん達の中にも東北と縁があったり、東日本大震災の時に現地でボランティア活動をされていたりした方が多くいた。
「閖上が〜、石巻で〜」と地名を出しながら話しても「うんうん」と分かってくれる人に出会えたことを嬉しく感じると同時に、当時まだ8歳だった私とは全く異なる視点であの震災を見ていた彼らの話を、別の被災地で今聞いているというのはなんだか不思議な感覚だった。
被災した各地への支援を地道に続けている人たちがいることを知り、自分も何かしら関わり続けていれば、この場にいる誰かとまたどこかで再会したり、能登で被災した子どもたちに将来別の場所で巡り会ったりするのかもしれないなあと考えた。
奪われた普通の暮らし
七海で一緒に輪島の片付けをしたボランティアの方が、翌日輪島にも連れて行ってくださった。輪島では、県ボラのチームに混ぜていただき、水害に見舞われたお宅の泥かきをした。
輪島にあるボランティアの拠点地から車で5分ほど移動し、着いたのは、瓦屋根で木造の大きな一戸建て。庭には前日までの作業で家の中からかき出された泥が山になっている。玄関や柱には、私の目の高さよりも高い位置に泥の跡が残り、仏壇や家財道具も壊れていて、被害の深刻さが一目でわかった。ボランティア活動は、当日集まったメンバー10人ほどでチームが組まれる。すぐに役割分担が決まり、皆声を掛け合いながら、道具を運んだりブルーシートを貼ったりとテキパキと作業を進めていく。私がした作業は、床下の泥をスコップで掻き出して、外に運び出していくというものだ。床下ではたくさんの横向きの柱が交差しているため、しゃがみにくく、腰に負担のかかる作業だった。

作業の途中には、住人の方が差し入れを持って挨拶に来てくれた。優しそうで小柄な年配の女性だ。まるで、家に友人が来たときのようににこやかに、「今日はありがとうねえ」と言いながペットボトルのお茶とシュークリームを人数分出してくれる姿を目にし、このお家での被災前の暮らしを想像せずにはいられなかった。
柔軟な対応力とチームワークを持つボランティアの方々と、大変な経験をしながらもボランティアに気を配れるほどの優しさを持つ地元の方々の、人間力に圧倒された一日だった。避難されている方々が、1日でも早く自分の家と呼べる場所で普通に暮らすことができることを願っている。
「自分事」として関わる
屋根の修理など技術的な面でサポートするADRAの方、東京から夜行バスで定期的に通い、サロンを開いて心のケアを行うカウンセラーの方、能登で出会った仲間と相乗りして静岡や名古屋から通う県ボラの方、定期的にボランティア活動をしつつ地元のマーケットに出品するために能登の特産品を買いにきた家族連れの方。
能登でたくさんの人に出会い、能登に住んでいなくても様々なかかわり方ができると知った。人生の一部としてご縁を大事にしながら、自分の特性を活かして能登とかかわり続けていく人たちを目にして、遠い場所で起こったこととして他人事で終わらせるのではなく、自ら行動して自分事にしていくという彼らの生き方を自分も見習いたいと思った。
「消費」にしない
能登から京都に戻った翌日。学校祭に参加していた私は、所属サークルの出展展示のシフトの合間に、先輩に勧められて他サークルの在日コリアンについての展示を見に行った。
その中で、目を奪われた東九条の在日コリアン3世の方の言葉がある。
「最近多くの学生やアート関係の方がくる。でも、東九条のことを知りたい!って来て、調べて学校で発表してそれで終わり、ってなったら悲しいよね。消費されている気がするよ。」
私には、それが能登で出会った方々の声となって、心に直接訴えてきたように感じた。車も運転できず、はっきりとした目的意識もなく、迷惑をかけてしまうことも多々あったが、「次来るときは、ここに行こう」「今度は友だちも連れてきてさ、その時はまた泊まっていいから」と出会いを一度きりにしようとしない言葉をかけてくれ、とても嬉しかった。
能登で過ごした3日間。穴水ではみずみずしい牡蠣をいただき、車で連れて行ってもらった千枚田では夕暮れの澄んだ空気に包まれ、視界いっぱいに広がる海に癒された。一方で、陥没した道路や崩れた民家、倒れた電柱などまだまだ生々しく残る地震被害の傷跡や、大きな敷地に広がる仮設住宅も目にする機会も多くあった。
もちろん、1回来ただけの私には、能登のほんの一面しか見えていないはずだ。でも、その事実も含めて私が能登で得た気づきや驚き、感動をそのまま友人や知人にシェアしていきたいと思う。それがまず、私にできることだと思うから。そして、今回何人もの方が示してくださった道標を参考にしながら、自分だからこそできる能登とのかかわり方を探っていきたい。

穴水で素敵なガソリンスタンドを営まれている森本さまを始め、たくさんの方にお世話になりました。ありがとうございました!
H・W 京都大学法学部3回生。出身は東京都だが、父親の転勤で宮城県や福井県にも住んだ経験がある。各地で可愛いご当地ゆるキャラを見つけ、ゆるゆる推し活するのが趣味。
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