珠洲市高屋町は、2003年に計画凍結となった珠洲原発の予定地で、原発が完成すれば約60軒の集落は消える運命だった。2014年に自転車で訪れると、トンビの甲高い声がひびきわたる浜辺に、「電源立地」をかかれた掲示板がいくつも目にとびこんできた。
「奥能登ラケット道路」を、標高100メートルの椿峠にむかって息を切らしてのぼった。沖合には、輪島の海女がアワビをとる七ツ島がうかんでいる。
絶景の峠には「つばき茶屋」という赤い看板の店がある。
メニューは小石だ。名刺も小石でツバキの絵がえがかれている。
「お金をかけたくないから海岸でひろった石をつかっています」
店主の番匠さつきさん(62)は笑った。
「でまかせ定食」(1000円)をたのむと、イカの丸焼きやコッペ(エイ)の煮付け、アジの南蛮漬けなど8品もならんだ。その日にとれた魚と野菜をつかうから毎日内容がかわる。閉店間際に食材があまるとおかずがどっと増えることも。だから「でまかせ」なのだ。
さつきさんは27歳まで輪島沖の舳倉(へぐら)島で海女をしていた。結婚して珠洲にきてからも夫と漁にでる合間に海にもぐっている。
珠洲の外浦は能登でもとりわけ過疎がすすみ、コーヒーをのむ店もない。絶景自慢の椿峠だが、市がたてた施設で経営していたスナックは、飲酒運転がきびしくなって廃業し、周囲は雑草がおいしげっていた。
「ここは高屋の入口だし、ちょっとでも地元を活気づけたい……」
そう思ったさつきさんは2003年に「茶屋」をひらくことにした。
資本金はゼロ。スナック時代のカラオケを移動し、テーブルは、喫茶店をやめた金沢の知人からゆずってもらった。さつきさんの家は漁師だから魚を提供し、茶屋の運営は近所の人にまかせるつもりだったが、その人は客が少なすぎて3カ月でやめてしまった。
さつきさんは深夜から漁に出て、昼前に上陸すると茶屋に直行する。
バイトの女性たちが、畑でとれた野菜の漬け物などを「これもつけよう!」ともってきてくれる。漁が長びいておくれそうなときは、寺の奧さんがごはんを炊きにきてくれることも。
「私が代表やけど、地元の人が協力してくれて、漁師の父ちゃん(夫)が魚を提供してくれるからなんとかやれてます」
だが、さつきさんは開店して10年間で1銭も収入を得たことがない。それどころか光熱費の支払いで貯金もつかいはたした。
「きついけど、漁師をしてるだけではあえない、全国のいろいろな人と話せるのが楽しい。せめて経費ぐらいはかせげるようになりたいけどねー」
娘のさとみさん(30)は5年前、生まれて数カ月の娘をつれて金沢市から帰郷し、母にならって海女もはじめた。
「街では痛い目にもあったけど、ここの自然は絶対に裏切らない。磯で体育座りをして海を2時間ながめていてもあきない。30歳になって、ここにすみつづける覚悟ができてきたかな」
そう言って、自転車にまたがって出発する私をみおくってくれた。
■地震と豪雨から復活
能登半島地震後、2、3カ月に1度は、高屋の海岸を車で走っている。「つばき茶屋」の建物は無事だけど、店はずっと閉じていた。8月に復活したが9月の豪雨で閉鎖。その後11月に再開したと人づてにきいていた。
12月15日、冬の能登独特の大粒のあられが吹きあれるなか、珠洲の外浦にむかった。ゴーゴーと波がとどろき、突風で車がゆれる。1階がつぶれた家々、土砂に埋まった神社、泥だらけの国道……。外浦の冬はそれでなくても寒くてさびしいのに、心まで冷えこむ風景がつづく。
午前11時前に椿峠を通過したら「つばき茶屋」の灯りがともっている。
店にはいると、さとみさんが口をあんぐりあけておどろいた。
「お母さん、ふじーさんがきたよ!」
厨房からでてきたさつきさんも元気そうだ。
地震で隆起して船をだせないから、刺身はない。「でまかせ定食」はハンバーグだという。能登のイカを1尾まるごと焼いた「イカさま定食」(1500円)を注文した。野菜の小鉢がトレーいっぱいにならんで、昔とかわらず薄味でおいしい。
「地震がおきたとき、隆起して漁師はダメになったけど、農家は淡々と畑をたがやしていて、農家は強いなぁと思った。でも豪雨では農道や畑が埋まってしまい、畑にはいれなくなってしまった。おいしいリンゴをつくっていたおじさんもあきらめてしまって……。店は例年11月までだけど地震で人があつまれる店がなくなってしまったから、商売と関係なく、きょうまでひらいてきたんです」
きょうが今年最後の営業日だという。
さとみさんと話しているうちに、客がひとりふたりとはいってきて、十数人で満員になった。
珠洲原発反対運動で活躍した塚本真如住職の円龍寺は、地震でつぶれた。2月ごろには再建はあきらめると塚本さんはテレビのニュースで話していた。だがその後、再建を決意したという。
「塚本さんは精神的にいちばん頼りになる人。高屋にいてくれるだけでうれしいねぇ」とさつきさん。
高屋の風景を撮影した写真家が東京で写真展をひらいたり、集落の復興のための募金をあつめたり……といった動きもあるという。
「高屋はいろんな人がかかわってくれて、関心をもってくれる。それが一番ありがたい。できるだけ多くの人に今の能登の現状を見てほしいです」
さとみさんはそう話す。
珠洲原発問題以来の「外」とのつながりが、危機にある高屋の人たちの心をささえている。「交流人口」の大切さをここでも実感させられた。
おなかいっぱいになって店をでて車にのりこんだ。また春に食べにこよう。
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