能登2011~24⑨避難所で生きた漁師の知恵

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 2024年元日の能登半島地震で、半島の外浦(日本海側)は最大約4メートルも隆起した。海底が陸になり、多くの漁船が漁港で座礁した。
 石川県最大の漁港・輪島も、水深が浅くなり、200隻の漁船が港外にでられなくなった。
 輪島の冬はズワイガニやタラが次々に水揚げされるかき入れ時だが、元日以来、港はしずまりかえっている。
 ぼくは2月11日と3月15日、輪島市の中心街の西側に隣接する海士町と輪島崎町という漁師町を歩いた。

目次

干上がった塩水プール

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袖ケ浜。西半分(手前)は砂浜だが……
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東側は白い岩が露出

 輪島の海はどの程度、隆起したのだろうか。
 まずは漁師町から岬をはさんだ西側にある「袖ケ浜」と「鴨ケ浦」にむかった。
 袖ケ浜は弧を描く砂浜で、夏は海水浴客でにぎわう。冬から春にかけてはカジメなどの海藻をとることができる。
 高台の車道からみわたすと、西半分は砂浜だが、東側は真っ白な岩礁があらわになっている。

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海藻がトレッドヘアのように付着した岩
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 その岩を間近で見ると、トレッドヘアの頭髪のように海藻が白い岩にこびりつき、付着した貝は化石のようにかわいている。
 袖ケ浜から手掘りの暗いトンネルをぬけると「鴨ケ浦」という岩礁海岸だ。海にうかぶ岩をつなぐ遊歩道があり、小魚や貝を観察できる散歩道だったが、すべて陸になってしまった。

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水が消えた塩水プール
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 鴨ケ浦の一角には国登録有形文化財の「塩水プール」がある。縦25メートル、幅13メートルのプールは、1935年ごろ、魚を鑑賞するための水槽としてつくられ、戦後になって水泳用のプールに改修された。南北にある取排水口から海水が自然に流出入する仕組みだ。1960年のローマ五輪の銀メダリスト、山中毅さんがここで練習したことで知られている。
 このプールも水がなくなり、底の岩が露出してしまった。プールの水深を考えると、2メートルちかく隆起したことがわかる。

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地震前の塩水プール

墓石がことごとく倒壊

 輪島崎町や海士町は多くの家が倒壊している。
 連載3回目で紹介した「輪島海美味工房」の新木順子さん宅は聖光(しょうこう)寺(臨済宗)の目の前の路地で酒店をいとなんでいた。2月に訪ねると、寺の本堂はほぼ全壊。約200基ある墓石の大半がたおれ、雨水をふせぐビニールシートでおおわれていた。2階建ての「新木酒店」はたおれてはいないが、人影はなく電話もつながらなかった。

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聖光寺の墓地
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新木酒店(左)と聖光寺(奥)

 3月15日に再訪して、近所のおばあさんに新木さんの安否を問うと「公民館に行ってみまっし」と教えられた。漁港のわきにある「港公民館」は避難所になっている。その和室でやっと再会できた。
「きのうようやくパソコンをひらくことができて、300通もメールがたまっていました。これから返事を書こうと思っているところでしたぁ」
 新木さんは元気な笑顔で話した。

プロパンガス爆発 商店街をのみこんだ火災

 新木さんは息子と2人で元日をむかえた。
 朝食はおせちと雑煮を食べて昼食をぬいて年賀状を書いていた。
「あすから親せきや子どもの家族もくるわぁ」と考えていたら、前年5月5日なみの震度5ほどの地震がおきた。
「震源は珠洲あたりやろ」
 のんびりかまえていたら、経験したことのない揺れにおそわれた。天井が菱形にゆがみ、蛍光灯が落ち、台所の水屋や冷蔵庫もたおれた。
 揺れがとまり、「今のあいだに逃げるぞ!」と息子に声をかけたが、店舗のある正面玄関は商品棚などがたおれて散乱し、靴もはけない。ストーブを消し、窓から裸足で外にでた。
 隣の聖光寺の墓地から裏山にあがる途中も何度も強くゆれ、墓石がころげおちる。寺の本堂の戸がのれんのようにゆれている。
「ユーゴちゃん、お母さんは?」
「大丈夫です!」
 若い住職の川口有吾さんに声をかけ、いっしょに竜ケ崎灯台のある天神山にあがった。
 天神山は津波の際の指定避難場所だが、地滑りの危険がある。余震のたびにドーンとつきあげられ、山全体がユッサユッサとゆれ、そのたびに地割れ少しずつひろがっていく。
 若い人が桜の枝を切ってたき火をしようとするが、生木だからなかなか燃えない。毛布1枚に5,6人がくるまって寒さにたえた。
 約1キロ南の市街地が、みるみる火におおわれていく。ドーン、ドーンという、プロパンガスの爆発音がひびいた。
 午後8時すぎ、津波の心配はなさそうだから、山をおりて港公民館にもどることにした。

カニの生け簀の水で水洗便所、漁船の発電機で電灯

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港公民館

 公民館には約120人が避難した。足の不自由な人は1階、元気な人は2階へ。畳1枚あたり2人がギューギューになってねむった。
 お年寄りの体調管理には水が不可欠だ。「水をください」と市役所に電話したが対応してもらえない。市役所職員もごく近所の人しかかけつけられていないのだ。消防も、家があちこちでつぶれて身動きがとれない。
 かけつけた自衛隊員がこっそりと、裏の調理室からペットボトル(2リットル)の水を60本わけてくれた。それで高齢者の命がすくわれた。
 10日まで支援物資はとどかなかったが、食糧には不自由しなかった。正月に帰省する家族にごちそうするため、どの家も肉や魚をたっぷり買っていたからだ。
 漁協の冷蔵庫は停電したが、もともと低温だからもちよった食材をそこに保管し、2月半ばまで食いつないだ。
 港公民館はトイレにも不自由しなかった。漁協にはカニの生け簀の巨大な水槽がある。その海水を漁協の台車で公民館にはこんで水洗につかった。
 漁船から発電機をもってきて、公民館の配線に接続した。ガスの専門家が公民館のキッチンにプロパンガスを接続したから炊事もできた。
「みんなの知恵があつまって避難生活に役だった。漁師はたくましい。地域力ですよ」

二次避難で孤立する高齢者

 外観はこわれていない家は「一部損壊」とされ、公費解体の対象にならない。だが、たとえば新木さん宅は家の一部が隆起し、「歩くと小走りになってしまうほどかたむき、家にはいると、船酔いのように気持ち悪くなる」。輪島崎では「一部損壊」という被害認定に異議を申し立てる例があいついでいるという。
 自宅に住めず、漁業という仕事をうしなった多くの住民は金沢などへの二次避難を余儀なくされた。
 大家族でくらしていた高齢者の多くが、二次避難先のアパートでひとり暮らしを強いられている。
「年寄りが一番かわいそう。ひとりでなれない都会のアパートで、電車の乗り方もわからずボーッとしている。そういう人たちがここに泊まりにきて『輪島に帰りてぇ』って涙をながしながら話していくんです」
 港公民館には3月15日現在17人が避難中だが、二次避難した人たちも泊まりにくるから毎日20人は宿泊している。さらに、自宅に暮らす30人ほども炊き出しの夕食を食べにきているという。

朝市や振り売りをささえる女性の支援を

リヤカーで魚を売り歩く「振り売り」=2013年

 朝市や振り売りで干物などを売る女性たちは2021年にも危機に見舞われていた。
 改正食品衛生法によってこの年の6月から、干物やゆでガニ、梅干し、たくあんなどの加工品を朝市などで販売するには、手洗い場や換気扇、加熱や冷凍処理用の温度計設置などが義務づけられたのだ(すでに営業している人には2024年5月まで3年間猶予)。
 女性たちは、市の補助金があったとはいえ、なけなしのたくわえをとりくずして施設をととのえてきた。それが整備したとたんに地震で壊滅した。
「小さな魚の頭をとって、根気よくきれいにしてフライにするのは漁師町のおばあちゃんの仕事でした。それらを民宿や旅館でだしていました。そんな人たちは『年もとったし、カネをかけれんし、やめるわ』って言ってます。おいしいコンブ巻きをつくっていた人もやめてしまう。大事な文化が消えてしまいます」
 漁業の復興が大前提だが、輪島独特の食文化や朝市・振り売りをのこすためには、漁師町の女性たちが自由につかえる共同の加工場をつくる必要があると新木さんは考えている。
 輪島の漁師町の経験は、漁業や水産加工といった生業(なりわい)の元気さが、災害時に「生きぬく力」につながることをしめした。
 仮設住宅など、住みつづけられる環境づくりと、「生業」の復活こそがもとめられているのに、それらの復興は東日本大震災などとくらべてもあまりにもおそい。

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新木順子さん=港公民館で
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