大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」6 安富信

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 新婚女性絞殺、お宮入り

昭和56年7月4日朝、島根県松江市春日町の農道に停車中の軽自動車内で若い女性の絞殺死体が発見された。女性は隣町の八束郡鹿島町の自動車学校教官と1か月前に結婚したばかりの24歳の若妻だった。女性は車内で乱暴されており、殺害方法もかなり猟奇的だったうえ、島根県警が報道陣に提供した写真は、籐の椅子にもたれかかって足を組んだ、当時公開された映画「エマニュエル夫人」の主人公にそっくりな姿勢だったことから、田舎のマスコミは大いに盛り上がった。

昭和56年7月5日 読売新聞島根版

東京のテレビ局からもワイドショー取材陣が押し寄せた。何しろ、殺人事件の捜査本部など、数年に1度くらいしか設置されない島根県警管内、松江市内は大騒ぎとなった。3年生となった筆者も、大いに興奮したものだ。普段はほとんど夜回り、朝駆けなどしなかったが、この時ばかりはフル回転で働いた。日本の警察では通常、殺人事件などは発生時に概要を発表し、後は逮捕時に発表するだけだ。しかし、世間の注目を集める事件では、事件解決までマスコミは報道し続ける。それは、取材で書き続けることになり、必然的に、独自で取材したことをさも警察発表のように書き続けるから、不正確な事実や全く事実でないことも新聞に載り、テレビで放送される。警察幹部は大きな事件が起きると、無口になり、部下にはかん口令を敷く。そして、どの社が何を書こうと、「知らない。間違いだ」と言い続ける。
必死に夜回りをしても、おいそれとは捜査状況を教えてくれるはずがない。仕方ないから、事件現場周辺や、被害者の生前の足取りを追う。そこで得た情報を元に「続報」を書く。筆者も必死で聞き込みをして、続報を書いた。一番覚えている続報は、この女性が殺害される前日に訪れた銀行支店に、捜査員が来て似顔絵を行員らに見せて歩いているという。という話をこの支店に勤めていた、当時の彼女から教えてもらい、記事に書いた。とこの原稿を書くまで、そう思い込んでいた。しかし、その裏を取るために調べた当時の島根版には、そんな似顔絵もなければ、そんな記事もない。あるのは、殺害前日の午後にこの銀行支店を被害者が来て、新しい預金口座を開いた、ということだけだ。いやいや、人間の記憶って曖昧なものだ。

昭和56年7月12日 読売新聞島根版

結果的にはこの事件はお宮入り、すなわち15年後に公訴時効を迎えて未解決事件となった。しかし、島根県警に新たな事件が襲った。

13日後に「6歳女児殺害」

7月17日朝、島根県邑智郡石見町(現邑南町)でドライブイン経営者の娘(当時6歳)の遺体が発見された。女児は前夜から行方不明になっており、寝室が荒らされていた。窓の下の庭には足跡があった。付近の住民が捜索したところ、裏手の山中で見つかった。乱暴された跡があり、死因は絞殺だった。2週間の間に、捜査本部が2件も立つことなど、島根県警史上、初めてのことだった。
事件は急転直下、その夜に解決した。庭に残っていた足跡と靴が一致した、近くに住む塗装工見習いの」男(当時38歳)が任意同行され、深夜、殺害を自供し緊急逮捕された。筆者はこの時、県警本部担当だったため、松江から100km以上離れた石見町には行かずに、本部の捜査状況を見守っていた。というのは、ええ格好だ。つまり、発生原稿を書くのに手間取り、現場に行けなかったのだ。夕方、島根現地向けの全国版原稿を書き、島根版用のサイド記事も書いていたからだ。しかし、それらの原稿を出稿してからは、何をしていいのかわからない。
支局で原稿を見てくれた先輩ベテランの事件記者K先輩に、午後9時を過ぎたので聞いた。「もう帰っていいですか?」。何とものんびりした“事件記者”である。先輩は言った。「留守番組で情報を取れるサツ官(捜査員のこと)の家に夜回りに行けば?」。いない。正直に言うと、「仕方ないなあ。じゃあ、本部長宅へでも行けば?」。2年後輩の1年生記者、真田南男君(本人に実名を出す許可を得た)に本部の留守番を頼んで、本部長公邸に向かった。もちろん面識はあるが、ほとんど雑談すらしたことがなかった。

夜回りで「逮捕」を特報

警察官ではなく、他の省庁から出向の本部長だった。しばらく世間話をしていたが、話すこともなくなったので、単刀直入に聞いた。「事件、どうなってます?」。(なんともはや!) しかし、本部長は事も無げに言った。「ああ、今怪しい男を引っ張っているから、もう少し待ってよ」。電話を借りて支局に報告し、どうしたらいいか聞いた。先輩記者は「すぐに原稿を書けよ。重要参考人聴取だ」。なるほど! Kさんに本部長の相手を任せて、事情聴取の原稿と、ついでに逮捕の予定稿を書いた。午後11時過ぎになり、K先輩も本部長宅を辞し、筆者と真田記者は県警本部2階記者室で待機した。3階に捜査一課室があり、捜査一課次長が留守番待機していた。K先輩が言うには、必ず、現地の警察署から本部捜査一課に連絡が入るはずだと。さらに、信じられないことだが、かの本部長は逮捕したら支局に連絡してくれるとも約束してくれた。
午前零時を過ぎても、連絡はない。真田君はずっと捜査一課の部屋の前で聞き耳を立てている。この頃、読売新聞大阪本社の新聞は、12版地区と呼ばれる早版地区と、神戸京都などに配られる13版地区、そして大阪府内に配られる最終版14版地区があった。東京の最終版も大阪と同じ時間が締め切りで、おおよそ午前2時前だった。13版地区の新聞には1段記事(ベタ記事)で事情聴取が小さく載っている。さて、最終版までに逮捕してくれるのだろうか? ドキドキが高まる。午前1時を過ぎても動きがない。普段夜遅くまで電灯がついていない記者室に読売の記者がいると気づいた地元紙山陰中央新報の1年生記者が入ってきた。「安富さん、こんな遅くまで何やっているんですか?」。「うん?酔っぱらったから休憩しているんや」。彼は不思議そうな顔をしながら出て行った。ホッ。
1時45分を過ぎたころ、本部長から支局に「逮捕」の一報が入り、捜査一課の前にいた真田君からも大きな声で「安富さん!逮捕しましたあ!」と報告があった。14版最終版締め切りギリギリだが、たった13行の原稿で「島根女子誘拐殺人塗装工逮捕」の4段抜きで社会面に掲載された。それが、記者になって2年3か月、初めていただいた地方部長賞だった。ちなみに、この事件、8年後の平成2年(1990)3月に松江地裁で無罪が言い渡され、検察側は控訴せずに無罪確定。未解決事件となった。また、作家の佐木隆三氏が裁判を傍聴し、「闇の中の光」としてこの事件を著したことも記しておく。

「捜査協力に現金支払い」、ライバル紙が「抜く」

永遠のライバル、元山陰中央新報の西尾俊也さん

いずれにせよ、2年生の途中から3年生にかけて、島根県ではこれまでなかったような大事件が3つも発生し、一応乗り切ったことで、少し自信がついたつもりだった。が、甘かった。先の地元紙・山陰中央新報社の西尾俊也記者がとんでもないライバルとして浮上。毎日新聞の1つ下のO記者も手強いライバルとなった。
その年の9月中旬、山陰中央新報と毎日新聞に抜かれた。見出しは「警察証言を買う? 松江の娘殺し依頼事件 『捜査協力費』5万円」。そう、その年の初旬に逮捕された「鬼の母事件」が蒸し返されたのだ。当時、警察が捜査協力に現金を支払うことは、全く表面化していなかった時代だし、今で言う「司法取引」の概念も一般化されていなかった。要するに、“面白い記事”だ。筆者は真田記者と必死で裏取りしながらも、松江署刑事一課の「正義」を信じたかった。捜査協力費を出したことは県警本部長も認めた。しかし、その裏に何か真実が必ずあるはずだと。

昭和56年9月8日付け読売新聞

「第2のテープ」の存在、喫茶店で聞き「抜き返す」

数日後、真田記者が取って置きの“特ダネ”を持ってきた。筆者も当時の刑事一課長、その時は捜査一課次長のKさんに何度も夜回りをして食い下がっていた。K次長は松江署の刑事一課長時代に、筆者に時に厳しく叱責し、時に優しく警察官の苦労を説いてくれた人だ。警視庁の巡査経験があり、昔々、拳銃を発砲したことがあるとも話してくれた。(全然狙いは外れたけど、逃亡する被疑者の足に当たって逮捕したという)。そんな鬼の支局長のようなお父さんだったが、この事件では、妙にしおらしく何も言わなかった。明治時代の漢のような次長がだ。これは、きっとなにかある。そう、真田君と話しながら、ネタを探った。その結果のネタだ。
「安富さん、あれ、情報提供者の方から現金を要求してきたんですよ。そのやり取りを撮ったテープが存在するらしいです」。面白い!これで巻き返せる。翌日の読売新聞大阪本社刊早版では、「第二のテープがあった 松江署の捜査協力金で新証言」と社会面トップを飾った。今から考えると、意地としか言えない記事で、これを書いたからっと言って、捜査協力費の事実は消せない。しかし、めったに笑わないK次長が翌朝、少しだけ微笑んだ。
ちなみに、ネタ元は、今やから言えるけど、毎朝通っていた松江署の隣の喫茶店主だった。毎朝モーニングを食べにくる刑事が悔しそうに話していた。「俺ら、あのやり取り、テープにとっているんやけどな」と。マスターは真田記者に教えてくれた。
しかし、戦いはまだまだ続く。(つづく

やすとみ・まこと
神戸学院大現代社会学部社会防災学科教授
社団法人・日本避難所支援機構代表理事
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コメント

コメント一覧 (1件)

  • おもろい‼️

    サボり屋だった私とは全く違う仕事ぶり、感服しました。

    喫茶店でネタ取ったという点では愚生にも細やかな同じ思い出が。店は違うけど(日銀支店近くのあそこ)、サボりに入ったK館で、N郡H町役場のチンケな汚職ネタを拾った。隣席の文房具業者のぼやきを耳にしたのがきっかけ。大阪夕刊社会面の3段だったはず。

    もっと真面目に働くべきだった。後悔先に立たず(泣)。

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