大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」61(梁山泊の阪神支局編2) 安富信

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いきなり番外編-広島アジア大会―

 阪神支局に異動して1か月ちょっと。機嫌よく3席生活を楽しんでいたら、もっと楽しい取材が舞い込んだ。平成6年(1994)10月2日から広島市で開かれた第12回アジア競技大会への取材兼デスク仕事だ。取材班の後半組だった。開幕前から途中までの前半組を受け継いで、確か10月6日か7日くらいから広島入りしたと思う。前に書いたかと思うが、新聞社ではこうした大きなスポーツ大会が開かれると取材班を組んで現地取材を繰り広げる。オリンピックやアジア大会、高校野球など、スポーツ面だけでなく、一面、社会面、関係県版に記事を書き分ける。この大会は日本で36年ぶりに開かれる注目を集めた大会だった。で、運動部だけでなく、社会部と地方部が取材班を結成して広島総局に入った。
 社会部からは次長と主任格が各一人、遊軍から2~3人、地方部からは各支局から5人程度の計10人の取材班を組んだ。後半組のキャップは加藤譲・社会部次長、主任格で筆者、あと名文家と言われたM田さんとY崎さんらだったと記憶するが、意外にここら辺りは記憶が薄い。地方部班は地方部次長2人と主任格と各支局からの5人だった。社会部班の仕事は、アジア大会の話題を社会面に書くことだった。筆者はほとんどが総局でのデスク作業だったが、たった2度だけ取材に出た。それは後述するとして、広島での楽しい出張の様子を書こう。

ドケチ総局長、お好み焼きもまさかの「割り勘」

 広島総局は初めてだった。当時の総局は、裁判所や合同庁舎近くの上八丁堀、広島女学院中高の前にあった。3階建ての総局の3階にアジア大会の取材本部が設けられた。宿舎は広島一の繁華街の流川通りか薬研堀通りの近くのビジネスホテルだった。つまらない話ばかりよく覚えている。総局長はF田さんという、大阪読売社会部の“有名人”だった。あまり名誉ではないことで有名な人だった。一言で言えば、ケチだった。社会部遊軍時代のホンマにつまらない“伝説”がある。遊軍で泊まり勤務の明けの朝、6階にある喫茶室からモーニングサービスを頼むことがよくある。その際、付いていたゆで卵を食べずに残すことがある。そのゆで卵にマジックペンで名前を書いて冷蔵庫に入れていたというのだ。要するに、他人に余った卵を食べられたくないという、しょうもない話でした。すみません。

アジア大会での種々の記事 


 そのケチな総局長が、取材班が広島に到着したその夜、広島名物のお好み焼き村に取材班10人ほどを誘ってくれた。「珍しいな」とささやきあって、広島お好み焼きをいただき、ビールを飲んだ。果たして、割り勘だった。というより、キャップの加藤譲さんが多めに出したほどだ。もう一つ、しょうもない話を思い出した。お付き合いください。大会途中、大阪から編集局長が陣中見舞いに来た。広島駅まで迎えに行ったF総局長とS三席、総局に着いたのだが、2人とも小銭を持っていなかった。局長がポケットマネーから出したという。これもつまらない話でした。まあ、こんな風に、取材+デスク作業が終わると、夜な夜な流川に繰り出して、飲んで食った。

悲劇のカンボジアから20年ぶり選手団

 中日だったかな? 男女マラソン大会があるので、社会面の記事を書くために現場に出た。10月9日に行われた男子マラソン。ポル・ポト時代の虐殺や内戦状態が長く続き、ようやく平和になったカンボジアの選手団が20年ぶりにアジア大会に参加した。マラソン選手の2人は日本の「ガンバレ・カンボジア・プロジェクト」の民間募金などで実現した42.195㌔だった。1人が2時間49分1秒でゴール、2人目は、その9分5秒後にゴールした。戦争や内戦の悪を伝え、平和の尊さを訴える、大会前から仕込んでいた記事だ。その際、女子のマラソンも見ていたが、こちらも、またある意味で壮絶な戦いだった。詳述はしないが。

サッカー、「宿敵」韓国に敗退

 もう一つ、志願して取材に出たのが男子サッカーだ。筆者は小学校5年から高校3年生までサッカー部に所属し、高校時代には総体や正月選手権の全国大会にも出場した経験がある。この大会の意味することは、前年に「ドーハの悲劇」でW杯出場を逃した日本の再出発の国際大会だった。当然ながら、開催地優勝が期待されていた。いや、優勝して当たり前のように言われていた。そんな試合だから、テレビで観るのではなく、スタジアムに足を運んで生で観て日本の勝利を書くつもりだった。しかし、またも、宿敵・韓国に敗れた。1対1の同点から終了間際にPKを取られて惜敗した。1年前のドーハを彷彿とさせる試合だった。悔しかった。だから、書き出しは、「またもロスタイムの悪夢に泣いた――」である。情緒的だな。さらに、「日本は宿敵・韓国を相手に因縁対決にふさわしい好ゲームを繰り広げたが」と続けた。かなり、感情が入った下手な原稿だ。本社で原稿を受けた、筆者の“宿敵”地方部H次長は「宿敵って言い過ぎやないか、ライバルではどうや」。うるさいわい!韓国はずっと日本の宿敵なんだわ!と心の中で毒づいた。FIFA(世界サッカー連盟)の国際ランキングではほぼ常に日本より低い韓国は日本戦になると、異常な執念を燃やし立ち向かって来て番狂わせを演じる。それはサッカーだけではなく、野球やその他のスポーツでもそうなんだが。日韓の不幸な歴史を考えれば、当然と言えば当然のライバル意識というより宿敵なのだ。しかし、今読み返してみると、明らかに感情過多だ。冷静な頭で書いていない。記者失格だな。まあ、それでも「宿敵」は記事に残った。

筆者が関係した記事

金メダル15万円、銀は10万円

 25年以上も前のアジアは今よりまだまだ各国間の経済格差が大きかった。日本は高度成長を成し遂げ世界2位の経済大国になっていたが、中国はまだまだ発展途上で、中央アジアの国々はまだまだ貧しかった。アジア大会のような国際大会に出場した選手たちには、複雑な事情が多くあった。畢竟、大会開催中にも様々な競技以外の出来事が起きる。スリランカ、ネパール、パキスタン、イランの4か国計選手10人の男子選手が姿を消した。多分、ビザなしで来た日本で亡命したのだろう。そして、ある意味、究極的な“事件”を朝日新聞が一面トップですっぱ抜く。「中央アジアの男子選手が金、銀メダル各1個を広島市内のコイン店で売却した。金が15万円、銀が10万円」と15日に報じた。抜かれた読売の取材班は大騒ぎになった。地方部のH本次長は、「すぐに朝日新聞広島総局に行って取材して来い」と部下のO主任に命じた。ちょうど、総局に帰ってきた加藤・社会部キャップや筆者らは目を丸くした。「抜かれた先に取材に行くなんて、聞いたことがないわ」とO主任を止めた。H次長は切歯扼腕していたが。実はこの日は大会最終日だった。閉会式を終えて、取材班は解散して、帰宅するはずだった。

メダル売却、朝日記者が仲介

 しかし、加藤キャップと一緒に取材に異議を唱えたものだから、おいそれとは帰れない。しまったなあ! 翌日、若い記者たちと一緒にコイン店などに取材をしたら、なんと、金銀メダルの売却の仲介をしたのが、記事を書いた朝日の記者だった。いわゆるマッチポンプだ。これを持って朝日新聞広島総局に取材すると、あっさりとその事実を認めた。翌日、第2社会面に書いた記事がこれだ。「アジア大会メダル売却記事 朝日新聞 コイン店を記者が紹介」。翌日、ようやくほぼ2週間ぶりに阪神支局に戻った。

「お前が次席だ」記者の最期

 しかし何故か、本社社会部の筆頭デスク、恒川次長が支局にいた。この人、後に地方部長として筆者のデスク人生に大きな影響を与えた人だ。加藤譲さんと同期の東京生まれの東京育ちの生粋の江戸っ子だった。大阪に来て数十年経っていたが、その頃まだ「ひ」が「し」になっていた。「それにしても、しろしま総局はだめだな」と言っていた。その人が何故か、筆者の帰局を待っていたかのようにいた。悪い予感がした。「安富、ご苦労さんだったな。ところで、明日から真鍋次席は本社に上げる。お前が次席だ」。居酒屋の隣の席で中島支局長がほほ笑んでいたことだけをよく覚えている。文字通り、新聞記者の最期だった。(つづく)

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