大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」62(阪神・淡路大震災から防災研究へ1) 安富信

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戦後50年連載、終了日に大震災

 アジア大会から帰って来たら、大阪読売社会部阪神支局の次席になった。正直言って、翌年春には次席だろうと覚悟していたので、そんなに驚かなかった。寧ろ、中途半端な3席より、仕事がはっきりして良かった。いよいよ、これで、記者生活とお別れで、デスクになるんだ、と思った。
 それから2か月余り、阪神版をコツコツと作り、たまには全国版にも支局の記者たちの記事を載せた。年が明けて平成7年(1995)は、戦後50年の記念の年だった。全国版では、誌面のあちこちで、50年を企画した連載記事が並んだ。阪神版でも、何かやることになり、年末から企画を練って、阪神間は、甲子園球場がある西宮市をはじめ、スポーツに関連する施設が多く、「スポーツと阪神間」をテーマに年明けから連載した。野球、サッカー、アメリカンフットボールなどなど15回が終わったのが、ちょうど1月17日の朝刊だった。
 前にも書いたが、最終回を提稿して、16日夜は支局で宴会を催した。ビール、日本酒をいっぱい飲んで、しこたま酔ってタクシーで三田に帰宅したのが、17日午前2時頃だったと記憶する。その約4時間後、激しい揺れに飛び起きた。この後の顛末は以前の番外編で書いたので、省略するが。

阪神支局25人体制で被災地取材

 1995年1月17日午前5時46分。これを境に筆者の人生が一変した。とりあえず、翌日から3月20日に地下鉄サリン事件が起きるまでは、地震、地震、地震の生活だった。もちろん、その後も、阪神版の紙面は震災関連の記事がほとんどで、機会を見つけては、短期の連載をやった。避難所になった学校を取り上げたり、仮設住宅での生活に慣れない被災者を取り上げたり。そして、5月になって人事異動があり、阪神支局は25人ほどの震災報道体制となった。西宮に3席格のキャップを置き部下を2人、芦屋にも2人と被害が大きい地域に人材を増やした。
 毎日忙しいなか、ワイワイガヤガヤと楽しい支局だった。支局長も筆者が松江時代からの先輩記者、森栄徹さんになり、これがまた、けっさくな毎日だった。森栄さんは、上司としても非常に魅力的な人だが、大きな欠点があった。普段は支局の3階の支局長住宅に寝泊まりしているが、休みの日、特に休刊日前などには、八尾市の自宅に帰ってほしいが、何故か帰らなかった。奥さんが怖くて帰れなかったのかも?
 で、日曜日などは、自らがデスク作業を買って出て、筆者を休ませてくれる。それはありがたいことなのだが。休刊日に用事があって支局に行くと、事務所に座っている。「どこか行きなはれ」と言ったら、支局車でどこかに出かけて夕方に帰って来た。「宝塚のヘルスセンターに行って来たわ」。そうそう、その頃、宝塚温泉の真ん中にヘルスセンターがあったわ。

応援記者はフィギュアスケーター!

 短期連載をやる時、地方支局から若い記者が応援や勉強も兼ねて支局にやって来た。夏の夕刊短期連載だったかな?確か学校をテーマにした連載だった。松山、奈良両支局から男女2人の記者がやって来るという。そのうちの女性記者は、女子大でフィギュアスケートをやっていたという触れ込みだった。森栄支局長は痛く期待した。「安富、スケーターの格好でけーへんかな?」。来るわけないやん、しっかりセクハラやん!果たして、普通の格好で来られました。
こうして、支局長や若い記者たち、地方からの応援記者たちと、震災報道を続けた。日々の全国版記事に加えて、地震発生から1か月、2か月、3か月、半年、100日、200日、1年の節目には、連載記事や特集記事を随時掲載しながら。こういうのを、「記念日報道」とか「周年報道」と呼ばれる。良い点もあれば悪い点もある。それは、後ほどゆっくりと。(つづく)

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