能登復興の「物語」を 藤平朝雄さん②

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青年国司・大伴家持の能登巡検

 能登復興のキーワードのひとつは、748年の大友家持の能登巡検です。私はこの十数年、家持をおいかけてきました。
 家持は746年、29歳という若さで越中4郡と能登4郡という大国の国司になり5年間つとめます。
 能登を巡検したのは748年の1カ月たらずで、能登では5つの歌と3つの民謡をのこしています。
 能登の歴史上、「国」のトップがぐるりとまわったのは家持以外には、加賀藩第13代藩主・前田斉泰(なりやす)の巡検(1853年)しかありません。それくらい為政者は中央ばかりむいていました。家持は地方にも目をくばる、あるいは地方の魅力に気づく稀有な存在だったんです。
 家持が生涯で一番幸せな時期が能登にきたころでした。越中で国司をしていた後半になると、思いは奈良にとんでいます。
 さらに42歳のときつくった万葉集巻末の歌以降、68歳で死ぬまでの26年間は歌はひとつものこされていません。藤原一族によって政治的に迫害され、あちこち転々とさせられ、東北の多賀城で亡くなりました。死の1カ月後、藤原種継暗殺事件の首謀者とされて領地を没収され、実子の永主は隠岐に流されました。

 お熊甲(おくまかぶと)祭の久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶとあらかしひこじんじゃ)(七尾市中島町)の人たちから「この神社に家持がよったんですか?」ときかれたことがあります。
「どこの記録にもかかれていません。でも1300年前の記事にかいていなくても、土地にいるみなさんが『よった』と信じたらそれでいいじゃありませんか」
 そうこたえたら、みなさん苦笑いしてました。たちよった記録があるのは気多大社だけど、29歳の青年知事は意気揚々とあちこちにでかけているから、この神社にきた可能性は十分にあります。
 国文学者の中西進さんによると、家持が「みたまま」をうけとめて歌にしているのは能登にいたときまでだそうです。後年の歌のほうが評価は高いけど、「大伴家もオレもこれからだ!」と当時の家持は自信にあふれていた。人生で一番はつらつとしていた時期に、能登でつくった歌と民謡ににこそ、家持の健全な精神があふれています。家持の吹かせた天平の風は能登復興のヒントになると私は信じています。

「能登の花鳥木」最後のピースはトキ

 私の20年来の念願だった「能登の花鳥木」が昨年(2025年)やっときまりました。
 2003(平成5)年、能登空港の開港2カ月前、能登半島広域観光協会の総会で私が手をあげて発言しました。
「能登は市町村ごとに花も鳥も木もあるけど、旅行者から見たら能登はひとつ。能登の花と鳥と木が必要です。広域観光協会できめなきゃいけません」
「藤平さん、あんたが中心になって、いろいろ調査研究してくれんか」となり、それから能登中くまなくまわって、有識者の話もたくさんきいて文書もしらべました。

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ノトキリシマツツジ=2011年

 2007年までに、花は「ノトキリシマツツジ」、木は「タブノキ」にきまります。鳥は、本州で最後までのこっていたトキしかないのだけど、1970年に穴水町で最後の1羽の能里(のり)ちゃんが保護されて佐渡にはこばれ能登にはトキはいなくなりました。「この空にいないのに、トキを指定するわけにはいくまいが」と「待ち」のままでした。
 そんななか環境省が2025年に放鳥をきめ、今年(2026)5月と6月に羽咋市で計18羽がはなたれました。環境省の決定をうけて2025年7月の総会でトキを「能登の鳥」としました。

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2015年、珠洲に飛来したトキ「美すず」

 22年かけてやっと「花鳥木」の三役がそろいました。この3つは、全国的にみても胸をはってよい存在です。
 自分たちの内側から元気をつくっていくことは、能登にいる人たちの仕事です。そのためには背景となる骨格や物語が欠かせません。
 能登にはおいしいものはたくさんあり、輪島塗りや珠洲焼き、塩、イシルなどはあるけど、気楽に買える「能登らしい」観光みやげがありません。みやげはその土地の代名詞みたいなものです。全国のおみやげは、もとになる由来や根っこがかならずあります。
 大伴家持や「花鳥木」をいろいろなかたちで深掘りすれば、能登復興につながる、あらたな能登みやげをうみだすヒントもえられると思っています。

災害から家をまもるタブノキ

 2024年9月の豪雨では海岸に膨大な木がながれつきました。人工的に植林したスギとアテばかりです。我々の生活のために、人間が浅知恵でうえたものが地震と豪雨でいっぺんに海にながされました。あれは「拡大造林」という国策によるものです。膨大な山の財産をむだにしただけでなく、撤去するのにも何千万円という費用がかかります。なのにだれも国を責めません。

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スギの山は地震と豪雨で崩壊した=輪島市町野町
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輪島市の光浦に漂着した大量のスギ=2024年

 一方、能登の木であるタブノキとかモチノキ、シイ、カシといった昔からこの大地にある木はふかく根をはっているからびくともしていません。輪島の重蔵神社をみてください。建物は全部だめになっても、巨木は平然としています。
 火事のときにタブノキが水をふいて家をまもったという伝説はあちこちにあります。「水をふいた」というのはつくり話だけど、それくらい自然の巨木は力をもっていました。

曽々木 観光資源は壊滅したが……

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竪穴式住居のようになってしまった上時國家

 能登の観光ブームはここ曽々木からはじまりました。
 今回の地震と豪雨で観光スポットも大打撃をうけました。
 上時国家は2007年の能登半島地震ではビクともしませんでした。だからガイドさんは「180年たってる建物ですが、震度6強の地震でもビクともしていません」と豪語していました。
 でも東京で弁護士をしている小学校の同級生が6、 7年前に時国家にきたとき、不思議そうに言いました。
「藤平さん、柱があって、そのあいだは全部ふすまになっている。ひょっとしたら全部がひと部屋になるんじゃない? (2007年の)地震でよくもったね。不思議だ。この家は地震に弱いんじゃねえかと思った」
 私は上時国家の先代の時代、冠婚葬祭のときにお手伝いをさせられました。そのときふすまなどを全部とっぱらうと畳200枚もある家がひと部屋になるのを目にしました。柱しかない。壁がない。要するに筋交いがないんです。
 上時国家は名大工がつくったけど、江戸時代の棟梁は震度7は想定していなかったんですね。
 「ひと部屋ですね」と地震に弱いことを指摘した人は、その同級生以外はひとりもいませんでした。
 上時国家は11年後、下時国家は5年後という復興計画がありますが、簡単にはいかないでしょう。
 たとえ復興しても、ただ見学をうけいれるだけなら意味がありません。
 大きなスペースがあるから、郷土芸能とか料理とか、年寄りの活動拠点にするとか……昔の使いかたを参考に、令和の時代の生かし方を工夫する必要があるでしょう。

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2014年

 「千体地蔵」への登山道も崩壊しました。
 1973年の集落の集会で、山仕事の人が手をあわせていたという千体地蔵が話題になりました。みんな「きいたことはあるけど、みたことがない」と言います。2日後、山のなかを半日あるいて、危険な崖にでて手近な岩にしがみつくと、「それが千体地蔵や!」と同行の男性が崖の下からさけびました。流紋岩の柱状節理の先端が丸くけずられて地蔵の頭のようになっていました。曽々木に塩田がひろがっていたころは、海水をたく薪をとりに山にはいる人が多かったから地蔵は身近だったけど、塩田がなくなって、やぶにおおわれていたんです。
 その後、散策道や展望台が整備され、うちがユースホステルをやっていたころは、毎朝6時に10人、20人の若い人たちが列をなしてのぼりました。出発して30分後、私が下からタオルをふると、千体地蔵のすぐ下の展望台からみんながタオルをふっていました。

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左下のこわれた展望台の奥に千体地蔵があった=2026年

 1792年に麒山瑞麟(きざんずいりん)和尚が掘削し、1887(明治20)年に大改修された手掘りのトンネル(通称「せっぷんとんねる」)もうまってしまいました。
 窓岩はくずれて「窓」がなくなりましたが、さかさまになった岩が落ちそうでおちない今のかたちも、鳥が翼を広げたようで悪くありません。「落ちない」ということで受験生に人気がでるかもしれません。
 千体地蔵の両側の谷はくずれて登山道も展望台も破壊されましたが、千体地蔵の一部はまだのこっているはずです。もう一度、千体地蔵への道がひらかれたら、それこそ最終的に「復興がなった」ということになるのでしょう。

 私は2027年の夏に米寿をむかえるので、運転免許を返上するつもりです。免許のあるあいだは、能登復興にちょっとでも役だてるよう、大伴家持や花鳥木について原稿をかいたり、おしゃべりしたりしていきます。運転免許がなくなって遠出できなくなったら、地元のことをもう少し深掘りしようかなと思っています。
 これからはもう、1年1年だけど、あとは私という小さな灯りを大きくて太いろうそくにうけついでもらえばよい。それが最後の役割だと思っています。

(トップの写真=阪神・淡路大震災の神戸市でともされている「希望の灯(あか)り」の分灯。かつての窓岩が再現され「窓」に灯りがともるようになっている)

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コメント

コメント一覧 (1件)

  • […]  地元の曽々木地区は震災の年から夏祭りを復活し、今年(2026年)も、ドーンと花火をあげて、ボランティアの力をかりてキリコもかつぎます。 名舟の隣の南志見地区の「水無月祭り」は名舟大祭の1日前にありました。ここは7本のキリコがでました。地震で人が減って、もどってきた人も仮設住宅ですから、キリコはかつげず、立てただけだったと思いますが。「本来の祭りは地元の人だけがやるもんだ」「祭りの日を土日にするのはいかがなものか」「ボランティアだのみはおかしい」などと批判する学者もいるけど、とんでもないことです。 祭りをはじめたのは人間なんだから、時代の事情にあわせて変化したらいい。 外からきたボランティアは、声のかけかたも、かつぎかたもわからないけど、そんなのは問題じゃない。いっしょにかついでおなじ空間と時間をすごすのことが大事なんです。 文化庁が2015(平成27年)に創設した「日本遺産」の第1号(最初の18件のストーリーのひとつ)に、「灯(あか)り舞う半島 能登 〜熱狂のキリコ祭り〜」が認定されたのは、私にとっても夢のような、まさかのまさかでした。 獅子舞は全国にあるけど、キリコが集中しているのは能登だけです。キリコ祭りのなかにこそ「地元」があります。キリコ祭りは地震後も各地で活発にひらかれています。 キリコをだしてきた集落で、地震でだめになったところはおそらくないと思います。(つづく) […]

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