大阪のメディアを考える 「大阪読売新聞 その興亡」2 安富信

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新人記者、大阪本社での1か月半

兎にも角にも、憧れの大阪読売新聞の記者になった。普通、初任者研修は1か月程度なのだが、この年昭和54年(1979年)は統一地方選挙が4月にあって、赴任先には「邪魔」なので、11人の新人記者は、4月1日に入社してから1か月半以上も本社に留め置かれた。(冒頭の写真は、大阪本社の写真部でカメラ取材研修中の私です。「めっちゃ好青年や!」と言われました…)

必然的に長い間、黒田軍団全盛時代の社会部にお邪魔虫でいられた。所轄署回りにも出させてもらって、記事も書かせてもらい、人生初の記事が大阪府下版にも掲載された。ベタ記事(一行の短い記事)だったが、「幼児、洗濯機に挟まれ死亡」だったかな?

大阪市内の「動物園回り」という西成区や浪速区を担当する記者のM記者に、書かせてもらったが、後から考えると、地方に行けば、地方版のトップ記事になるのだが、大阪だから大きな記事にはならない。何故ならもっと大きな事件が目白押しなのだ。ともかく、新聞記者になって初めて載った記事。その後、研修時代にクエスチョンという夕刊で記者たちがちょっと?と思うことを書くコラム記事を書いたのだが、何を書いたか、覚えていない。

余談だが、社会部に置いてもらった時間が長いので、5月初めに挙行される、「全舷」と呼ばれる社会部名物の泊りがけの宴会にも参加した。全舷とは、旧日本の海軍が寄港したとき、乗組員の半分だけが上陸して英気を養う「半舷」に比肩して、事件事故に明け暮れる社会部員が一年に一度だけ、羽目を外して飲もう!という企画だ。ここに新人記者の我々も参加した。ついでに言えば、同期記者11人のうち、いわゆる二世と呼ばれる、読売新聞関係者が親だという記者、大学時代にアルバイトで社会部や運動部などにいた「坊や」と呼ばれるバイト上がりが、同期の中に2人いた。後に、このことが重くのしかかることになる。

社会部遊軍付の新人記者班として参加した。遊軍とは、社会部内のベテラン記者たちの班だ。社会部には、部長、デスクグループ、主任グループといういわゆる管理職に対して、下から、大阪市内サツ回り(曽根崎、動物園、ミナミ、港など4から6の所轄回り)、大阪府下の支局(豊中、枚方、堺、泉州など)、大阪府警本部担当(キャップにサブキャップ、捜査一課、二課、三、四課担当、生活経済班担当など8、9人いる最大グループ)、司法担当(裁判所、大阪地検担当)、大阪府庁、大阪市政、特殊官庁(大阪国税庁などの国の機関の出張所)、空港、JRなどの交通関連担当など。遊軍記者とはそのいろんな担当を経験したベテランの記者で、30代後半から40代前半、大阪読売一の花形部署である。社会部の全盛時代は全部で150人近くの記者が所属していた。その各班が、その全弦で寸劇とかの出し物を披露する。われわれ新人記者班も、出し物を出した。仕方ないので、遊軍先輩記者たちのモノマネをやった。筆者は、捜査二課で名を挙げた眼光鋭いKさんのモノマネをした。

余談が長くなってしまったが、昭和54年(1979年)5月23日、ようやく赴任先に出ることになった。ここでまた余談だが、この赴任先には、必然ともいえるからくりがあった。読売新聞大阪本社の管轄は、福井県を含む近畿の6府県と中四国(山口県を除く)の8県の計14府県だが、記者たちの希望支局は偏っている。今はどうか知らないが、人気のないのは、日本海側、福井、島根、鳥取3県はワースト3県だ。逆に人気があるのは、高知、愛媛、徳島の四国3県だ。広島は原爆取材をしたいという勉強家に好かれ、神戸、京都は普通は大きな支局(後に総局)なので、初任地から外れ、2番目の赴任地になる可能性が高い。

しかし、この2世や坊や上がりには、この法則が適用されないことを後で知った。曰く、2世や坊や上がりは、大阪近隣の支局に派遣されることがわかった。よって、坊や上がりのW君は神戸支局に、O君は奈良支局だった。言動が悪い、筆者は松江、U君は鳥取、S君は福井だった。

信じられない元海兵の支局長

とにもかくにも、23日朝に大阪駅を出発して、よせばいいのに、鳥取のU君と一緒に山陰線に乗り、のんびりと日本海側の鉄道の旅を満喫して、鳥取駅前の大丸で昼食を食べて、松江駅に到着したのは、夕暮れだった。神戸で育った22歳の青年にとって、初めて降りる松江の駅は田舎過ぎた。タクシーなんかない。仕方ないから歩いて松江の街を20分ほど歩いて、ようやく市内の場末にある読売新聞松江支局に到着した。

5月末の夕暮れ、いやもう夜8時近かっただろう。松江市末次町というどちらかと言えば、少し繁華街から外れた所に、中二階の支局があった。階段を上がって、支局内に入った途端、奥の方にいる赤鬼みたいな太った男から罵声が飛んだ。「誰だ!新人の安富か!今頃まで何をしていた!」。「鳥取支局に赴任した同期の記者と鳥取駅で降りて、昼飯食って名残を惜しんでました。松江って田舎ですねえ。駅前にタクシーがないので、歩いて来ました」。馬鹿な新人記者はヘラヘラと答えた。うん? 関西のノリでやり過ごせないのか? と思った瞬間から、約1時間、呉の海軍兵学校出身というI支局長から説教を食らった。

ようやく、説教が終わり、とにかく座れ!と言われて、末席に座って、一服しようとしたところ、なんとチョークが飛んできた。うん?と斜め前に座っているぽっちゃりとした黒縁眼鏡のK先輩が、なんかダメダメと手を振っている。すかざす、「ここは禁煙だ!タバコなんか吸っているから馬鹿なんだ」と罵声が飛んできた。そう言えば、この事務所には灰皿が一つもない。40年ほど前の日本の社会では、ある意味、画期的な事務所だった。

夜9時を過ぎたころ、ようやく解放されて、I支局長が見つけてくれたという、住居にたどり着いた。確か1軒家で2階建て、下が台所と3畳一間、二階が6畳一間で家賃3万円、今から考えてもすさまじい家だった。築30年以上だろうか。後で支局長が言うには、島根県警察員の官舎がすぐ近くにあるからとか。有難いことだ。支局長から持たされたのは、今や化石となった、ポケットベルという代物。今のスマホと同じくらいの大きさだが、充電器とセットですぐに充電が切れるので、自宅から出先まで持っていかなければならない。

ともかく、翌日から、支局内研修始まった。まるで、お寺の修行僧だ。言葉使いやたたずまいに始まり、写真の現像の勉強、外から入ってくる電話対応。最も難しいのが、松江支局管内の通信部と呼ばれる記者たちからの原稿を電話で受け、読売新聞独特の原稿用紙に、書き記していくことだ。これを電話で原稿を吹く、という。当時松江支局には、隠岐島、出雲、江津、大田、浜田、益田の6通信部があり、まだ会ったこともないベテラン記者たちからの原稿を受けた。難儀なのは、新聞社独特な言葉の言い回し、それに方言だった。

例えば、クレジット出雲、で始まる原稿受け、だれも教えてくれない。クレジットとは、発信通信部を初めに記すもので、【出雲】のように。そこから、何日何時何分ごろ、どこどこで、という5W1Hで始まる記事が読み上げられる。本当に苦労したのは、出雲弁と呼ばれる方言だ。地元出身のベテラン記者たちの出雲弁はきつく、何を言っているのか全く分からない。例えば、出雲は「えずも」と聞こえるし、宍道湖の蜆は、「すんずこのすずめ」に聞こえる。関西人には!まあ、ともかくもそういう支局内研修を1か月ほどやって、ようやく「外」に出る。

「外」とは、1年生記者にはサツ回りのことだ。日本の新聞記者は今も昔も、なぜか、サツ回りが記者の基本のようだ。松江支局の場合、1、2年生記者は松江警察署が記者の仕事始めであり、同時に島根県警本部の記者クラブに配属される。そこで、先輩記者、2,3年記者とともに、松江警察署管内の事件事故を担当し、さらに、島根県全体を担当する県警本部を受け持つ。新人記者の第一歩は、松江警察署の副署長への取材だ。ある意味では良くできたシステムである。概ね50歳前後のベテラン警視、ここを足掛かりにさらに出世する立場だ。全国から来る新米の記者たちを上手くさばく能力を高めるポストだ。さあ、新米記者のサツ回りスタートです。(つづく)

やすとみ・まこと

神戸学院大現代社会学部社会防災学科教授

社団法人・日本避難所支援機構代表理事
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