大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」23(京都編9) 安富信

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花街記者クラブの会見、舞妓さんのお酌つき

さあ、京都編もそろそろ終わりにしよう! 宿題を残していたので、まずはそこから。宗教記者クラブは世界に2つあると書いたが、世界に1つしかない記者クラブは? わかった方もいるのではないだろうか? 京都らしい文化と言えば、やはり、花街(かがい)だ。だから、京都には「花街(はなまち)記者クラブ」が存在する。
京都には5つの花街がある。祇園が2つに分かれていて祇園甲部と祇園東、それに、先斗町、上七軒、宮川町だ。それぞれの街が歌舞会を持っており、春や秋にその披露公演がある。祇園甲部は「都をどり」(通常4月開催)、祇園東は「祇園をどり」(同11月開催だが、近年はコロナ禍で中止)、先斗町は「鴨川をどり」(通常5月に開催)、上七軒は「北野をどり」(通常3月から4月に開催)、そして、宮川町は「京おどり」(通常4月開催)。この5つの花街がそれぞれの舞踊を毎年春か秋に公演する前に、記者クラブに対して、その年の演目、狙い、見どころなどを発表するのである。多分、花街記者クラブの存在意義はこのためだけであり、従って、記者発表は年に数回しかない。しかし、この記者クラブに所属する記者たちは、この発表を心待ちにしている。
どの社もこの花街記者クラブに所属するのは、宗教記者がほとんどだ。稀に経済記者もいるが。京都の宗教記者はお東紛争や古都税紛争で忙しいので、年に数回しかないこの記者発表を非常に楽しみにしている。実は、筆者が京都にいた頃、読売新聞京都支局では何故か祇園甲部の記者クラブだけは斎藤デスクが所属しており、残りの4つは宗教担当が所属した。よって、筆者も昭和61年(1986)7月からは祇園甲部を除いた花街記者クラブに所属した。その頃は、宮川町と上七軒は舞踊の記者発表をしていなかったので、祇園東と先斗町だけの記者発表に出た。

先斗町の鴨川をどりが開かれていた(2022年5月)

なぜ、歴代の記者たちが楽しみにしているか、出てみてよくわかった。例えば、祇園東の発表は、所属する歌舞会トップの「取締役」(女将)のお茶屋の座敷で開かれる。30畳か40畳もあろうかと思われる広い座敷に記者たちが座る。なぜか、記者たちの座布団は一つずつ席が空いている。取締役がおもむろに挨拶して、用意していた発表資料を読もうとする。すると、地元京都新聞の幹事役のベテラン記者が発声する。「取締、まあ、内容は読めばわかりますから、始めましょう!」。女将は「そうですね。無粋どしたね。では!」と言って、パンパンと手を叩く。そうすると舞妓さん数人がシャラシャラと入って来て、記者の間の席に来て、お酌してくれる。そうなんだ!と思っていたら、三味線が弾かれ舞妓さんの踊りが始まり、すっかり宴会ムードに。嫌いな方ではないので、すっかり酔っぱらってしまい、2時間ほどするとお開きになる。祇園名物「いずう」の鯖寿司をお土産にもらった記者たちは、ご機嫌で支局に帰るという寸法だ。

素顔の舞妓さん、化粧の舞妓さんを記事に

ついでにわかった。なぜ、斎藤デスクは祇園甲部の記者クラブ員の権利だけは若い記者に渡さなかったのか。祇園甲部は5つの花街で最大でかつ贅沢だったからだ。それで、思い出した。前回、全国版(3面辺り?)に顔欄があったと書いたが、当時は地域版にも顔欄があった。斎藤デスクがある日、笑いながら、持ちかけて来た。こういう時は要警戒だが。「安富君、県版の顔で舞妓さんを取り上げよう!それも普通の化粧をしている舞妓さんだけでは面白くない。素顔の舞妓さんと、化粧した舞妓さんを2日連続でのっけよう」。面白いな!と思ったが、果たして地方部プロパ―のデスクたちは「とんでもない」と反対した。そんな声に耳を傾ける人ではない。結局、反対を押し切り結局、筆者が取材に行った。祇園では断られ、先斗町で引き受けてくれた。先斗町の舞妓さんは「市〇さん」という源氏名がほとんどだったが、取材した舞妓さん源氏名は以下の通りで、本名も明かしてしまった。記事を読むと、今では絶対に書けないセクハラ表現がある。これはデスクが勝手に書いたと記憶するが、ダメだね。ともかく2日間、カメラマンと密着して取材した。舞妓さんは18歳。襟替えという舞妓から芸妓さんになる前の京都市出身の女性だった。華やかな表とは違って厳しいお稽古、しつけなど何度もうち(家)に帰ろうかとおもったという。舞妓さん独特の話し方は、地方からの女の子たちの訛りを消す作戦だと教えてくれた。

地方版の「顔」欄で、素顔の舞妓さんとお化粧した舞妓さんを掲載

斎藤デスクの人脈は確かに豊富だった。ノンフィクション作家の後藤正治氏(元神戸夙川学院大学学長)とはデスクの紹介でその後も何度か酒席でご一緒させてもらったし、作家の椎名誠氏とは、妻の渡辺一枝氏が出版したお雛様の本を紙面で紹介したことをきっかけに知り合いになった。有難いことである。
京舞井上流の四世家元で人間国宝の井上八千代さんは、京都支局の隣にあった病院に通っておられ、当時80歳を超えていて、前にも書いたが、こういうご高名な方の近況を新聞社は勝手に心配していたが、元気に?病院に通われる姿を確認し、安心したものだった。2004年3月、99歳で死去され、現在は五世井上八千代家元が名跡を継いでいる。お茶やお花の家元らとも、取材でご尊顔を拝見できた。そういう意味では、2年間の京都支局生活は、問題も多かったが、刺激的であり非常に勉強にもなった。

人間国宝・4代目家元の井上八千代さん

特報した「仏教世界センター」は宿泊施設、「京大情報学部」は立ち消え

別に整理するわけではないが、京都時代の総括をしよう。宗教回りとして、古都税問題に頭を悩ませながらも、それなりに特ダネを書いた。

仏教の世界センタ―建設を謳った特ダネだったが、先日現地を訪れると、本願寺聞法会館になっていた

1つは、西本願寺(浄土真宗本願寺派、京都市下京区堀川通花屋町下る)が昭和61年(1986)7月に185億円で買収した北隣の本圀寺跡地(約2万1000㎡)について、仏教の世界センターの役割を果たす国際会議場を中核とする「本願寺総合文化会館」(仮称)を建設する構想を固めた、という特ダネだ。長い前文だが、要するに、西本願寺が京都に仏教世界センタ―を建設するという壮大な計画だが、それ以上でもそれ以下でもない。9月29日夕刊の1面トップ記事になったが、それほど感激はなかった。マヒしていたのだろうか? 2022年5月初めに現地を訪れたが、世界仏教センターはなくて、本願寺聞法会館という宿泊施設になっていた。
もう1つは、7月12日付朝刊1面トップ記事だ。こちらの方はわかりやすい。横凸版で「京都大に『情報学部』」、縦見出しで「64年開設構想」、「文・理の枠超え10科」、「学研都市が有力」と4本も見出しが付く特ダネだ。しかし、これも大して燃えない。後輩のN山記者が京都大学内でちらっと見た情報を、筆者のネタ元に当たって、事実だと確認。講座構想の文書まで入手した結果だった。しかし、当時は確かにこの計画はあったが、京都大学に現在、情報学部はない。その時はそう言った構想はあったが、その後、立ち消えになったということだ。そういう話はよくある。しかし、この件でも、ネタを取って来たN山記者と筆者に、部長賞が出た。なんとなく、飽きていた。不遜なことだが。

京都大学情報学部構想の特ダネ?と、期待する声を書いたサイド記事

「故田中代議士」は療養中→痛恨の訂正記事

あと1つ、第一次京都支局時代を語るうえで忘れてならない大失敗があった。大学回りも順調に行っていた時。当に「好事魔多し」だった。昭和61年(1986)3月29日付夕刊2社面トップ記事だ。立命館大学が市民向けに講演会を開いている「土曜講座」が1900回を迎えて、これまでに15万人の市民が聴講したという内容。故末川博・立命館総長が昭和21年(1946)3月、自ら第1回の演壇に立ってから40年。立命館大学の教員だけでなく、他大学の教員や研究者、政治家、作家らが登壇。民主主義や世界情勢、核兵器と人類の未来など、高度成長のひずみが出始めた40年代には公害、婦人、大学問題などのテーマも扱ってきた、と記事では紹介している。失敗したのは、その講師陣の1例を示した箇所である。滝川事件で有名な滝川幸辰・京都大学教授、林家辰三郎さん、奈良本辰也さん、井上ひさしさん、松本清張さんと今では亡くなった有名人ばかりで記事掲載当時はご存命の方も多かったが、1人だけご存命なのに、「故田中伊三次・代議士」とやってしまった。
最悪なことにこの当時、田中伊三次氏は病床にあったから、支援者の方々から猛烈なお叱りを受けた。支局に大勢の支援者が押しかけられた、数日後に「訂正記事」を掲載した。今なら訂正では済まず、「おわび」だろう。非常に失礼でかつ不注意極まりない取材だった。失敗の原因は筆者のいい加減さだ。記事を書きながら、周囲の記者たちに「田中伊三次さんって、確か亡くなったんだよね?」と問いかけて、「そうですね」と答えがあったようで、そのまま確認もせずに書いたのだった。

立命館大学土曜講座1900回の記事で故人としてしまった失敗記事と訂正記事

前回までに書いた、古墳の記事も見つかったので、掲載しておきます。

最古級古墳と銘打った記事と期待感をあおる記事

念願の社会部異動直前、古都税で抜かれ「人事取り消そか?」

そうこうするうちに、昭和62年(1987)を迎え、春になって異動の内示を受けた。社会部吹田通信部。やったぞ! 遂に憧れの社会部だ。松江支局6年、京都支局2年、地方部生活8年を経て本社に「上がる」ことが出来る。余談だが、新聞社はなぜか、出先から支局や本社に通勤することを「上がる」と表現する。余談ついでに言えば、警察官は何故か警察本部や署のことを「わが社」「会社」と呼ぶ。
この頃はどんな時代だったのか? 少し思い調べてみた。戦後40年以上が経過し日本は高度成長の末期を迎えていた。その頂点の時期だった。いわゆるバブル時代。世の中はお金が余っていて本当に景気が良かった。ディスコで踊る女性や「アッシー君」と呼ばれる高級車に乗って女性を迎えに来る男性たちがいた。4月には国鉄分割民営化が断行され、6鉄道会社になった。NTT株が6月に初上場され、初値は1株160万円だった。うちの母親も10株くらい買って、「もうかったよ」と言って、筆者に200万円くらいくれたかな。石原裕次郎が亡くなったのもこの年だった。ちなみに、この年に流行った歌は、①瀬川瑛子「命くれない」②中森明菜「TANGO NOIR」③吉幾三「雪国」。雪国はよく歌ったなあ!
喜びの毎日だったが、良いことばかりは続かない。長くくすぶっていた古都税紛争だったが、最後に修羅場が訪れた。5月1日の異動を間近に控えた4月21日だった。毎日新聞に見事に抜かれた。「社寺 開門へ 古都税紛争解決へ」。「血判状事件」で登場した、W地方部長から直接電話がかかって来た。「安富君、見事に抜かれたな! 異動取り消そうか?」。(つづく

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