大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」24(京都編10) 安富信

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前回、京都編は終わりにしようと書いたが、またもや前言撤回。今や定番になって来た前言撤回ですね。
何を書き忘れたか? 大きく2つある。1つは松江編でも最後になったが、政治+選挙だ。今まさに2022年参議院選挙が公示され、選挙戦の真最中だが、京都の政治は少し変わっている。自民党が圧倒的に強いわけではなく、共産党がかなり強くて、中道から左派もそれなりだった。その辺りのことと、取材で会った政治家について触れる。さらに、2年間の京都支局時代で最大でかつ華やかなイベントを忘れていた。それは? それともう1つ。ここでも災害取材があった。

目次

革新も保守も……多彩な政治家

古都の政治はややこしい。古い都というからには保守が強いか? と言えばそうでもない。京都は古いしきたりや慣習を頑なに守っている反面、進取の気概にも溢れている。ベンチャー企業や大学が林立しているからだろうか。さらに、若い学生たちが積極的に政治に参加する雰囲気があり、昔は必然的に革新系が強かった(今は保守的な学生が多いのだが)。その古都で、長期間京都府政を担ってきたのが故蜷川虎三氏だ。京都帝国大学教授から中小企業庁長官を経て昭和25年(1950)4月に社会党(当時)から京都府知事選に立候補して当選。昭和53年(1978)4月まで、7期28年間にわたって知事の座に着き、全国で初めて「65歳以上のお年寄り医療費助成制度」を設立したり、国が推し進めていた稲作減反に反対して独自の「京都食管」と呼ばれる価格保障制度を設けたりするなど、数々の革新的政治を押し進めた。
しかし、逆に道路行政や教育問題などで全国に後れを取ったという自民党などのネガティブキャンペーンや、晩年の社会党との不和、共産党への肩入れなどといった“負の遺産”も目立ち始めて知事を引退。その後、自民推薦の故林田悠紀夫氏が府知事となって革新府政は終了した。この28年間で京都の政治はさらに混迷の度を深めたといえる。そして、林田府政以降、京都は保守系が府政を担うことになる。

野中広務氏と蜷川虎三氏

そんな政治風土だけに、政治家も多士済々だ。最も有名な人は、小渕内閣で官房長官を務めた元自民党幹事長の故野中広務氏。ほとんど取材をしたことはないが、後年、徳島県絡みの件で電話取材したことがある。一言で言って怖い人である。しかし、筋は通っていた。信念を貫いた人である。保守を奪還した林田府政で副知事を務めた。旧園部町(現在南丹市)出身で、弟の一二三氏は元町長だ。
谷垣禎一・元自民党総裁にも選挙関係で取材したことがあるが、誠実そのものの人だった。昭和61年(1986)7月6日に行われた第38回衆議院選挙では、中選挙区の当時、京都は1区と2区だけだった。1区は自民が伊吹文明氏と奥田幹生氏、民社(当時)が永末栄一氏、公明が竹内勝彦氏、共産が藤原ひろ子氏の5人。2区が自民の野中氏と谷垣氏、共産が寺前巌氏、公明が西中清氏、民社が玉置一弥氏の5人だった。
このうち、前述した野中氏と谷垣氏以外によくお会いしたのが奥田氏だ。奥田氏は元読売新聞記者で先輩のベテラン記者たちとも旧知の仲。しばしば支局を訪れて談笑していた。筆者が覚えている会話は「オレは陣笠だから党内では力がなくてね。選挙でも苦労するよ」。陣笠議員って? 奥田氏は自虐的に使っていたと思うが、その後、衆議院議員を6期務め、橋本内閣では文部大臣を務めたのだから陣笠なのでは決してなかっただろう。同じく文部大臣になった伊吹氏は、新聞記者の取材に対しても傲慢で、全く好きになれなかった。

一番美しかった女性の履き物はパンパース

さて、なぜ忘れていたのだろうか? 第一次京都支局時代で最も華やかで楽しかった取材なのに。本当に綺麗な女性だった。これまでの人生で直接見た女性の中で一番美しかった。2mくらいの至近距離で見たのだから間違いない。誰だ? そう、亡くなったダイアナ妃だ。昭和61年5月にチャールズ皇太子と共に来日し、9日に京都を訪れた。午前中、当時皇太子だった浩宮さまの案内で修学院離宮を見学し、詩仙堂、伝統産業会館を訪問し、午後からは二条城で京都府知事・京都市長が共催した歓迎のガーデンパーティーに臨まれた。ここで、裏千家のもてなしを受けたダイアナ妃は、松竹梅と鶴を色鮮やかに染め上げた友禅染の振袖を羽織り、隣のチャールズ皇太子にポーズし、周囲から歓声が上がった

ダイアナ妃とチャールズ皇太子の京都訪問を伝える読売新聞(昭和61年5月10日付)

京都支局だけでなく大阪本社挙げての取材となったため、大阪社会部からも何人かが応援取材に来た。まだ、携帯電話などない時代。現地取材班は全員大きな無線機を肩にかけて、ダイアナ妃の一挙手一投足を無線機を通して支局に報告する。無線機の電波が強いため、大阪本社管内の全支局にこの無線のやり取りが聞こえた。今も忘れられない爆笑ネタがある。社会部から応援に来たH本さん。後に取締役事業本部長にもなった筆者の3つ後輩の方。文化部や婦人部から来た女性記者たちもダイアナ妃のファッションをチェックをしていたが、何故か彼にお鉢が回って来た。「ダイアナ妃のお履物は?」と支局のデスク。慌てたH本さんは「ショッピングピンクのパンパースです」と答えた。はあ?一瞬きょとんとするデスク陣。そうか「ショッキングピンクのパンプスかあ!」。大爆笑だった。
筆者もダイアナ妃の至近距離取材をした。詩仙堂で。靴を脱がれて詩仙堂内に上がるダイアナ妃を間近に見た。しつこいか!
残念ながらダイアナ妃は1997年8月、36歳の若さで非業の死を迎えた。

左上から、松竹梅と鶴をあしらった振袖に袖通す 日の丸を意識した水玉ファッションで来京 詩仙堂に靴を脱いで上がった

ヘリから飛び降りずぶぬれ水害取材 迫真の署名記事はどこへ?

松江時代の終盤にも水害取材があったが、京都でもあった。昭和61年(1986)7月21日から22日にかけて襲った豪雨災害だ。京都府南部地方の当時の相楽郡の和束、加茂町、八幡市などで大きな被害を受けた。久しぶりに紙面を見て驚いた。随分、記憶とは違っている。筆者の記憶では、朝早く支局から電話があり、「南山城地方で大雨被害が出ている。道路があちこちで寸断されている。本社に上がってそこから大阪空港に行け」と。その通りに行った。松江編でも書いたが、大阪空港には格納庫と呼ばれるヘリや双発機の待機所があり、そこからヘリが飛び立って空からの取材をする。社会部の先輩F 記者も同乗していた。おかしいな? この時も筆者は空からの取材をするのだと思い込んでいた。違った。南山城村上空に着くと、操縦士が言った。「ここから飛び降りてください」。下をのぞくと、河原のようだ。ヘリはホバリングしながら、河原の上空1mくらいまで下りた。飛び降りた。砂のように見えていた河原は水が満ちていた。胸まで水に浸かった。見上げると、先輩記者と操縦士が右手の拳を握りしめて「頑張って」と言っていたように見えた。Fさんは上空からの記事を夕刊に書いた。

昭和61年7月下旬の京都府南部地方の豪雨災害を伝える読売新聞。署名入りの記事を書いたと思い込んでいた筆者の記憶違いが甚だしい。

気を取り直して筆者は河原から道路に上がり、取材を始めた。本社からヘリで来て、途中から歩いて現地に入って来たという先輩カメラマンの奥村宗洋さんに会い、しばらく一緒に取材をした。奥村さんとはこの後も因縁深いし、実名を了承してもらった。そんな取材を夜まで続けて迎えに来たヘリに乗って本社に戻った。記憶違いはここからだ。汗か川に入ってまだ濡れているのかわからないが、とにかく本社で原稿を書いた時は、服はずぶ濡れだった。そして、地方部で偉そうなY山次長の指導で署名入りのルポ原稿を書いた。はずだ。とにかく、このY山次長は筆者のことが嫌いなようで、ボロカスに原稿をくさした。後でわかったのだが、この人は地方部プロパ―、それも京都派だった。斎藤デスクが仕切る今の京都支局を忌々しく思っていたのだ。それでも、ぼろくそに言われながらも、ルポ原稿が署名入りで載った、と、この原稿を書くまで思い込んでいた。しかし、縮刷版を見ると、ない。記憶って頼りないものだな! このY山次長が後に京都総局長になり、因縁は続いたが、とりあえず、第一次京都編はこれにて、お終い。(つづく

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