大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」22(京都編8) 安富信

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古都税問題、深夜の清水寺でぶら下がり取材

昭和61年(1986)7月から京都宗教記者会に所属し、正式に宗教担当になった。読売新聞京都支局で栄えある5代目か6代目になるはずだ。しかし、それ以前から先輩記者の命令で京都仏教会の幹部らと接していた。前述したように、古都税問題に関して読売新聞は一貫して京都市役所寄り。朝日新聞は仏教会寄りで“代理戦争”の様相を呈していた。だから、仏教会の幹部らに筆者らは公然と面罵された。深夜の清水寺は特に悪い思い出しかない。いつも、他社の記者十数人と門前で会議が終わるのを待ち、ぶら下がり取材(出てきた仏教会幹部に一言二言、質問して、答えが一言返ってくる)をした。いつも、外で待つ方だった。

極秘会談に立会「清水寺開門へ」

それが、、、、。 2月の初めだった。雪がちらついていた寒い夜。筆者と斎藤デスク、後輩のNさんと共に当時の社会党代議士・故井上一成氏と黒塗りタクシーに乗って清水寺の門をくぐった。門前で張り込んでいる他社の記者が車内を覗き込む。「あれ?読売の記者やないか?」と騒いでいる。「やばい!気づかれたか」。零度に近い外気温なのに冷汗が出た。訪問の目的は清水寺貫主・松本大圓師と極秘に会いに行くためだ。井上代議士が松本師と会談し、清水寺や金閣、銀閣寺など有名寺院が門を閉ざして観光客を締め出すなど泥沼化していた古都税紛争を解決しようとした。我々は、その模様を極秘に取材した。当に、抜け駆け取材だ。
会談は2時間以上続いたのかな? ガチガチに緊張していたので、よく覚えていない。松本師は井上代議士に確約した。「清水寺は近いうちに必ず開門する」。翌朝2月10日の読売新聞1面トップに「清水寺20日メドに開門 松本貫主表明」「市民の迷惑大きい」「無料拝観 他寺院に影響か」(23面に関連記事)とでかでかと出た。お得意の社会面サイド記事付きで。もちろん記事を書いたのは筆者らだが、当事者になったようで居心地が悪かった。新聞記者は傍観者であるべきで、決して当事者になってはいけない、とこの時、強く思った。

左から、極秘会談の末、開門へ  松本師、解任へ  松本師、辞任

仏教会理事長解任、さらに分裂

しかし、事はそんなにスムーズには進まない。京都仏教会は22日に松本貫主を仏教会理事長から解任する手続きを取り、松本師は4月になって辞任した。仏教会内の主導権争いに敗れた形だったが、これをきっかけに天台宗の京都大原三千院が3月1日から開門に踏み切り、京都仏教会の市内8支部(計1000か寺)が京都市の古都税に反対し、拝観停止を続ける仏教会の行為を「不可解の一語に尽きる」として現在の仏教会を離脱し、新たに京都府市仏教会(仮称)を設立する、と表明するなど、古都税問題はここに来て、大きく動き始めた。
3月下旬には、清水寺、金閣、銀閣寺など10寺院も開門を決意、いったんは解決の方向を見せていたが、そこは京都、簡単には行かない。しばらくして、またも拝観停止に戻るなど、再び混迷の度を深めるが、それは後で。

㊧仏教会を離脱する8支部  ㊨10寺院が開門へ

初の海外取材、上海の女性助教授に恋した

約2年間の京都支局時代、楽しいこともたくさんあった。大学担当では、何と言っても記者になって7年目、初めての海外取材だ。龍谷大学が「龍谷洋上セミナー」銘打って中国上海市の4つの姉妹大学を、学生・教員ら約600人が船で訪れるイベントに京都新聞のⅯ本記者と一緒に参加した。前年の第1回に次いでの2回目で、今回は昭和61年5月16日から23日までの8日間の日程だった。その模様を5月25日から3回京都版で連載した。「『再見』上海 竜谷大洋上セミナー同行記」(上中下)。まあ、今読むとなんと幼稚な文章だなと思うが、30歳ころの“初々しい”感性に満ちている。日本の学生と中国の学生の交流を通じて文化や習慣の違い、若者気質などに踏み込んでいる。確か、筆者はこの旅でずっと我々に同行し、色々解説をしてくれた華東師範大学研究科の助教授・馬梅(マー・メイ)さんに恋をした。しっかりとした女性ではっきり物を言う中国女性に憧れたのだ。記事にも彼女のコメントが入っている。上海にはこの2年後に別件で再訪することになるのだが、それは後述する。

上海の洋上セミナーの連載(上)(中)(下)

馬梅さんのこと以外はほとんど覚えていないが、Ⅿ本さんと夜の上海で食べ飲み歩き、初めて経験した「垢すり」はよく覚えている。Ⅿ本さんと勇気を出して怪しげな一室に入った。プロレスラーのような大男が2人の垢をしっかり落としてくれ、「こんなに出たよ」と見せてくれた。ビールを注文すると、当時の上海には冷蔵庫がなく、ぬるい青島ビールが1ダース届いた。Ⅿ本さんと1本ずつ飲んで、あとは大男にあげた。彼は満面の笑みだった。

上山春平、梅原猛、梅棹忠夫……文化人に出会う

話は変わるが、京都支局に在職して「お得なこと」は、お茶やお花、お寺の白足袋族、学者や文筆家などの文化人に会えることだ。筆者も取材を兼ねて多くの文化人に巡り会えた。何人かは、全国版の顔欄で書いた。全国版に署名入りで載るから、ちょっと鼻が高かった。朝日新聞の「ひと」欄に匹敵したが。そう言えば、いつの間にか読売紙上から「顔」が無くなった。
哲学者の故上山春平氏には京都国立博物館館長に就任した際、取材でお会いした。新・京都学派の1人で、後に文化功労者にもなられた傑物だったが、稚拙で底の浅い質問にも丁寧に答えていただいた。梅原猛、梅棹忠夫両氏(故人)にも取材させていただいたが、本当に丁寧に応対してくれた。前にも書いたがノーベル医学・生理学賞を受賞された本庶佑先生もだった。

「顔」の取材で上山春平氏  同じく上村多恵子氏

京都で大学担当していると、他社の先輩記者から「自慢話」をよく聞かされた。京都学派と呼ばれる先生たちとの取材経験は特に自慢で、桑原武夫、今西錦司両氏(故人)が最もよく出た。京都新聞のK記者の十八番話が、本庶先生とこれもノーベル医学生理学賞受賞の利根川進先生との学会での“闘い”だ。医学関係の学会で発表者の本庶先生に利根川先生が猛然と反論したという。「貴方の論文にはエビデンスがない!」。凄い戦いを目の当たりにした「歴史の証人」としての自負だろう。Kさんは鼻の穴を膨らませた。
立派な人は概ね、取材にも丁寧に対応していただいたのだが、虫の居所が悪いのか筆者の態度が気に食わないのか、嫌な思いをした相手もいる。先ごろ99歳で亡くなった作家のJ尼僧は非常に短気だったし、作家のM上氏は終始機嫌が悪かった。最も印象が悪かった財界人もいる。まだご存命で著書もたくさん出されている超有名な方だが、筆者が取材した昭和60年頃は、「まるで天皇のように偉そうにしていた」。京都の経済記者クラブとこの方との恒例の飲み会があり、何度か経済記者クラブ補佐をしていたので出た。ウチの経済クラブキャップN田さんを初め他社のベテラン記者たちが、I盛氏の前に傅いていた。みっともない。このN田さんこそ、血判事件のスパイだった。

山村美紗さん宅に強盗「推理作家に推理させろ!」

あっ、また一つ、つまらないことを思い出した。京都府宇治市在住の推理作家、故山村美紗さんのマンションに強盗が押し入り、山村さんが殴られ一時意識を失う事件が起きた。2人組の強盗だったようだが、何も盗らずに逃げた。この時、取材に行った後輩のF記者に斎藤デスクは言った。「推理作家だから、犯人を推理させろ」。F記者はびっくりしたが、デスク命令なので仕方なく聞いた。長女の女優紅葉さんを通じて山村さんは「推理作家でありながら後ろから殴られ、犯人の姿がわからなくて非常に残念です。犯人がわかったら、完全犯罪で殺してやりたいくらいです」とコメントを寄せた。なかなかの“戦い”である。

被害者の推理作家に犯人を推理させた記事

33歳の若さで京都経済同友会の女性会員となった上村多恵子さんも思い出した。甲南大学在学中に京南倉庫(株)社長に就任した女性だった。男女雇用機会均等法が施行され、機を見るに敏な斎藤デスクは取材を命じた。才気あふれる女性だった。ネット情報を見ると、現在も活躍されているようでとても嬉しい。

京都の進取の気概、連載に

そうこうするうちに、新年からの県版連載を仕込む時期になった。例によって斎藤デスクはユニークな連載を考案した。今度は題して「冒険京都」。古都は伝統を重んじる街であると同時に、進取の気概にあふれた街でもある。そこに斎藤デスクは目を付けた。確かに、京セラ、ウシオ電機、任天堂、ワコールなど世界に通用する企業も多かった。しかし、斎藤デスクはそんなありきたりな取材相手は選ばない。任天堂こそ候補に入ったが。またも、筆者にお鉢が回って来た。しかし、今度は1人ではなく取材班が出来た。1回目は、筆者が担当した、標本会社だった。「最先端技術駆使し本物標本」。次は「物を売らず“年商3億円”“新人類会社”の奇妙な挑戦」。奇妙な連載である。そして、次が「京料理の門戸を開いた」下鴨茶寮だった。ここの女将さんと妹さんには随分お世話になった。個人的にも家族を連れて行き、美味しい京料理をいただいた。さて、京都編もそろそろ大団円へと向かう。(つづく

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