2023年春、荒波が打ちよせる太平洋から1キロほど内陸へ歩くと、広大な田んぼがまだら模様に黄色に染まり、花から花へチョウがとびかっている。福島第一原発事故による放射能汚染で立ち入りが制限された田畑の多くは荒れてしまったが、南相馬市では菜の花が農地と有機農業をまもり、国産菜種油という新たな特産品も生まれている。
大規模化に疑問、有機農業へ
南相馬市原町区は福島県でも有数の穀倉地帯だ。はやくから圃場整備がすすみ、1枚あたり4反(0.4ヘクタール)から1町(1ヘクタール)の広大な水田がひろがる。地下にはパイプラインが整備され、蛇口をひねれば水をためられるから用水路は見あたらない。

原町区の高(たか)地区では1985年、トラクターや乾燥機を共同で購入して利用するため「高機械共同利用組合」(現在は高ライスセンター)が結成された。93年から5年かけて国のモデル事業の指定をうけて大規模基盤整備が実施され、いちはやく集落営農のとりくみがはじまった。
杉内清繁さん(1950年生まれ)は10町(10ヘクタール)の水田をいとなむ中核的な稲作専業農家だったが、大規模化と機械化、大量の農薬・化学肥料によって国際競争力を高めるという方向性に違和感をかんじた。
小規模でも納得できる農業をやりたくて98年ごろ組織をはなれ、有機農業を手がける。当時、県の農業試験場にも有機農業の指導者はいなかった。一から手探りで試行錯誤をくりかえした。
近所の人に非難されるわけではないが、視線が気になる。田んぼで手押しの除草機を押していると、散歩しているお年寄りが声をかけてきた。
「そういうの、昔やってたなぁ。なつかしいなあ」
俺は昔の人なんかなぁ……とため息をついた。大型機械で若者たちがグループではたらいているのを目にすると、自分のやっていることは正しいのか? と何度も自問した。
でも、フナやドジョウが泳ぐ田んぼを見ると、自然とむきあう生き方はまちがいない、と思える。福島県内の有機農家のあつまりが唯一心なごむ場だった。そこで米づくりを指導していたのが、栃木県のNPO法人「民間稲作研究所」の稲葉光圀さん(1944~2020)だった。
10年余の経験をかさね、ようやく有機の米作りが軌道にのってきたとき、東日本大震災にみまわれた。
「原発から20キロ」で集落分断
2011年3月11日、自宅で客とおしゃべりをしていると、強烈な揺れがおそった。部屋中に霧がたつようにほこりが舞いあがった。「もうだめだ。つぶれる」と覚悟して庭に避難した。
まもなく沿岸部を津波がおそう。
杉内さん宅は海から約3キロはなれている。津波は太平洋と杉内さん宅の中間を南北につらぬく国道6号に達し、太田川を杉内さん宅のすぐ近くまでさかのぼってきた。
12日午後3時36分、福島第一原発1号機が水素爆発した。13日には中学の体育館に避難した。14日午前11時すぎ、知人の様子を見にいこうと体育館をでたところで、遠くからドーンッと爆音がとどろいた。
「原発の爆発だ!」
あわてて体育館にひきかえした。
「ここから逃げないとあぶない!」
避難所の役場職員にかけあった。
「こんな大人数がいるなかでパニックになったら大変です」
「個人の責任のもとで私は避難します!」
そう言って杉内さんは家族4人で車に乗りこんだ。ガソリンスタンドには2キロ以上の列ができている。最短経路をたどるため、のちに高濃度の汚染が判明する浪江町・津島地区をへて郡山市の知人宅にむかった。4月には、自宅から車で1時間弱の宮城県亘理町にうつり、そこから自宅にかようようになった。
政府は第一原発から半径20キロ圏内に避難指示、20~30キロ圏には屋内退避指示をだした。杉内さんのすむ高地区は116軒の集落のまんなか、杉内さん宅の1キロ南に20キロの線がひかれた。完全な同心円ではなく、小字単位で境界がひかれる。幅4尺(1.2メートル)の農道が境界となり、バリケードがもうけられた。無人となった避難指示区域の家々は泥棒に荒らされた。
避難指示区域か否かで、おなじ集落でも賠償額に差がある。高地区全体を「20キロ圏」にするよう住民たちはもとめたがみとめられなかった。
地区のまんなかにバリケードがきずかれた高地区は「半殺し」にされたのだ。
土を浄化する菜種「天からの贈りもの」
避難先の宮城県亘理町から一時的に自宅にもどっていた4月、稲葉光圀さんが山沿いの林道をたどって、食料をもってかけつけてくれた。
「栃木に来て、生活したらどうだ? 放射能とむきあう研究を手伝ってほしい」
稲葉さんにさそわれて杉内さんは栃木県上三川町に移住した。
稲葉さんの「民間稲作研究所」は5月、「よつば生協」の支援で野菜や食物の放射性物質をはかる測定器を導入した。放射性セシウムを吸収する植物をしらべるため、菜種やヒマワリ、大豆などを育てて根や茎を分析していく。
7月、杉内さんが自宅に一時帰宅しているとき、名古屋市のNPO法人「チェルノブイリ救援・中部」の河田昌東(かわたまさはる)さんがNHKのアナウンサーとともにたずねてきた。
「番組をつくるので、有機農業をやっている人に声をかけてもらえませんか?」
地元の有機農家のほか稲葉さんもよんで公民館で取材に応じた。
川田さんは、チェルノブイリ原発近くで2007年から、菜種をつかった除染を実験してきた。菜種は土壌から放射性セシウムを効率よく吸収するから土を除染できる。吸収したセシウムは植物の細胞中では水分に溶けた状態で存在するから、種子から油を分離する際、油にはセシウムはふくまれない。セシウムを吸うことで農地の再生になり、菜種油を売れば経済復興にもつながる。

「まさに天からの贈りものだ」と杉内さんは思った。
「震災前とちがって、こんなにも一級のデータを応用して現場に活用してもらえるなんておどろいた。ふだんからこんなんだったらいいなあと思いました」
稲葉さんと杉内さんは韓国にわたって油をしぼる搾油機を購入した。
唐箕のように風でごみを除去する選別機や、焙煎機などもそろえたが、マニュアルがないから、焙煎温度や搾油の圧力を少しずつかえて試行錯誤をつづけた。ある日、焙煎温度を140度にあげて、袋にいれてプレスをかけたら、高温の油が爆発して飛び散り、搾油所の白い壁が真っ黒焦げになった。杉内さんたちは偶然隣の部屋にいたからたすかった。
黄色い絨毯が、元気はぐくむ
杉内さんは2011年10月に南相馬の自宅にもどった。
当時は稲作は禁じられていたが、旧満州に移民した経験のある年輩の有機農家は行政の指導を無視して田をつくりつづけていた。
杉内さんは、磐城大田駅の近くに7反(70アール)の畑をもっている。放射能汚染のため、当時は耕起禁止だが、雑草の除去はみとめられていた。杉内さんは刈りとった雑草を機械で細かく粉砕して覆土がわりにして、菜種ををまいた。
2012年春、粉砕した雑草では養分がたりず花はちょぼちょぼと咲く程度で、油がとれるほどの収穫はなかった。
その年の秋は1.2町(1.2ヘクタール)に増やしてこっそり耕して種をまいた。その結果、翌春は収穫でき、栃木で油をしぼった。油からはセシウムは検出されなかった。
まだ米づくりはできない。何年も水田を放置したらセイタカアワダチソウが繁茂して荒廃してしまう。農地をまもり、同時に利益にもつなげたい。一か八かの思いで2013年は3町(3ヘクタール)、2014年は12町にひろげた。
すると隣の地区の人から「やってくれるなら(田んぼを)貸したい」という申し出があった。
「結果はどうなるかわからんけど、それでよければ、やらせてもらいます」
きびしい冬が終わり、菜の花畑が黄色いじゅうたんのようにひろがると、心がやわらぐ。周囲の人々が発奮する材料になるように、あえて道路沿いに種をまいた。花を見て耕作を再開し、菜種をそだてる人がちらほらあらわれ、隣の飯舘村の農家も参加して、菜の花畑は一時は97町(97ヘクタール)まで増えた。
県立相馬農業高校(南相馬市)は2012年から菜種の特産化をめざして試験栽培をするなかで、杉内さんとつながった。杉内さんらがつくった菜種油を高校生が「油菜(ゆな)ちゃん」と名づけて2014年に売りだした。さらに英国の化粧品メーカー「ラッシュ」が南相馬の菜種油を石けんの原料に採用した。
学校給食にも地元産の菜種油がつかわれることになった。

江戸時代の主要エネルギー源、99%は輸入
江戸時代、菜種油は庶民の明かりの燃料だった。熱源である木炭とならんで、暮らしをささえるエネルギーの最大の供給源だった。大阪周辺は江戸中期以降は米よりも菜種や綿花の栽培がさかんで、「汽笛一声新橋を」で知られる鉄道唱歌の60番では「大阪いでて右左 菜種ならざる畑もなし 神崎川のながれのみ 浅葱(あさぎ)に行くぞ美しき」とうたわれるほど、菜種畑がひろがっていた。
戦後もしばらくは菜種は国内で自給しており、1961年には菜種の栽培面積は25万2000ヘクタール、生産量は32万トンで、輸入はわずか1万2000トンだった。だが、1961年に輸入が自由化されて菜種生産は激減する。2021年は、面積1640ヘクタール、生産量3230トン。それにたいして234万トンをカナダなどから輸入した。杉内さんはそんな現状を知ってびっくりした。
「99.9%を海外に依存していて、その多くが遺伝子組み換えだとは知りませんでした。国産で安全な菜種油の大切さを啓蒙して、将来の子どもたちの健康のためにものこしていきたい」
有機農業継承へ「アグリあぶくま」設立
杉内さんの娘3人は南相馬からはなれており、後継者はいない。有機農業を継承する受け皿として2015年、株式会社「アグリあぶくま」を設立した。
4人の社員が、米と麦と大豆、菜種をつくっている。
「私たち農家は、よいものを効率的につくる工夫をしてきたけど、そのあとは流通におまかせでした。消費者と顔の見える関係をつくっていきたい。そしてそのノウハウを若い社員にしっかり伝えたいと思っています」
「アグリあぶくま」を杉内さんといっしょにたちあげた星野賢一さん(1967年生まれ)はさいたま市から毎週末かよっている。「日本都市計画家協会」というNPOの被災地支援で震災直後から福島とつながっている。当時の南相馬は、北は津波で道路がズタズタ、南は原発事故で封鎖され、西の飯舘村への一本道しかない「陸の孤島」だった。さいたま市から車で7時間かかった。
被災地のなかでもとくに苛酷な状況だったが、オカミにたよらず自力で行動する人が多かった。産婦人科医は内部被曝線量を計測するWBC(ホールボディーカウンター)の設置に奔走し、除染の研究所をたちあげた。エコエネルギーにいどむ人もあらわれた。「半殺し」の集落で菜種栽培にいどむ杉内さんもそのひとりだった。
「陳情や予算の要求だけでなく、自分たちの力で巨大な歯車にたちむかうドンキホーテのような人が多かった。半殺しにされた人々が、怒りに燃えてもがいていた。時とともに少しずつ避難指示が解除されていけば、しだいに原発に近づいていける。南相馬こそ最前線の突破口になると思いました」とふりかえる。
星野さんは「アグリあぶくま」で、地元の若者が農業を実践し、市場開拓などのビジネスをまなぶとともに、首都圏の消費者との交流をはかりたいという。
「三ちゃん農業はもう限界。有機農業を法人化して、生産から最終消費者までパッケージとして経営を革新し、ヨーロッパの有機農業ともたたかえる先進モデルをめざしたい」
天保の飢饉すくった真宗移民
南相馬は気さくで開放的な人が多いと、星野さんは言う。
福島第一原発周辺からいわき市に逃げたけど、近隣との関係になやんで南相馬に再移住する人が少なくないという。
なぜ南相馬はオープンな雰囲気があるのか? 杉内さんにきくと
「もともと外からきた人が多いからかな。杉内家も富山からの真宗移民でした」

真宗移民は、天明の大飢饉(1782~88)で荒廃した関東幕府領を回復させるため、越後の浄土真宗門徒を移住させてはじまり、文化8(1811)年からは、相馬中村藩(福島県浜通り地方)への入植がはじまった。相馬への移民は30年間で約9000人をかぞえた。杉内さんの祖先も夫婦と子ども5人で、富山から1カ月歩いて相馬にたどりついた。
「真宗移民とは何か」(太田浩史、2013年)によると、東北地方では、成人まで生きることが期待される子の数は3人であり、「最初に娘、つづいて2人の息子」が理想とされた。小さな耕地での営農に適した家族構成にするため、間引きや堕胎をおこなった。それは農民にとっては「合理的」な選択だったが、その結果、人口が減り、ひとりあたりの年貢負担が重くなり、百姓の逃亡があいついで人口減少が加速した。
逆に北陸などでは、浄土真宗などの影響で堕胎や間引きの文化がなかったため人口が増え、零細農民があふれていた。
北陸側にとっての移民は窮迫農民の逃散であり、関東・東北側から見れば人口減少をカバーする意味があった。
真宗移民が入植した地域は、天保の大飢饉(1833~37)で疲弊した農村を復興するため二宮尊徳が「報徳仕法」を実施した地域とかさなる。相馬中村藩には二宮の一番弟子がおり、とくに熱心に「仕法」にとりくんだ。
間引きを根絶し、勤勉や団結、徹底した調査によってプロテスタンティズム的資本主義にも似た経済発展をもたらした。「真宗移民とは何か」は、真宗の講組織による横の連帯が門徒の勤勉や団結をはぐくみ、それによる村々の発展によって、1860年代から福島の太平洋岸で人口が急増したのではないかと指摘している。
福島の浜通りに発展をもたらした真宗移民だったが、地元民からは差別された。「加賀者が加賀泣きしている」とさげすまれ、旧加賀藩領からの真宗移民は「故国で罪を犯して逃げてきた」とうわさされた。多くの真宗移民の子孫は、自分たちが「新百姓」の子孫で真宗門徒であることをかくしていたという。
杉内さんの祖父は北陸から移住してきた先祖の歩みを本にまとめ、子や孫にも仏壇の前で浄土真宗のお経「正信偈(しょうしんげ)」をとなえさせた。
「若いころは農業がいやで、都会にでたかったけど、移民して苦労して家をまもってきた先祖を思うと、自分もやらないといけないなあと思うようになりました」
震災後、北陸出身の真宗門徒が支援にかけつけ、石川県の郷土史家は見舞いの手紙に「移民の精神をうけついでいる人が相馬にいる」と書いてくれた。200年の時を超えた「再会」だった。
「今思うと、社会の風潮に流されるより、自分らしく生きようと有機農業にとりくんだのも移民の精神なのかも。1000年に一度の災害は悲惨だったけど、北陸の人をはじめ、多くの人との交流が生まれました。人間の縁って不思議だなぁと思います」(おわり)

コメント