福島の有機の里で⑫嫁の敵は封建主義 雅子ばっぱの昔語り(上)

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 旧東和町の有機農法の町づくりは青年団の仲間たちが「出稼ぎにたよらない百姓になるにはどうする?」と議論したのがはじまりだった。それ以前の東和町の暮らしはどうだったのか? 昔話の語り部をしている「雅子ばっぱ」こと紺野雅子さん(1939年生まれ)にかたってもらった。そこからは「農家の嫁」の苦しみと、伝統の知恵の重みがみえてきた。

「雅子ばっぱ」こと紺野雅子さん(右)と菅野まゆみさん
目次

米も麦も、着物も「かしてくんねかい」

 私は安達郡木幡村(1955年の合併で東和)生まれ。弁天さまのすぐ下です。
 うちは部落で一番大きくて、1町歩(1ヘクタール)くらいの田んぼがあった。窪地が棚田になってるから、労働力がたりなくて田んぼをかしてたんだな。
 小さな農家は田んぼが1反(10アール)しかないのに子どもは6、7人できるわけだべ。それ(夜の営み)しか楽しみがねえもんだから、どんどん子どもはできる。まんまはねえべし。
「明日の米、1升かしてくんねかい」「麦もかしてくんねかい」って、くんのよ。
 それが1年間たまってくる。稲刈り後に2俵も3俵もかえすわげだからいくらも残らない。
 お金だって「30円かしてくだっしゃ」「50円かしてくだっしゃ」って、よくきたねぇ。
 くるしい農家は、お葬式やお祭りによばれたら「羽織りかしてくんねえが」って着物もかりにきたよ。
 私の子ども時代は、教科書は全部ゆずりだったからね。約束してないと教科書がないんだよ。着るものはお姉さんやあんちゃんのゆずりだね。
 こまっている家はなにもなかった。
 貧しい家の子は袖で鼻をかんで鼻水をふくものだから袖口は真っ黒で、ペカペカひかっていた。

結婚するなら百姓さいけ

 戦争中と戦後は食い物がながったなぁ。
 米はきびしく供出させられっから、農家だってろくに食べられないの。
 自然と「節(旬)のもの」を食べる。「これ節のものだからいっちょくわせー」ってな。
 バナナもリンゴもスイカもみたことがない。理科室の模型でバナナをみて、バナナってそういうものかなとみとった。
 疎開の人は、着物とか本とかと食べものを交換しにきた。
 食べ物を確保するのが一番だった。農村がよぐなれば国がよぐなるって時の流れだったんだね。
 私らは食いっぱぐれないように(結婚するときは)百姓さいけ、百姓さいけ、と言われた。
 小さい農家の人たちは(戦後の)農地解放でうかんできたんだ。なんぼか生活できるようになったんだよね。それより前は小さい農家は大変だったんだぜ。

お椀も皿もきれいになめた 風呂は垢でドロドロ

 丸や四角の足つきのお膳に、まんま茶碗(ご飯茶碗)とお汁椀と皿ひとつってきまってたの。
 つかった茶碗にはごはんがこびりつくから、じいさまは、いろりの鉄瓶の湯をいれて、たくあんでまわりをきれいにこそげてのむんです。
 ゴム靴だのビニール合羽だのロープだのなかったから、昭和27(1952)年ごろまではなんでも自家製で、夕飯のあとは、冬は草履や蓑、荷縄なんかをつくる藁仕事とか、いっぱい夜なべ仕事があるの。だから、お膳をあらったりなんてしてらんねえ。
 あらう水も井戸からくんでくるのは大変なんだ。皿でもなんでもようぐなめてきれいにして、おっ伏せて戸棚にかさねておいた。(食器を)あらうのは3日に1度くらいだからね。百姓の女の子が幼稚園で皿なめて、「女の子が皿なめた!」って先生がたまげてたよ。私が昭和33(1958)年に嫁にきてからも椀をなめて伏せていました。
 魚を焼いて食うときは「朴の木の葉っぱひろってこう!」と言われた。大きな皿のかわり。そのまますてられるので便利だった。
 小さいころ、太田村(1955年の合併で東和に)に医者さまがいて、木幡まで往診にきていた。お茶碗のお茶で入歯をカラカラあらってそのお茶をそのままのんでました。私らはたまげてみてた。
 その先生はひとついいこと言ったの。
「おなごはな、33になってからもう一人産め。厄年だけど、女の体はお産をすることで悪い血がみんなでるんだ」って。

 風呂だって水はぬかない。一度いれたら、10人家族が3晩か4晩ははいった。
 洗い場がなかったし、もちろんシャワーもない。みんな風呂のなかで手ぬぐいで体をあらった。疎開した人が風呂もらいにきた。最後はドロドロだ。

土葬のモリモリにお膳を供える

 嫁にきて、おばあさん(夫の祖母)が昭和39(1964)年6月に亡くなった。
 麦飯と大根おろしの朝ごはんをたべてたら、お膳の上に「いててて」とたおれて、おんぶして便所にいかせた。「隠居(の建物)にいきたい」というのでおんぶしたら、私の背中で丸太ん棒のように硬直しはじめて息をひきとりました。
 葬式の列でお膳をもつのは嫁だったね。飯をてんこもりにして箸を刺す。位牌をもつのは息子。当時は写真はなかった。お棺をかつぐのは「やしき」(組)の人たち。
 昔は土葬だから(埋葬した)モリモリの前さ、亡くなった人のお膳をおくんです。墓参りにいくたびにマンマとお汁とおかずをおいてきたの。3年ぐらいで朽ちてお膳の脚がポタッとなる。
 昭和48(1973)年にはまだ土葬でした。

ごちそうの天ぷらは嫁のいぬ間に

 私は「結婚した」んじゃないの。「嫁にもらわれていった」の。親が「くれる」「もらう」だったの。食いつなぐには農家しかながったわけだ。ほかさいったんでは食い物がねえんだから。
 19歳でとついだ家は家族が11人いて、牛や稲、たばこ、養蚕など多角経営で、夏は野良仕事で、冬は炭焼きや藁仕事。明るくなってからおきたことは一度もなかった。

 お祭りの日だったか正月だったか。
「実家に顔見せにいってこい!」と、めずらしく言われてゆっくりしてもどってきたら、残飯や生ごみをすてるところに油がしみこんだ杉の葉があったんだ。杉の葉は油切りにつかう。嫁(私)を追いだして、天ぷらを食べていたんだな。
 天ぷらは、お祭りの引き出物とかお盆とかぐらいしか食べられなかった。
 芋7つ、ささげ5つ……というように、お祝いの時はかならず奇数ずつ重箱につめる。偶数は割り切れるからだめなんだ。10人ぐらいきたら100ぐらい揚げた。
 いろりの火で揚げていると子どもがよってきて、せっかくかぞえているのにとって食ってしまったもんだ。

肉は年に一度 桑の実もシロツメクサも糞尿も……うばいあい

 今の子は、トマトだってキュウリだって年中あんだべー、と言う。「季節のもの」がなくなった。
 私らは柿を学校帰りにねらったり。桑畑にわらわらはいっていって実をとって食ったりして怒られた。
 正月には兎の肉を食うの。肉なんか年に1回だった。豚やら牛なんて食わねがった。
 兎は春に買って、12月末には1貫目(3.75キロ)になんのよね。えさは、学校帰りにくず葉やシロツメクサなんかをむしってね。他人の家の前でむしると「人の家のものぬすんで!」って怒られた。どの家でも兎をたでて(飼って)たから。
 栗拾いも、朝早くにとらないとわが家の前の栗だって全部とられてしまう。蕨も、のそのそしてっとあっというまになくなったよ。
 小学校1年生に昔話の読み聞かせしてっけど、
「腹減ってしょーなくてなぁ、山だの土手だのはねまわって、草の実だのスカンポ(いたどり)だの、なんでも食ったもんだぞ」と言うと、
「雅子ばっば、なんでコンビニさいかねかったの?」ときた。
 絣の着物を着てたら「ドットマーク」。これは縞(模様)だよ、と言うと「ストライブだ!」って言われんだ。たまげたわぁ。

 昔は「ほかさいってうんこたれんな」って言われた。奉公人は便所だけは家に帰ってからするようにしていた。すると奉公先では「糞(くそ)の役にもたたない!」と言われた。糞や小便は肥料で、風呂の水も便所に落として作物にかけた。国民学校時代には、児童も便所のくみとりをしてかついで下肥にしたんよ。

姑の子はリンゴの実、嫁の子は皮だけ

 私が嫁にきた家は、小姑(夫の兄弟姉妹)が7人あったんだ。
 姑は自分の子を大切にするから、孫(私の子)は「母親のしつけが悪い!」と土蔵にいれられた。
「自分の子と姑さまの子がけんかして、『なんつったって嫁の子が悪い!』って、孫を山んなかさおいてきた」とか、「姑さまがリンゴの皮むいて自分の子に実をあげて、嫁の子(孫)は皮だけ食わせた」って話もききました。
 食べ物でも大きなものは旦那さま、じいさま、ばあさま、嫁は最後。その差はすごかったです。
 貧しいだけでねえ。封建的だったことが一番くるしかったね。

 嫁にきたころはおばあさんが鶏をたでて(飼って)た。でも卵は家族の口にははいらない。ばあちゃんのほまじ(小遣い)だった。木の箱の籾殻に卵をいれておいて、卵買いのじいさまがひとつ残らず買っていってしまうんだ。「鶏小屋さはいってこっそり生卵のんだ」と話してくれた嫁さんもいたよ。
 みんな犬とか猫とか猿とかの昔話はかたるのに、一番貧しくてくるしかった嫁時代をかたる人がほとんどいねえ。いろいろ言われるから書かねえし、かたれねえんだ。みんな心をかくすんだよね。きれいごとばっかりでね。
 だまってるのが美徳なの。(実家の)じいさまには「おなごはだまっとるのが一番だ。しゃべっから馬鹿かりこうかわかるんだ」って何回も言われた。
 こんなことしゃべってる私は、恥かき人生なんです。

「嫁をつとめてけろ」と千円札を握らせた母

 1軒の家には「大きい財布」がひとつしかなくて、舅がもってたの。息子と嫁はかせぐだけ。
 昭和34(1959)年ごろ、私がもらえたお金は、盆と正月に1000円だけ。実家の木幡までバスにのると200円なくなって、ほとんどなにも買えない。私は子どもに小遣いをあげることができませんでした。
 子どもが児童会長になって、先生が運動会の写真を撮ってくださり、お礼の電話をかけようとしたら「電話代がかかる!」って怒られた。雑記帳の端っこさ、「先生、ありがとうございます」ってメモして子どもにもたせました。
 昼間に明かりをつけると「電気ついてる!」ってどなられる。「おしめとっかえてるんだ」と言ったって、きいてくれない。今だったらなんとかバイオレンスだ。
 早く離婚すりゃよかったと思うけど、昔は離婚してもどると「出もどりの傷物」と言われたんだ。ひと晩かふた晩でイヤになって実家に帰ると、「ひもとかず」(荷物の紐を解かないうちに帰ってきた)って言われるんだ。
「つとめてけろな」「嫁つとめてけろな」と実家の母に言われました。出もどりだけはしないでってな。
 旦那の姉妹は蚕さまがおわったとか、鍬休めとか、彼岸だとかお盆だとか正月とかに帰ってくる。けど私は休んだことも帰ったこともない。悔しくて悔しくて涙ぼろぼろでてね。
 私が帰省しそうな日は、実家で餅をついてね。あんこや赤まんま(赤飯)をこしらえてね、母ちゃんはバスがはしってくるのをみてるんだって。
 バスきたな。(私が)くっかなあと思ってみてるけど、「あらぁ、こねがったなぁ、じゃあ次のバスだなあ」って。次のバスでもまだこない。その次のバスも……。私のぶんのぼた餅もとってあるんだけど、夜になってもこなかったら食べたんだって、何回も言ってたね。
 その母ちゃんだって財布はもってねえ。父ちゃんがもってるんだから。小さくたたんだ千円札を私の手ににぎらせて「(嫁を)つとめてけろ、つとめてけろ」って言ってたんだ。(つづく)

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