福島の有機の里で⑬嫁をたすけた「小さな財布」 雅子ばっぱの昔語り(下)

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嫁の自立は出稼ぎから

 出稼ぎしてる息子は自分の財布をもって、嫁さんも財布をもつようになったから、地位が上がったの。現金収入が得られて家の財布とは別の財布をもつようになって若い夫婦が自立していったんだ。
 長野の会社でルビコン(コンデンサメーカー)っていうのがあって、みんな出稼ぎにいってた。その会社の工場が昭和47(1972)年に誘致されたの。小さい百姓は養蚕ではマンマ食われんかったから、若い夫婦が働きにでて給料取りになった。それが私らの年代でした。
 ルビコンがはじまったとき、私は冬は役場につとめて年金係にいたんだ。
「厚生年金にはいらされて現金が減った」「国民年金でいいんだべ!」って、みんな怒って役場にくるんだよ。
「会社が半分積む(積み立てる)んだから、自己負担半分で年金もらえるんだから」って説明しました。
 あの時に怒ってきた人たちは今はホクホク。両手にうちわだべ。40年くらい積んでるんだから。
 私は平成4(1992)年ごろ、自分が知らないうちに農協婦人部の婦人部長にさせられました。そのころ農協で、女の経済の自立のために「(世帯全体の大きな財布だけでなく)小さい財布をもつべ!」というのがはじまったの。
 出稼ぎにくわえて、ちっちゃい財布をもとうという運動から、女が強くなってきたんじゃないのかなぁ。
 経済力をもって女が強くなって、結婚しなくても生きていけるようになった。孫娘も結婚しねえんだよ。女が強くなりすぎたんじゃねーかい?
 モロッコに研修旅行にいったとき、「女が高学歴になって、結婚しなくなってこまってるんです」ってモロッコの文部省の人が言ってたよ。

生活改善 土間に床をつくり、竹製の水道で負担軽減

 昔は煮炊きは囲炉裏だった。ごはんは、人数が多いから3升から3升半も羽釜で炊いたね。
 貧しいと麦が多いべ。上さばっかり麦がうかぶから、よくまぜないといけないんだ。
「女は羽釜をかんまかせ(かきまぜて)、男はだら(大小便)かんまかせ」って言葉もあるけど、羽釜も「だら」もぜんぶ私がやってました。
 土間のかまどで火をたいて、お膳で食べてた。それが衛生的でないってことで、「生活改善」で土間を板張りにして、ごはんをテーブルで食うようになったんだ。
 嫁にとっては水くみがとくに大変だった。男衆がみんな昼寝してっときに私(嫁)が下の井戸から高台の家まで、タップタップの水をいれた桶を天秤棒でかついで、すいしろ(風呂)や台所の水瓶の水をくんできたんだ。
 それを改善するために、節を抜いた竹で湧き水をひっぱってきた。竹をつないで、つなぎ目のところは松の木。松の木は腐んねえからね。200メートルぐらいひいたね。
 水瓶をなくして竹の水道になってずいぶん楽になったよ。

 栄養あるものを食え、と料理教室もやった。科学的な栄養だべね。
 玄米パウダーと卵1個を食べようって運動もやったね。農協婦人部でパウダーがよく売れた。
 鶏はうちも10羽ずつかっていた。鳥インフルエンザがおきて、「卵なんて安いんだから」と息子に言われてやめるまでつづけた。
 そういう「生活改善」があったからちょっとずつよくなったんだ。
 国民健康保険ができて、健康診断もやりだして、乳児検査をするようになった。そんな戦後の時代の流れでよくなってきたんだね。

養蚕にこだわり平成までつづけた

 このへんはみんな養蚕やっていたけど、昭和50(1975)年ごろからやめていった。
 私が33歳だった昭和48(1973)年4月29日、じいちゃん(舅)が59歳で畑の側溝にたおれて死んだの。
 そのとき、蚕を全部やめてルビコンさいくかどうかまよった。
 でも蚕小屋を3つ建てていた。毎日3人で裏山を開墾したんだべ、木を切って桑畑にしてね、戸沢式開墾法って発表して農林大臣賞をもらったんだ。
 子の世代に経営移譲すると農業者年金をもらえたから、農家の代替わりがすすんだんだけど、じいちゃんは59歳だからまだ移譲されてなかった。うちは出稼ぎをしねがったから息子(夫)は財布をもっていながったの。じいちゃんの貯金通帳にもカネがない。葬式のカネにもこまった。
 5月2日が葬式で、24日には最初の蚕がきてしまう。1カ月ねえんだから、しょうがなく蚕をつづけることにしたんだ。
 でも桑の肥料は、じいちゃん死んだとき800円だったのが一気に2400円になった。種代も上がったべした。繭の価格は下がってしまった。いい繭とんねえとだめだって、命がけでこだわっていた。
「繭は目方でねえ、糸だ」とじいちゃん(夫)は言っていた。1繭で2000メートルの糸になる。どうやって繭をたくさん吐く蚕をつくるか? 肥料で窒素分が多いと桑が青くなる。それをくうと蚕は大きくそだつけど糸は少ない。いかに糸をいっぱい吐く蚕をつくっか。それが有機農業なの。
 繭の糸のほぐれ具合も大事。温度が下がると糸を吐くのを休んじゃう。粘って切れちゃう。
 糸を4日から5日間吐くから、その間、温度をうごかさねえようにね。練炭10個をたいて、扇風機10個をまわしてた。
 検定は糸をとって繭の値段をきめる。1キロ1500円、2000円、3000円って。うちは3000円より安いのを売ったことねぇ。
 ほかの人たちは、蚕があがったというと旅行さいったとか、パーマ屋さんいったとか言ってたけど、そんなことしてたらダメだ。乾燥させてちゃんと手入れをしないと病気になっちゃう。いい糸ができないんだ。

「年寄りを介護した者は極楽に行けるんだぞ」姑を22年介護

 平成6(1994)年に蚕をやめて、主人は翌年から町議会議員を3期やりました。終わったとき、「選挙にでないなら民生委員やれ」って言われて、民生委員やヘルパーをやりながらお年寄りから昔話をきいてきました。
 おばあさん(姑)を22年間自宅で介護しました。実家の母に愚痴を言うと、
「お前が死んで三途の川をわたり、閻魔さまの前で極楽行きか地獄行きかさばかれる時にな、年寄りを介護した者はかならず特別な点数がたされで、条件なしで極楽行きになれんだぞ」
 ってさとされたもんだ。99歳と7カ月の姑を看取りました。
 じーちゃん(夫)は平成18(2006)年に議員をやめてすぐ、パーキンソンを発病したの。よくころぶんだよ。今は母の言葉を信じて主人の介護をしています。

「地震はナマズの床げえり」百姓じっじのプレート理論

「昔話やんねーが?」ってさそわれて、小学校や道の駅で「語り部」をはじめたの。道の駅の「民話茶屋」は900回になりました。
 昔話は、事実も歴史も伝説もごっちゃまぜなんだけど、人間として生きる芯だと思うよ。
 地震ってのは、でっかいナマズが何匹も重なって海の底に寝てるんだ。それが床げえり(寝がえり)するときに地震がおきるんだ。その時ガボッと海の水がうごぐから津波がよせでくんだぞ、ってじいさまにきいたんだ。プレート・テクトニクスなんて知らなかったけど、真実だべし。なんの学問もねえ、百姓のじっじが言うんだぜ。すごいとおもうよ。
 昔話は人間が生きていく真理があっからみんながつたえてきた。
 トリカブトは毒だから食うなとか、あの池はあぶねえとか……言い伝えはバカになんねぇと思うねぇ。
 菖蒲なんてね。子どもの頭にまいて「頭がえぐなるように」ってな。私もじいさまに「頭よくなるように」ってしてもらったよ。ちっともなんねえちゃ。
 正月は、釜とか鍬とかサブロー(スコップ)とか、農機具さにも餅をあげたんだべ。氏神さま、大黒さま、えびすさま……ってあげて、「おふくさま」にもあげたの。おふくさまはネズミ。悪いこともすっけど、蛇だのなんだの退治してくれるんだからいなきゃなんねえんだ。
 私は、シーベルトもベクレルも知んねえけど、昔の人がつたえてきたことはまちがったことはひとっつもないとおもうんだよね。

雅子ばっぱ、20年後は市長選?

 子どものころ、実家のじいさまは「ここさこい!」って、ひざの上に寝転がらせてくれて、耳くそとってくれてね、めんこいな、めんこいなって頭をなでてくれたんだよ。
 今は1年生の頭をなでると、なんとかバイオレンスとかでダメなんだって。
 この前、「おやじのはげ頭♪」ってうたったら、女の先生が「私、心臓バクバクしました」だって。
「なんか悪いこと言いましたか」ってたずねたら、「はげ頭」は、びっことかつんぼとかとおなじで禁句なんだって。「じゃあスキンヘッドって言うんですか?」って私は言ったの。
 小学校では「雅子ばっぱ!」とよばれて人気あっから、廊下で会うとワーとよってきてタッチしたけど、今は(コロナで)できねえがらね、心でタッチだ。
「どこにいってもタッチされて人気だから、今度市長選挙か参議院にでっかなぁ」って校長先生に言ったら、「280票はありますよ。でも20年まってね」って。ほんじゃ私はあの世さいっちまう、って笑ったのよ。(おわり)

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