福島の有機の里で⑩原点は青年団 脱出稼ぎは「有機農業だっぺ」

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 有機農業でまちおこしをしてきた旧東和町(二本松市)にとって、福島第一原発事故による放射能汚染は致命的に思えた。だが菅野正寿さん(1958年生まれ)ら地域のリーダーたちは「耕して種をまこう」「出荷制限されたら、損害賠償を請求しよう」と耕作をつづけ、放射能を徹底して測定することで消費者の信頼を回復してきた。
 私は西日本を中心に中山間地を取材してきたが、農産物の価格が下落し、若い世代がいなくなった山里の大半は「あきらめ」におおわれていた。なぜ東和の農民は、放射能汚染というどん底でたちあがれたのか? その原点をたどってみたい。

目次

丸一日つづいた「家と家の結婚式」生活改善で簡素化

 敗戦直後の農地改革によって農民が土地を手にいれることで東和町(1955年までは戸沢、針道、木幡、太田の4村)にも活気が生まれた。農民運動や農協運動、公民館を中心とした社会教育がさかんで、人々が資金をだしあって組合立の幼稚園も設立した。
 全国の農村でとりくまれた「生活改善」では、女性がサークルを形成し、衛生や家事、栄養などの課題をみずからほりおこし、台所の改良や簡易水道の整備のほか、因習の改善にもいどんだ。
 伝統的な村の結婚式は、午前10時に花婿らが嫁の家をおとずれ、花嫁側の披露宴をひらく。午後3時に花嫁道具をトラックにつんで婿宅にむかい、花婿側の長い長い祝宴が終わって午後11時すぎに花婿と花嫁が餅をつく。午前1時ごろお客が帰ると、手伝いをしてくれた近所の人向けの慰労の宴が午前3時ごろまでつづいた。嫁入り道具の負担も大きく、「女子3人(娘)あるといろりの灰まで浚われる」と言われた。(紺野雅子「とうわよもやまばなし」)
「生活改善」では、宴会は2時間ほどで終わらせ、酒は1人あたり2合におさえ、酒肴は少しずつではなく宴会開始前に全部だし、引き出物は1品とする……といった簡素化がはかられた。
 1980年代の青年団運動では、「角を隠して嫁ぎ先にしたがう」という意味をもつ「角隠し」の廃止や、家と家の結婚ではなく、「両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本」とする憲法24条にもとづく結婚を実践した。菅野正寿さんとまゆみさんも1985年に会費制の結婚式をあげた。

「生活綴り方」記録して理解深める

 東北地方の農村では「生活綴り方」もさかんだった。
 大正デモクラシーの時代、「花」「国旗」といったきめられた題で作文を書かせるのではなく、生活の現実をしるすことで正しいものの見方をそだて、現実や社会の改善をめざす運動が生まれた。とりわけ東北地方では、零細農家の子どもたちに、社会の現実に目をひらかせ、生きる力をはぐくむ教育運動としてひろまった。運動をになったのは、地方の師範学校出身の教師たちだった。
 この運動は戦時体制下でつぶされたが、戦後に再生し、封建的な因習を打破し、生活を改善し、民主主義を実現するツールとして活用されることになった。
 戦後民主主義教育の金字塔といわれた「山びこ学校」はその代表だった。青年教師の無着成恭が山形の山村の中学で、子どもに貧しさを正面からみつめさせた作文の数々は、全国の貧しい農民や教師たちに希望をあたえた。
 現実を直視して文章をつづり、あきらめを克服するとりくみは、学校だけでなく、農村の青年団や都市の労働組合運動にもとりいれられていった。
 菅野さんら東和地区の青年たちも、戦前からの綴り方運動の指導者、国分一太郎の影響で、1978年から6年間、ガリ版と鉄筆で手作りの文集「のら」を発行した。
「『おらこんな村、いやだ』と思っていたけど、書いて生活を記録することをつうじて、お互いに理解しあうきっかけになった」と菅野さんはふりかえる。
 妻のまゆみさんらがつくる女性の文集「ポケット」は、1980年から現在まで400号以上つづいている。
「職業もバラバラの人が書いてるから、そこにいくといろいろな情報がはいって、いろいろな話ができて刺激になるからつづいた」
 まゆみさんは生まれそだった会津から阿武隈山中の東和町にとついでくる際、「山で農業なんてバカじゃない?」「もっと平らなところでやればいいのに」と言われた。
 そこで、家族の近況を知らせるため年4回10年間「家族新聞」を書きつづけた。さらに震災後にも状況を知らせる「新聞」をつくってくばった。

「遅れている」といわれた多品種少量生産の自給型農業がいま見直されている。

出稼ぎにたよらない百姓とは? 「多品種少量」を生かす有機農業へ

 1961年に施行された農業基本法は、従来の自給型農業から、特定の作物を大規模につくる企業型経営へと転換をめざすものだった。だが規模を拡大できない阿武隈山地では多品種少量の自給型の農業がつづき「きわめて脆弱でおくれた農業地域」と位置づけられてきた。
 菅野さんの両親の時代は、秋に養蚕や稲刈りが終わると男は出稼ぎにでかけた。東京オリンピックの競技場や東海道新幹線、高層ビルの建設、静岡のミカン収穫……に東北の出稼ぎ農民が動員された。
 菅野さんは東京ですごした大学時代、友人たちと読書会をひらいて、田中正造の足尾(栃木県)や島崎藤村の馬籠(岐阜県)など、本の舞台になった場所をたずねてまわった。そんななか「村の女は眠れない」という草野比佐男の詩に出会った。

村の女は眠れない
どんなに腕をのばしても夫に届かない
……
男にとって大切なのは稼いで金を送ることではない
女を眠らせなくては男の価値がない
女の夫たちよ 帰ってこい
……
女が眠れない理由のみなもとを考えるために帰ってこい
女が眠れない高度経済成長の構造を知るために帰ってこい
……
女が眠れない時代は許せない
許せない時代を許す心情の頽廃はいっそう許せない(中略)

 男が半年出稼ぎで家を留守にする不条理と、高度経済成長のありかたに警鐘をならす詩だ。
 菅野さんは、地域ぐるみで有機農業にとりくむ山形県高畠町で実習したり、環境問題をまなんだりするなかで「都会なんかすむところでねぇ」「これからの時代は農村にこそ価値がある」と確信するようになった。
 1980年に大学を卒業して帰郷すると青年団活動にとりくんだ。
「出稼ぎにたよらない百姓になるにはどうする?」
「有機農業だっぺ」となった。
 1970年代から有機農法にとりくんでいた二本松市の大内信一さんらの指導をうけた。
 1982年には福島市の消費者グループと提携して有機野菜の配達をはじめた。
 消費者グループの女性が菅野さん宅をおとずれ、冷蔵庫をみて怒った。
「有機農家なのになしてファンタやコーラをおいてるの!」
「おばあちゃんのつくった草履とか炭焼きとか、農家には農家の暮らしがあるでしょ。都会のまねごとはやめたほうがいい!」

 阿武隈山地は晩秋から早春には霜がおり、病原菌や害虫の発生が少ない。蚕は餌として桑を食べるから、周辺農地でも殺虫剤はほとんどつかっていなかった。有機農法に適した土地だった。
 春の山菜からはじまり、季節ごとの旬の野菜を消費者にとどける。福島市内や首都圏の生協組織にも販路をひろげていった。
 自給型の多品種少量生産だから、さまざまな野菜や穀類がある。大規模生産による系統出荷に適さない中山間地だからこそ、多様な食文化が根づいていた。
 1990年代には有機農家を中心に産業廃棄物処理場やゴルフ場建設への反対運動も展開した。埼玉県の所沢などでダイオキシン問題がおきていたからだ。

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