原発事故 11年間 時が止まったムラ 浪江・津島

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 浪江町・津島地区は飯舘村の南に接し、福島第一原発から約30キロに位置する。飯舘村で震災以来放射線を測定しつづけている伊藤延由さん(1943年生まれ)によるとこの地区は「飯舘村の汚染がかわいげにみえる」ほど深刻な汚染だった。
 2021年に訪れた際は、放射線の年間積算線量が50ミリシーベルトを超える「帰還困難区域」で、国道から集落への入口は封鎖されていた。
 2022年9月から帰還を検討する人たちの「準備宿泊」がはじまり、出入りできるようになったため、2カ月後の11月におとずれた。

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封鎖されていた津島の集落=2021年
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帰還困難区域にはいるには、許可を得たうえで、ここで防護服を着用する=2021
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高濃度汚染、無人の「銀座通り」

新しい町役場津島支所と再生賃貸住宅(奥)=2026年5月


 2023年春の避難指示解除を前に、国道沿いにあらたな津島支所が建設され、その隣に、帰還者や移住者が対象の10棟の「再生賃貸住宅」の建設がすすんでいる。2022年11月現在、入居希望者は1世帯。(2026年には入居10世帯のうち移住者が7世帯)
 この地区にそだち、今は福島市で避難生活をおくる今野寿美雄さん(58歳)に案内してもらった。

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浪江町役場・津島支所=2022年

 右手の斜面の上には診療所や津島小学校があり、「スーパーコクブン」の隣の建物は宴会場兼居酒屋だった。

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スーパーコクブン。右奥は松本旅館=2022年

 木造二階建ての商家風の「松本屋旅館」や新聞販売店もある。今野さんが中学生のころ、学校帰りにおばが経営する肉屋にたちよると「家にもってかえれ」と、コロッケやメンチカツを手わたしてくれた。
 当時は、電器店や床屋、歯医者、保育園もあった。浪江から津島まで国鉄バスがはしり、最終バスの運転手と車掌は「磐城津島駅」の裏にある職員宿舎で泊まって翌朝の始発便に乗務した。
「ここは津島の銀座通りだったんだ。にぎやかだったよぉ」
 目をとじて今野さんの言葉をきいていると、子どもたちがかけまわる村の光景が脳裏にうかぶ。
 津島は1956年までは約4000人がすむ独立村だった。その後は過疎がすすむが、震災前も約1400人がすんでいた。
 旧満州から引き揚げてきた人々が入植して開拓し、国策として推進された畜産や酪農に従事した。だが畜産や酪農は斜陽になり、開拓した草地の多くは山林にもどってしまった。「開拓農協」も昭和50年代には解散した。
「満州開拓や酪農やダム工事といった国策にふりまわされ、今度は原発という国策でおいだされたんです」
 今野さんはかたる。

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松本旅館=2022年

仮設でパチンコできるのも東電さんのおかげです

 2020年夏にとりこわされた今野洋一さんの家の窓には、東電を辛辣に皮肉る筆書きが掲示されていた。須賀川市に避難した洋一さんは一時帰宅するたびに、思いを紙にしたためた。

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拝啓東京電力殿 仮設でパチンコできるのも 東電さんのおかげです 仮設で涙流すのも 東電さんのおかげです 東電さんありがとう

内部被曝の「ヘビ」 法により食することを禁ず 環境(庁)省
 (窓辺にゴム製のヘビを展示)

二人が絆が深いのは 東電さんのおかげです 東電さんよありがとう
 (仮設住宅で撮った夫婦の写真に添えて)

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 ……強烈な皮肉に、ふるさとをうばわれた無念がこめられていた。

雪の玉をペロペロなめた

 2011年3月12日、福島第一原発事故にともない、原発から約8キロの浪江町役場は、原発から約30キロはなれた津島支所にうつった。人口1400人の津島地区に約8000人の町民がにげてきた。
 避難所になった浪江高校津島校などでは、雪が舞うなか住民たちが炊き出しをした。
 今野寿美雄さんの当時5歳の息子は、雪の玉をアイスがわりにペロペロなめていた。
 住民も役場職員も、浪江町中心部よりはるかに高濃度の放射性物質がふりそそいでいるとは思いもしなかった。
 14日には3号機が爆発した。放射線量の情報がまったくないなか、浪江町は二本松市への全村避難をきめた。津島地区では16日に通常の1000倍にあたる毎時58.5μシーベルトの放射線量が計測されていた。短寿命核種をふくめれば200~300μシーベルトだったはずだと専門家は推定した。
 今野さんの息子は、半年後から常時風邪をひいた状態になり、病院通いが2年間つづいた。クリニックでは「被曝の影響じゃないですか」と言われた。
 2014年8月、今野さんらは福島地方裁判所にふたつの裁判からなる「子ども脱被ばく裁判」を提訴した。ひとつめの「子ども人権裁判」は子どもが原告となり、「被曝の心配のない環境で教育をうける権利が保障されていることの確認」を自治体にもとめる行政訴訟。ふたつめの「親子裁判」は「原発事故後、子どもたちに被曝をさける措置をおこたり、無用な被曝をさせた」として損害賠償をもとめる「国家賠償請求訴訟」だ。一審は敗訴し。仙台高等裁判所に控訴した。
 原告側は、事故当時副知事だった内堀雅雄知事や、当時の県教育長、文科省の幹部ら5人の証人尋問をもとめている。
「責任をあやふやにしたら『勝手に被曝して、病気になった』とされ、おなじことをくりかえしてしまう。なぜ避難の権利をうばわれたのか、年間積算放射線量20ミリシーベルト以下なら学校をひらいてよい、という基準をつくったのはだれか、なぜ安定ヨウ素剤をくばらなかったのか……裁判であきらかにしたいんです」

ふるさと喪失 山の恵みを断たれ生活費高騰

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浪江高校津島校=2022年

 震災直後、避難者が殺到した浪江高校津島校は今は静まりかえり、校舎の窓はイノシシよけのベニヤ板でふさがれている。校庭は雑木の森になっていたが、すべて伐採して除染され、昔の校庭の姿にもどった。そこに設置されたモニタリングポストの線量は0.66マイクロシーベルト(通常の約10倍)。数メートルはなれた法面の地面で測ると2マイクロシーベルト(通常の40倍)にはねあがる。
 2023年春に避難指示が解除されると、今ある家屋の解体がはじまる。行政は「帰りたい家は除染するが、帰らない家はしない」というスタンスだ。
「高線量の津島に移住することをどう思いますか?」
 私がたずねると今野さんはこたえた。
「すむすまないは個人の自由です。本来は『すべて除染したから希望する人はすんでください』という形にするべきです。でも私はすめないと思う。昔は山菜や野菜、キノコ、薪も自給して現金がなくてもくらせたけど、今はセシウムに汚染され、燃料も食料も買わなければならない。生活費がバカ高くなる。移住者には100万円がでるというけど、そんな程度じゃすみません。まさにふるさと喪失ですよ」
 山の木を薪ストーブでもやせば燃料費は無料だが、数万ベクレルという高濃度の汚染灰がでてしまう。飯舘村の伊藤さんが外部の薪を購入したら1年間で約25万円かかった。その負担を東電に請求したが拒否されたという。

2026 消えた「銀座通り」

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左手にあった診療所は解体された=2026年5月

 2026年5月、飯舘村の長泥地区から山を越えて津島にはいった。
 かつての「津島の銀座通り」の風景は一変している。斜面の上にあった診療所も、役場支所も消えた。「スーパーコクブン」も隣の宴会場も新聞販売店も更地になった。

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ここに役場の支所があった=2026年5月
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このへんにスーパーコクブンがあったのだろうか…=2026年

 避難指示区域では家の解体は公費でまかなわれるが、その申請は「解除から1年」という期限があり、津島の場合は2024年3月末だった。
 福島市に避難した三瓶春江さんはぎりぎりまで迷ったすえに申請し、2026年1月に解体された。震災前は木造2階建ての7間に、4世代10人がくらしていた。家を建てた義父は「津島に帰りたい」と言いのこして亡くなった。
「期限までに解体しないと自費で、と言われて、なやみになやんだすえに解体しました」

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松本旅館だけが往時の面影をのこす=2026年

 「ふるさとを返せ! 津島原発訴訟」の原告団代表をつとめる今野秀則さんの「松本屋旅館」だけが、かつての「銀座通り」の雰囲気をのこしている。

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津島小学校もまもなく解体されるようだ=2026年
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