大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」65 安富信

  • URLをコピーしました!
目次

タイガースの18年ぶりのアレ

 しばらく、大学ゼミの東北調査旅行(8月初め)や孫たちのお盆帰省などで、連載をお休みしていた。64回目でなんか結論じみたものを書いてしまい、若干気が抜けてしまったってこともあるが、気を取り直して、再開しよう。
 と書いたところで、今度は息子たちのハワイ・ホノルルでの結婚式(9月3日)に加えて、わが阪神タイガースの18年ぶりのアレ(岡田監督が選手に緊張感を与えないために優勝を置き換えた造語)が9月14日に決まるなどしたため、またもや延びてしまった。

2023年9月14日、18年ぶりに優勝した阪神タイガース

 その阪神ファンに纏わる話については、入社試験最終面接で当時の社長から「阪神ファンの君が何で読売を受けるや?」と聞かれたことは以前に書いた。もちろん、読売巨人軍は読売グループの一員だから当然、社員のほとんどは巨人ファンだ。東京本社はほぼ100%だそうだが、大阪本社となると様子が違う。ざっくり言って3割くらいが阪神ファンだった。筆者が在籍したころは。
 そんな状況のなか、阪神がリーグ優勝するのが、だいたい20年間隔だから、余計にファンが盛り上がるのだが。大阪読売内のトラキチたちも異様なムードになる。1985年の日本一の時は京都支局にいたが、道頓堀の騒ぎに駆けつけたかったほどだ。


 

阪神ファンデスクよ、連載つくって大人しくせい!

 2003年の星野監督の下で18年ぶりに優勝した時は、筆者は地方部のデスクだった。編集局には多くのトラキチのデスクがいたため、巨人ファンの岸本編集局次長からご下命が降りた。「君ら阪神ファンのデスクは嬉しいだろ。それなら、阪神の18年のぶり優勝の連載記事を作れ」。体の良い口封じだ。つまり、編集局でワイワイうるさく騒ぐから、連載記事でもやらして大人しくさせる魂胆だった。仕方ないから、社会部の虎きちデスクら数人と一緒にブツブツ言いながら、連載を5回?やり切った。優勝の瞬間は、もちろん編集局で大騒ぎしてやった。岸本編集局次長は苦虫を噛み潰していた。

2003年阪神優勝で胴上げされる星野監督

社会部長に嫌われ神戸支局次席へ

 さて、ずっと書かないとアカンと思っていたことから再開しよう。筆者は新聞記者時代、はっきり言って、”事件持ち”だった。この事件持ちって言い方、本当はマスコミの自分勝手な言い方で、事件や事故、災害の当事者には、極めて不謹慎な言葉だと今となっては思うが、今回は敢えて使わせていただく。
 
 この最たる事件が1997年(平成9年)に起こった。いわゆる酒鬼薔薇(さかきばら)事件だ。そもそも、この年の春の人事異動にもちょいとしたいざこざがあった。阪神・淡路大震災から2年が過ぎ、筆者は異動のシーズンを迎えた。しかし、希望する社会部への復帰は難しいと言われていた。当時の織田社会部長とは反りが合わず、外野席からは「安富は要らん」と社会部長が言っている、との声も聞こえていた。ある後輩からは「安富さん、社会部に敵が多すぎる」というありがたいメールもいただいた。「別に社会部なんか戻りたくないわ、これから震災をどう後世に伝えることしか考えていないわ」なんて啖呵を切っていたものだから、余計にややこしくなっていたようだ。全く今から考えると、子供そのものだ。

 そのことに心配してくれたのが、江崎丈さん。当時の社会部次長だ。この人には、大阪府警捜査一課担時代からずいぶん、お世話になり、かつご迷惑をかけている人だ。確か、96年末、江崎次長から阪神支局に電話が入った。「安富君、行くとこないよ。どうしたいの」。単刀直入だ。「えっ、どうすればいいんですか?」。「うん、今から空けられるポストは神戸の次席しかないな」。「じゃあ、そこでお願いします」。即答した。その瞬間、翌年3月15日付けの異動が決まった。

 阪神・淡路大震災からまる2年を経て神戸総局に異動した。もちろん、震災3年目の課題を探り、紙面で展開するためには、非常にありがたいポジションだった。しかし、異動日の翌日、大事件が起きた。

山下彩花ちゃん事件を報じる神戸新聞 
亡くなった彩花ちゃん

女児連続殺傷事件、病院取材を命令

 1997年(平成9)3月16日午後零時25分ごろ、神戸市須磨区竜が台の路上で、近くの小学4年山下彩花ちゃん(10)がハンマーで後頭部を殴打され、7日後に死亡。10分後、別の3年女児が小刀で腹部を刺されてケガをする連続女児殺傷事件だ。
 日曜日の泊まり勤務で、総局に出勤したら、明けの3席のSさんが慌てふためいていた。確かに大変な事件だったが、大阪府警捜査一課で修羅場をくぐって来た身としては、淡々と事件報道をするだけだ。若い記者たちには当然、理不尽な指令を連発する。その最たることが、病院取材だ。彩花ちゃんは神戸市民病院に搬送された。当然、記者を行かせ、その治療の様子やご両親の話を聞けと命じる。当時は、当たり前のことだと思っていた。それが大きな間違いだったと思い知るのは、事件が解決した数か月後、彩花ちゃんの母京子さんが手記を出版した時だ。M記者が他社に先駆けてこの手記の原稿を手に入れて、それを夕刊に大きく掲載しようとしていた。その手記を読んで初めて遺族の苦悩を知った。この事件はこれだけでは済まず、後に日本社会を震撼とさせる大事件に発展するのだが、それは次回に。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次