スタンドバイミー@水道筋「あの頃ぼくらはアホでした」④ 安富信

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花電車の「ミス神戸」に熱狂

「水道橋やない。水道筋です」。他所から来た人は、「水道橋」とよく言い間違える。そらそうや、東京の水道橋の方が有名やから。その度に、「水道筋商店街の下にでっかい水道管が走っているんです。だから、水道筋!」と説明するのだが、実はそんな管、見たことがない。今回、ネットで調べて、知らないことがたくさんあった。知ったかぶりはアカンね〜。

大正時代に武庫川支流の千刈(せんがり)貯水池から神戸市内に水道が引かれた際に水道管が通され、その上にできた街が水道筋。一説によれば、道沿いに町家が並んでにぎやかな「通」の脇の道を「筋」と呼ぶそうだ。実は、水道管が敷設された大正時代、既に畑原市場あたりはにぎわいを見せていた。活気ある市場の脇をシュっと水道管が通った時、その道は間違いなく「筋」であった。
水道筋という名前が、実はニックネームだったということはあまり知られていない。本名は「市道坂口石屋川線」。つまり、もともとは道だった。水道管を埋めた跡にできた道を人びとが行き交い、店が集まり、やがて街になった。その街が名乗ったのが、原点である道の通称だったのだ。

 エルナード水道筋協同組合の水ブラマップによると、こうある。なるほど!

大正時代に出来たころの水道筋?

 この商店街の南を東西に走る山手幹線に昔、市電が走っていた。東灘区石屋川から須磨区須磨駅前まで。神戸市民の多くが、このチンチン電車を愛していた。昭和40年頃、運賃はどこまで乗っても15円だった。小学生は半額だったのかな?とにかく、急用でなければ市電が重宝された。やっさんが一番利用したのは、水道筋1丁目から上筒井6丁目だった。20分ほどの路面電車の旅。後に詳報するが、小学5年の冬、やっさんは右腕の骨を骨折した。正確には、親指側の橈骨(とうこつ)が完全に折れた。
 当初は自宅近くの接骨院に行ったのだが、おカンが外科に行った方が良いと判断し、劉外科に行った。やっさんはびっくりした。折れた橈骨を真っ直ぐにして、回復を早くするためだ、と言われて、親指の根元から肘に向けて、約20㌢太さ2㍉ほどの鉄の棒を骨を支えるために入れる、という。単なる骨折にそんな手術する?と抵抗したが、おカンの「我慢しぃ」の一言で押し込まれた。局部麻酔だったが、痛かった。それから毎日、右手を吊り下げての市電での通院が始まった。

華やかだった花電車、ミス神戸が乗っている。楽しい昭和の日だった

 しかし、市電は楽しかった。チンチンという発車音に、プープーという警告音を鳴らしながら、神戸の中心街を走り抜けた。やっさんは須磨海岸までよく行った。もちろん、夏の海水浴にだ。長田区にあった温水プール「苅藻プール」にもよく通った。

みなとまつりのカーニバルでの出し物       最後の市電(昭和46年)

 
  
 この市電が1年に一度着飾られる日があった。「神戸みなとまつり」の前夜祭で行われた神戸カーニバルだった。調べてみると、神戸まつりの歴史は複雑だが、戦前からあったみなと祭りが、戦後昭和25年ごろから盛況となり、懐古行列や国際行列、みなとの女王(後のミス神戸)に花電車が走った。昭和42年に神戸開港100年祭の一環として、みなとの祭りも例年の10月から5月に繰り上げて開催。その前夜に神戸カーニバルが大々的に挙行された、とある。確かに、小学6年の時に、開港100年と騒いでいた。
 とにかく、花電車である。石屋川車庫を出た華々しい市電が何台も何台も東からやって来て、西に去って行く。これも精一杯着飾ったみなとの女王たちが、車上から手を振る。初夏の夜の風物詩だった。
 その市電は、昭和46年、惜しまれながら、廃線となった。(つづく)

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 劉外科、たぶん20年くらい前に春日野会病院に変わってます。
    たしか、小6の時?船越さん見舞いにいったのも劉外科だったような薄い記憶です

  • 僕も小学校時代よく苅藻プールに市電で通いました。泳ぎ終わってからのホットドックが美味しかったのを覚えています。市電の駅からプールまでの間に「ミヨシ」の洗剤工場が強烈な悪臭を放ってましたね。苅藻プールの所在地は垂水区ではなく長田区ですよ。

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