スタンドバイミー@水道筋「あの頃ぼくらはアホでした」② 安富信

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昨夜の「コンバット」見たぁ?

 昭和40年(1965)頃、神戸市内の小学校は、ほとんど集団登校だった。地区の6年生から1年生が午前8時過ぎに、決められた場所に集合して20〜30人がゾロゾロと登校する。校区内の1500人いる小学生だけでなく、中学生も個人登校だが同じころに通学するから、この時間、水道筋商店街南の下町は子供だらけだった。
 「昨夜のコンバット! 見たか? サンダース軍曹、カッコ良かったなあ!」集まるとすぐにこんな会話で始まった。昨夜見た海外ドラマの話がしたくてしょうがなかったのだ。

半世紀前、集団登校の集合場所となった坂の上 今もかすかに面影が残っている

 「コンバット!(Combat!)」は米ABCテレビが1962年から67年まで放映した戦争ドラマで、日本でもTBS系列(神戸ではMBS、4チャンネル)で昭和37年11月7日から42年9月27日までの全152本放映された人気番組。第二次世界大戦下のフランス、1944年6月6日のノルマンディ上陸作戦からドラマの幕が開き、アメリカ歩兵連隊の一部隊の活躍を描く。ビッグ・モロー演じるサンダース軍曹をはじめ、ヘンリー少尉、ケーリ上等兵、カービー二等兵、リトル・ジョン上等兵らが演じるヒューマンドラマだ。水曜夜8時が待ち遠しかった。
 吹き替えは、サンダース軍曹に田中信夫さん、ヘンリー少尉は納谷悟朗さん、ケーリ上等兵が山田康雄さんと懐かしい声優が並ぶ。単なるドイツとの戦争ドラマではなく、登場人物たちの戦場における葛藤などを描いていたが、アホな小学生たちに細かい心情などわかるはずもなく、ただ、「カッコええ米兵」「ダサいドイツ兵」としか映らなかった。この戦争では日本はアメリカの敵で、ダサいドイツと同盟国だったなんてことは、一切浮かばなかった。複雑な思いで見ていた人もいただろうが。

アメリカドラマ「コンバット!」の一シーン

        
 とにかく、米ドラマはスマートだった。昭和30年代後半から40年代初めまでは、日本のテレビはまだ黎明期だった。「月光仮面」や「ナショナルキッド」などのいわゆる冒険活劇ドラマは登場していたが、アメリカドラマに比べると、まだまだだった。子どもの目にも、ストーリーや出来映えが、数段、いや数十段も違っていた(と思う)。 
 畢竟、この頃の米ドラマは良く覚えている。
 大好きだったのは、「ミスター・エド」。🎶馬がしゃべる?そーんな馬鹿な🎶という三遊亭小金馬の呑気なセリフ歌で始まる番組。人の言葉を話す馬のエド君が主人公で、飼い主たちが振り回される抱腹絶倒のコメディ。日本では、フジテレビ系列(神戸では関テレ8チャンネル)で昭和37年10月22日から39年4月13日まで月曜日の夜7時から30分、放映された。小金馬の独特の声と、主人・柳沢真一のとんまな声が今も蘇る。
 この他、ララミー牧場(35年〜38年、6チャンネル、西部劇)、じゃじゃ馬億万長者(37年〜38年、10チャンネル、喜劇)、ベン・ケーシー(37年〜39年、4チャンネル、脳精神科医の医療ドラマ、最高視聴率が50%を超えた超人気番組)、ライフルマン(35年〜38年、4チャンネル、チャック・コナーズ主演の西部劇)。そして、石頭のカーリー、カラ威張りのモー、ポンコツのラリーが大爆笑を引き出した「三ばか大将」(38年〜39年、10チャンネル)も笑わせてもらった。

左上から①馬がしゃべる?ミスター・エド②脳神経外科医・ベン・ケーシー  
③じゃじゃ馬億万長者の愉快な一家 ④三ばか大将の左からモー、カーリー、ラリー

 集団登校の通学時間約30分間(距離は1キロちょっと)、昨夜のアメリカドラマの話で持ち切り、教室でも授業が始まるまで続いた。当にテレビ絶好調の時代だった。ついでに言えば、NHKの朝の連ドラは、昭和36年4月スタート(8時15分から8時30分、当時は1年間)の「おはなはん」は、最高視聴率が56.4%を記録。当に日本人の2人に1人が見ていた。筆者も集団登校の集合時間に遅れても、「おはなはん」を見てから走って登校したように記憶する。
 そして、当時、最も印象に残った米ドラマの話に移ろう。昔々の記憶力には自信があった筆者だが、ここで愕然とした。後に「ウルトラQ」や「ウルトラマン」へと続く日本の特撮、科学ミステリーの分野の先駆的なドラマだと思い込んでいたが、タイトルが違った。「ミステリー・ゾーン」とか「トワイライト・ゾーン」と呼ばれた番組だと思っていた。しかし、正確には「アウター・リミッツ」だった。奇妙な番組だった。
 昭和39年からテレビ朝日系列(6チャンネル)で確か、夜10時から始まる番組。最初は「空想科学劇場アウター・リミッツ」で、後に「空想科学映画ウルトラゾーン」のタイトルになったと、Wikiにあるから、あながち間違いではなかったのだが。
 チャンネルを合わせると、テレビ画面に波線が表れる。そして、ナレーションはこう語る。
「これはあなたのテレビの故障ではありません。こちらで送信をコントロールしているのです。水平線も垂直線もご覧のように自由に調節できますし、映像の歪みも思いのままです。また焦点をぼかしたければこのように、合わせたければいつでも鮮明に映し出せます。あなたはこれから私たちと共に、素晴らしい体験をなさるのです。それは、未知の世界の神秘ともいうべき宇宙の謎を解く驚くべき物語です」
 この後、実に奇妙な現象が次々と起きる1時間番組だった。嵌った。アホな小学生が科学に目覚めた一瞬だった。もちろん、このドラマは、下町のアホな小学生には垂涎のドラマだった。毎日毎日、このドラマの不思議さを教室で、校庭でしゃべってた。

アウター・リミッツの奇妙な画面とチラシ

 もう一つ、関西に住んでいた小学生の共通の体験談は、土曜日のダッシュ帰宅だ。当時は週休2日制ではなく、土曜午前中だけ授業がある、いわゆる「半ドン」だった。だから、「吉本新喜劇」が始まる午後0時54分からのMBS(4チャンネル)に間に合わないといけない。多分、0時30分くらいが授業終了なので、必死のパッチだった。掃除当番にでもあたっていたら最悪だった。当時の新喜劇の大スターは、花紀京と岡八郎、原哲男ら。桑原和夫と船場太郎が売り出し中だった。ナンセンスなギャグに包まれた1時間は至福の時間だった。やっさん家では、母親が共働きだったので、家にいない。なので、新喜劇は毎週土曜日、祖父の米屋近くにあるお好み屋さんで見た。おばあちゃんがお代を支払ってくれる。必ず、モダン焼き(300円くらいだったかな?)を食べながら、店のテレビを見上げて、大笑いしていた。


吉本新喜劇・なんば花月劇場のチラシ            藤山寛美が引っ張っていた松竹新喜劇

 余談を一つ。やっさんの父親は遊び人だった。なんばの道頓堀や神戸新開地の寄席などにもよく行っていた。そして、好きな喜劇は吉本ではなく、「松竹新喜劇」だった。いや、父は吉本を「喜劇」とは認めていなかった。当時の松竹新喜劇は藤山寛美率いる「おもろうて、やがて哀しき。泣き笑い」の喜劇だった。父はよく言った。「吉本の笑いは、人の悪口を言って貶めたり、どついたりして取る乱暴な笑いだ。あんなのは本当の喜劇やない」。確かに。今ではそう思うが、当時はわからなかった。

㊧世界的に大ヒットした「上を向いて歩こう」のレコードジャケット ㊨マヒナスターズのお座敷小唄のレコード

 昭和の歌謡曲の全盛時代でもあった。陽気な筆者は当然、大きな声で歌いながら通学した。昭和38年に大ヒットした坂本九の「上を向いて歩こう」は、小学校2年生の時から、ずっと歌いながら帰宅した。近所のおばちゃんたちに、「マコちゃんは歌が上手だね」とおだてられて、「今」に至る。幼少の頃は「マコちゃん」と呼ばれていた。マコちゃんはその後も、昭和歌謡を歌い続け、昭和39年に発売された和田弘とマヒナスターズと松尾和子の「お座敷小唄」は得意中の得意。園まりの「逢いたくて逢いたくて」なんか十八番。変な小学生だった。小学校高学年になると、スパイダース、タイガース、テンプターズのグループ・サウンズの波が押し寄せる。当然、熱中していくのだが、それはまた後で。(つづく)

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コメント

コメント一覧 (1件)

  • 君は、岡八郎派か花紀京派か?いろいろご意見ありますが、花紀京のヒョウヒョウとした笑いが好きでした。まあ、土曜日半ドンの小学生が吉本新喜劇を見るために真剣にダッシュで帰ってたのはなんともオモロイな子どもです。

    吉本新喜劇のテーマソングがDixieland jazzのSome body My Galと知ったのはオッさんになって三宮ジャズBARヘンリーで生演奏で初めて知りました。

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