大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」8 安富信

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行政記者、退屈な毎日のはずが……

市役所担当になった。昭和58年春。真田記者は広島総局呉通信部に転勤した。なんだか、かったるいな、行政の取材なんて!と思っていた。松江市役所の記者室は2階にあった。ここは県警記者室の半分くらいの広さだ。常駐記者も読売、朝日、毎日、山陰中央新報、中国の5社5人くらいで、産経とテレビは、時々覗くくらい。NHKは常駐してたかな? 極めて退屈な毎日になるはずだった。
しかし、ここにも、強敵がいた。中国新聞の部谷修記者(故人)だ。県警本部でも一緒だったが、その時はさして強敵でもなかったのだが、行政ネタは強かった。次々に独自ダネ(この頃、事件ではない特ダネを筆者はこう呼んでいた)を書いている。「まあ、仕方ないなあ、オレは事件記者目指しているから、行政は知らん」と高をくくっていた。それが、、、

原発担当、初の長期連載に挑戦

当時、事件以外では(とこういう書き方をするのもわかっていない証拠だ)島根県に大きな課題が2つあった。中国電力の島根原子力発電所2号機増設問題と、中海干拓・宍道湖淡水化事業だ。真田南夫記者は松江支局に赴任が決まった時から、この2つの課題が将来大きな問題となると事前勉強していたという。筆者よりずっと先見の明がある。で、筆者がとりあえず、事件記者を中退することになった際、いつものように深夜の居酒屋で彼は聞いた。「安富さん、どっちやりますか? 水? 原発? 」と。原発の方が派手だったので、「原発」と即答した。彼は「そう来ると思いましたよ」と笑った。「じゃあ、安富さん、原発の連載記事を少なくとも20回は書いてください」。おいおい、どっちが先輩やねん。

行政記者になってからのライバル記者、故部谷修さん。左は故恒松
制治元島根県知事、右は筆者。(1985年3月、島根県庁で)

記者になって初めて、長期連載記事に取り組んだ。H支局長とH次席に連載のコンテを書いて出した。しかし、自信はなかった。支局長が原稿を見てくれることになった。Hさんも前支局長のIさんも、ほとんど本社を経験していない記者だった。そういう地方専門の新聞記者が当時はたくさん、おられた。本社にはほとんど勤務せずに、地方を回る記者、ほとんど1つだけの地で何十年もいる通信部記者と、地方支局の主任や次席を経て支局長になる人もいる。IさんもHさんもそんな記者だった。当時の定年は55歳、2人とも松江支局が“上がり”の地だった。それだけに、I支局長は記者としてのたたずまいや心構えに厳しく、H支局長は原稿に厳しい人だった。2人のおかげで、新米記者として学ぶことをじっくりと学べたと感謝している。もちろん、H次席やT主任、K崎先輩には随分お世話になったし、通信部のベテラン記者さんたちも、それぞれ独特な感性があり、楽しかった。

他社の記者宅を泊まり歩く

閑話休題。ついでに書くと、独身時代に筆者は他社の記者や仲良くなった捜査員(ほとんどいないが、3年以上サツ回りをしていたので、ほんの数人いた)のお宅に泊まることが好きだった。ずうずうしいにも程がある。一番多く泊まったお宅は、先輩のKさん宅だ。本当にKさんは面倒見が良くて、夜の街で飲んだ後、自宅に連れて行かれて、奥様Tさんのおいしい手料理をご馳走になった。Tさんは自宅が仕出し屋をやっていて、本人も調理師免許を持っていた。先輩たちも何度も泊まっていたし、筆者の着替え下着が置いてあった。
不思議なことだが、ライバルの他社の先輩たちのお宅にも食事に誘われ、飲みすぎて泊った。時事通信社の2つ上の先輩Tさんとは仲が良く、よく飲みに行き、自宅に泊めてもらった。奥様は筆者と同い年で気が合った。時事通信松江支局には現場を回る記者が2人しかいなかったので、若手のTさんが警察事件をカバーするのだが、ライバルの共同通信社ほど事件事故の原稿を本社に送る必要がなかったため、Tさんとは特によく飲んだ。
松江市は大橋川によって南北に分かれていて、橋北、橋南地区と呼ぶ。そして、ざっくりと言えば、橋北地区には、県庁や県警本部、市役所、ほとんどマスコミ各社本社、支局があるビジネス街だ。橋南は住宅街。飲み屋街もそれぞれにあり、橋北に東本町、橋南に伊勢宮。ぼくらはほぼ毎日、東本町で飲んだ。おでん屋に始まり、最後は必ず行きつけのスナック。Tさんはいつもいた。筆者は当時流行っていた松本伊代の「センチメンタルジャーニー」や松田聖子の「赤いスイトピー」を歌っていた。Tさんはカッコよくビリー・ジョエルなんか歌っていた。経済に強く、後に時事通信社東京本社の編集局長などを歴任した。事件記者を中退してからは、宿敵西尾さんともよく飲みに行ったし、西尾さん宅にも何度か泊った。西尾さんの奥さまも僕と同い年で、話があった。
行政回りになって仲良くさせてもらったのが、中国新聞の先輩たちだ。中国新聞はご存じの通り広島に拠点を置く中国地方最大のブロック紙だ。広島県内だけでなく、山口、岡山、そして島根県にも新聞を発刊している。筆者の印象だが、松江に赴任する記者たちは、新人ではなく、何年か記者を経験した記者が数年間、松江支局生活を楽しむ人が多かった。ぼくらのように、ガツガツしていなくて、余裕たっぷり。事件は強くないが、行政、特に、原子力発電のニュースには、恐ろしく強い。その代表格が部谷さんだった。部谷さんも警察担当を1年間して、行政担当になった。いつもニコニコして、お酒を飲んでもニコニコ。怒った顔を見たことがない。そんな部谷さん宅にも何度か泊った。カメラマンのO記者のお宅にも。多分、他社の記者のお宅にこんなに泊った記者など前代未聞だろう。読売のK崎先輩からは、叱られたが。しかし、こう書くと、毎日飲んでいたようだが、その通りだ。

原発2号機建設問題、中国新聞ライバルが特ダネ連発

連載の話の前置きが長くなったが、さらに余談というか、本筋の話だが、部谷記者には何度も抜かれた。原発関係で。当時、島根県では、広島に本社を置く中国電力が島根県に1つだけ原発を持っていた。で、2号機増設するかどうかが、島根県にとって、かなり大きな課題だった。当時、1980年代は、関西電力が福井県に原発を次々に建設し、東京電力も福島県などに着々と原発を造っていた。水力発電が主流の中部電力を除いて、北海道、東北、北陸、中国、四国、九州の各電力会社は、発電コストが低いとされ、「夢の発電」などもてはやされていたため、原発増設、新設する動きが活発化していた。島根県もその1つだった。
2号機増設に関しては、様々なクリアすべき課題が山積みだった。一番大きなハードルは、まず、地元の県、設置する自治体。当時は島根県八束郡鹿島町に中国電力島根原子力発電所はあった。1号機の新設の際にも10年以上にわたって自治体の同意、住民理解などを勝ち取ってきた。もちろん、お金の力を以てして。原発は、簡単に言うと、住民にとっては、迷惑施設だ。ウランから発せられる強大なエネルギーを平和的に利用する発電施設だが、人類が未だに制御できない放射線という人体に悪影響を与える物質を取り扱うだけに、ある意味では危険な施設だ。もっと簡単に言えば、事故が起きて、原発は爆発でもすれば、周辺の自治体だけではなく、かなり広い範囲で人が死に、放射線障害の病気になり、住めなくなる。
図らずも、この30年後に福島県でこのことが実証されてしまったのだが。
地元自治体、さらには設置周辺、近隣の自治体、島根県にとっては、ぜひ誘致したい増設計画だ。問題は、設置自治体、つまり鹿島町に住む住民の合意だった。さらに言えば、原子力発電所は、ウランが臨界を迎えて、膨大なエネルギーを発する熱を利用して、タービンを回して発電するのだが、この超高温の水を冷やすために、膨大な水が必要となる。よって、原発は大量の水を利用できる海岸に設置される。そうなると、海で漁業に従事している漁師たちの同意、つまり、彼らが魚を獲っている海での「漁業権」を放棄してもらうことが最重要事項となる。つまり、原発から出る熱い「温排水」を海に流しても、文句を言わないという、一種の「全放棄宣言」なのだ。このために、中国電力は、この鹿島町や隣町の島根町の漁民たちの漁業協同組合、に協力金とか補償金とかいう名目で、億単位の金額を支払うことを提言し、漁協側が同意するというものだ。ここにも、「抜いた!抜かれた!」が存在した。部谷記者に何度も抜かれた。「島根町恵曇漁協 〇億円の協力金で合意」とか隣の「島根町 片句地区にも〇億円」とか。ついでに言えば、松江市は原発設置の鹿島町から直線距離で10kmと、全国の原発立地県としては、最も短距離の県庁所在地だ。だから、松江市には「周辺自治体協力金」とかの名目で数億円が中国電力から支払われる。この関連記事のほとんどを部谷記者に抜かれた。

1984年2月 島根原発2号機増設受け入れを表明する鹿島町片句地区。17億円の漁業補償で手を打った

そういったことの背景で始まった、連載である。まあ、素人原発記者の入門編だった。記念すべき第1回は、そもそも原発って入ったことないし、どうやって発電してるのを見たことがない。じゃあ、見学ルポだ。中国電力島根原子力発電所広報部長にお願いして、入りました。まあ、大層な準備と武装で。結局、連載のことまで、今回は入れなかったので、次回にしよう。

「敷地に入るな!」に「取材の自由だ!」

あっ、大切なことを書き忘れていた。漁協が中国電力の提案を受け入れるかどうかの、会議は、漁協会館でやる。当然、各社の記者たちは、その中身を聞きたい。当然のように、会館の廊下やピロティ-式の建物の下で、漏れてくる声に耳を欹てて聞いていた。何度も関係者に叱られ、「敷地内に入るな!」とどやされたが、みんな「取材は自由だ」とうそぶいていた。旭川の事例がふっと頭に浮かぶ。(つづく

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