「負の歴史に誠実に向き合え」 「ユダヤ人と私」監督が特別講義

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フロリアン・ヴァイゲンザマー

フロリアン・ヴァイゲンザマー監督

ホロコースト生存者マルコ・ファインゴルトを取材したドキュメンタリー映画「ユダヤ人の私」の日本公開を前に、クリスティアン・クレーネスとフロリアン・ヴァイゲンザマー両監督が大阪大学法学部でウェブを通して特別講義をした。負の歴史に誠実に向き合うことが民主主義を守ることになると、学生の質問に対して両監督はくり返し語った。大阪では11月27日から第七芸術劇場で公開している。

目次

ヒトラーによるドイツ併合、オーストリア人は歓迎した

1913年にオーストリアに生まれたマルコ・ファインゴルトは、4つの強制収容所に収容された。戦後は、ナチスに加担しながら「被害者」を演じてきた自国オーストリアの罪を2019年に亡くなるまで訴えつづけた。
オーストラリアはナチスの「被害者」という印象だが、オーストリア生まれのヒトラーによって1938年にドイツに併合された際、多くの人々は熱狂的に歓迎した。ヒトラーという権力を得ることで、もともと蔓延していた反ユダヤ主義が一気に暴力化した。
さらに、敗戦後の初代大統領カール・レンナーも、ユダヤ人の帰郷を拒んだ。マルコ・ファインゴルト自身も故郷のウィーンに帰れなかった。
オーストリアは「ナチスの犠牲国」と自らを位置づけ、ナチスとの共犯関係を隠しつづけてきた。それは「広島・長崎」をはじめ「被害者」としての自画像しか持たず、加害の歴史を隠蔽してきた日本と共通しているのではないか−−。
木戸衛一教授によるそんな問題提起で、特別講義ははじまった。(Qは学生の質問)

配給会社「サニーフィルム」の有田浩介代表

「ナチスの最初の犠牲国」に便乗、共犯性が消された

Q オーストリアの終戦はドイツが降伏した1945年5月8日。戦後のオーストリア人はどうとらえているか。

モスクワ外相宣言(1943年)で「オーストリアはナチスの最初の犠牲国」とされたことにオーストリアの老練な政治家は便乗した。1955年に独立を回復する際、オーストリアの共犯性も盛り込まれるはずだったが、うまく消された。それ以来「歴史のうそ」を抱えてきた。

「コロナはユダヤ人の陰謀」今もつづく反ユダヤ主義

Q ファインゴルトさんへの脅迫状はどんな時期のどんな状況のときに多かったのか。

過去のことはほじくるな、という脅迫は今もつづいている。大半は匿名。アルゼンチンからも届く。バチカンを通じて多くのナチスが南米に逃げていたからだ。
反ユダヤ主義は今もつづき、差別的な言葉や暴力も増えている。コロナの流行はユダヤ人の陰謀だというフェイクニュースが流され、それを真に受ける人も出ている。

「ユダヤ人」「難民」「うそつき新聞」……敵をつくってあおる

Q 「私たちは犠牲者」という自己欺瞞的な歴史認識と現在とのつながりは?

民主主義が空洞化した1920から30年代と今は似ている面がある。市民が政治に無関心になり、右翼やポピュリズムが台頭している。昔はユダヤ人、今は難民という「敵」をつくりあげ、不安をあおっている。
米国のトランプ元大統領は、批判的メディアを「フェイクニュース」とこき下ろした。ナチスのゲッペルズは批判的な新聞を「うそつき新聞」と呼んだ。1930年代のナチスドイツの使ったスローガンやレトリックを使う右翼がいる。
グローバル化でさまざまな問題が起きるなか、世界各地でナショナリズムが起きている。パトリオティズムとナショナリズムは違う。前者は故郷への素朴な愛情だが、後者は他国民や他民族への憎悪を意味する。
民主主義の国と思われてきたアメリカでも、トランプ支持者らが連邦議会の議事堂を襲撃した。民主主義がいかにもろいか、いかに守るための努力が必要か、認識せざるを得ない。

クリスティアン・クレーネス監督

商業主義による事実のねつ造「ファシズムは中身のない権力志向」

オーストリアのクルツ首相は、公金をつかって世論調査をでっち上げた記事を書かせたことで2021年10月に退陣を迫られた。オルブライト(アメリカの元国務長官)は「ファシズムとは中身のない権力志向」と書いている。民主主義には完成形はなく、永久の現在進行形だ。有権者も民主主義を守ることに自覚的でなければならない。そのためには選挙での1票が大切だ。

日本でも FNNと産経新聞の合同世論調査でも2020年、うそのデータ入力が明らかになった。
 ツイッター上で、野党議員らを誹謗中傷していたアカウント「Dappi」が、IT関連企業の法人のもので、同社の主要取引先が自民党だったことも判明した。

加害問題避けたからナチズムから解放されない

Q戦後世代のドイツ人やオーストリア人の戦時責任への向き合い方は?

ドイツは早い時期から過去の責任の問題に向き合ってきたから、人間蔑視のナチズムから解放されたととらえられるようになった。一方オーストリアは、加害の問題を避けてタブーにしてきた。「被害国」の神話の後ろに隠れてきた。
オーストリアはずっとごまかしの歴史のなかに生きてきたから「昔のオーストリアと今のオーストリアはちがう。」と言えない。

少数派迫害は言論の自由に価しない

Q 右翼やポピュリズムにどう対処したらよい? 先のドイツ選挙でドイツ右派政党AfDが支持率10%を越えた。彼らを排除してよいのか。意見の一部として受け入れるべきなのか

右翼やポピュリストはいずれ本性を露わにする。民主主義が機能しているなら、彼らのことも許容できる。法律的に禁止することは意味がないし、「犠牲者」のように位置づけてしまう。
言論の自由は大事だが、少数派を傷つけ、人間を蔑視する意見は言論の自由に価しない。

抽象的な「600万人犠牲」ではなく「ひとり」に焦点

Q 俳優を使って、劇映画という形でも表現できたのに、なぜインタビュー形式に?

体験者は減っている。じかに証言する重みを意識した。体験した人の語りが未来の世代にいかに伝わるようにするか考えた。言葉の正しさに迫ろうとした。
ユダヤ人が600万人殺された、と言われるが、600万という抽象的な数字ではひとりひとりの姿が見えない。1人に焦点をあて、彼が体験して見てきたことを語ってもらうことで具体化しようと思った。

「日本は過去に向き合っていない」オーストリアでは若者の歴史意識高まる

Q 日本の戦争責任の取り方は、ヨーロッパではどう思われている?

日本は過去にきちんと向き合っていない印象を持っている。広島・長崎が前面に出て、加害に向き合っていないのではないかと思う。

Q ドイツと違って日本の歴史の学び方は不十分。オーストリアでも同じ?

学校教育はここ数年ポジティブになっている。私の子どものころは第二次大戦のことは2,3時間の授業しかなかった。いまはファインゴルトさんらを講演に呼んだり、収容所を訪問したりと熱心な先生の取り組みも生まれている。歴史への意識は若い世代に高まりつつある。これがつづいてほしいと思う。

「ユダヤ人の私」は、大阪では第七芸術劇場(阪急十三駅下車西口より徒歩3分)、東京では岩波ホール(千代田区神田神保町2-1 岩波神保町ビル10F)で公開中。

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