昨年12月10日、大阪・九条の下町長屋にある本屋さんMoMoBooksが主催するイベント<『僕の好きな先生』出版記念トーク>が行われました。
『僕の好きな先生』は2022年3月に37年間の教師生活を終えた元公立小学校長の久保敬先生と教え子たちとの物語。著者は朝日新聞宮崎亮記者。
出版記念トークイベントに久保先生と宮崎記者が登壇。進行はMoMoBooks松井良太さん。
松井良太
本日の進行をさせてもらいます、モモブックスの店主、松井良太と申します。
久保敬
松井一郎前大阪市長に提言書を出して文書訓告処分になりました、元大阪市立小学校の久保です。
宮崎亮
この提言書の件で、久保先生を取材することで、久保先生と出会い、その後ずっと久保先生の教え子さんたちを取材してきて、この本を書きました。朝日新聞の宮崎と申します。広島に転勤になりまして、広島から来ています。
松井
モモブックスでやろうと思っていたんですけど、予想以上に観覧チケットが売れまして、今回急遽、モモブックスの隣のオープンアトリエSTOQueさんの場所をお借りしまして、お届けすることになりました。久保さん、宮崎さん、九条に来たことあります?
久保
昔、九条東小学校に行く用事が時々あったり、ここから少し歩いたら波除小学校がありますが、教頭をしていました。
宮崎
九条の商店街の近くでシェアハウスに住んでいる友達がいて、遊びに行ったことがあります。
松井
この辺りは、なかなか場所的に稀有な場所なんで、こういう機会ができてよかったと思います。今回は『僕の好きな先生』の出版記念イベントとして、うちでやるんですけど、お二人でイベントをやるのは、どれぐらいやっています?
宮崎
さっき、数えたら今日で5回目です。
松井
久保さん、今日はちょっと服の話もしといた方がいいと(会場、笑)
久保
着ているのは、高知在住の吉田一郎さんというアーチストがつくった服ですね。僕、校長だったので、いつもスーツばかり着ていました。退職してからはスーツじゃないしなあと思って、でも他に着る服がないんですよ。だから、いつも同じ服を着て、こうやってイベントに出させてもらっているじゃないですか。友人が今日もZOOMで入っているんですけれど、「また同じ服、着ている」と言われて(会場、笑)。
松井
今日はちょっと趣向を変えているんですね。
久保
ちょっとおしゃれというか、ちょっとドキドキしながらしゃべっています。
松井
初おろしということですね。
久保
はい。
松井
お二人の出会いのきっかけは、久保さんが出した提言書ということですが、取材者として宮崎さんは久保さんに取材されたということですよね。
宮崎
最初はSNSでした。2年前の5月、フェイスブックで久保先生の提言書が流れて来たんです。久保先生にシンパシーを持っている人の投稿でした。現職の公立の校長先生が実名と学校名を明らかにして、市長に物申すというのは、言ってみれば、自分の上司にあたるような人を公然と批判することだから、かなり珍しいし、よっぽどのことだと思って、会いに行かなければと思いました。
松井
久保先生、最初はどうでした?
久保
僕自身、SNSで広がっていることすら、知らなかったんですよ。
宮崎
久保先生はフェイスブックのことがわかっていなかったですよ。
久保
そうそう。SNSを見たと言って、共同通信の人から「電話取材させてください」と電話がありました。あーそうなんやと思って、それから関西テレビからも電話がかかってきました。広がっているなあと思っていました。共同通信の電話取材を受けていたら、宮崎さんから電話がかかってきて、関西テレビが夕方6時に来るから、宮崎さんに「7時過ぎぐらいになりますけど、いいですかね」と。断ると思ったら、「大丈夫です」と言って、7時過ぎまで待ってもらいました。
松井
久保先生の印象を覚えていますか。
宮崎
滅茶苦茶、覚えています。提言書は硬い文面で、これを書いた久保先生は、語気も主張も強いタイプの先生だと勝手に想像して、学校に行ったんですけど、滅茶苦茶、柔らかくて、ニコニコして迎えてくれました。話を聞いていると、どうして提言書を出したのか、よくわかりました。コロナウイルス感染が広がる中、松井市長が下した判断によって、学校が混乱してしまって、その時、久保校長は同僚の先生からも生徒の家族からも意見を聞いて、松井市長の判断はアカンと実感としてわかって、それで提言書を出したことがわかりました。地に足のついた校長先生だと思いました。7時から9時まで校長室で久保先生に話を聞きました。取材が終わって、これは記事にしなくてはいけないと完全に決めました。
久保
これまで取材を受けたことはあまりなかったんです。新聞は、どちらかと言うと、悪いことしか取材しないみたいなことがあると思っていたから、宮崎さんは7時過ぎに来ると言うけど、「帰ってくれたらいいのに」と思っていました。でも、ぐいぐい来る人やったんです。けれども、すごく僕の言っていることを熱心に聞いてくれるという感じがしたので、9時半ぐらいまでお話をさせてもらったと覚えています。僕自身すごくしゃべっていて、その時点でかなり信頼して、宮崎さんに思っていること全部、言ったんじゃないかなあと思います。
松井
提言書から始まったとはいえ、久保先生の人柄に興味が引かれた、そういうこともあるんですか。
宮崎
もちろんそうですし、文書訓告処分されるまでは、ずっと継続して取材をさせてもらっていました。他のことで忙しくなって、数か月会わない時期がありましたが、久保先生が定年退職されるのがこの年でした。提言書のことを記事にして、あれだけの騒ぎにした一端を担っている責任もあるし、定年退職の時に何かしら、記事を出そうと思っていました。教師としての久保先生の話もしっかり書きたいなあと思って、卒業前にもう一回、しっかり時間をとってもらって取材しに行きました。
松井
提言書の取材は別にして、さらに深掘りされるって、取材される側として、なんかドキドキしますよね。
久保
卒業式も取材に来てくれるなら、僕自身としたら、新聞に載せてもらえるんやったら、孫とかが大人になった時に、おじいさんにはこんな立派な時もあったんやと思ってもらえたらなあ、そんな感じでした。
宮崎
いきなり卒業式に行って取材しても、卒業式の様子しか書けないんで、3月中旬でしたかね、初めて久保先生と会った校長室に行って、何かないかと、いろいろな角度から質問をぶつけたんです。1時間半ぐらい粘って、その時にぽろっと出てきた話が、この本のスタートになりました。
松井
そこからのスタートで本が出来上がった。
宮崎
久保先生が新人の時の学級会のお話なんですけど、久保先生に話してもらいましょうか。
久保
最初の学校では失敗続きでした。なかなか新任の教員がベテランの先生と同じようできるわけもないし、いろいろな経験をして新任の教員が先生になっていくんや、そういう考えがあったんやと思います。それで、いろいろな失敗をしながらも、でも、僕自身が、自分が育ってきた中からの自分の価値観みたいなものを崩せなくて、それで、上から目線で子どもたちにものを言ったりして、子どもたちと衝突していました。一方で、学校のこともわかりだしてきて、この学校には、被差別部落に住んでいる子どもたちや在日外国人の子どもたち、障害のある子どもたちもいました。一番しんどい子を中心にした仲間づくりをしようというのがこの学校のコンセプトでした。僕もそれがすごくわかって、このコンセプトに沿ってやろうとしたんですが、まだ、僕には思い込みがありました。クラスに障害のあるトシくんという子がいました。トシくんの帰りをどうするか、トシくんは一人で帰ることができないので、みんな一緒に帰ることになったんです。帰って行ったら、トシくんのおかあさんがお菓子をくれたりして、みんな喜んで帰って行ったんです。でも、段々、慣れてくると、いつの間にか3人の女の子がいつもトシくんと帰っている状態になったんです。この3人の女の子はおとなしい子やったんで、僕はてっきり、みんなが面倒くさいことをこの子たちに押し付けているみたいな、そういうふうに見ていました。それは、僕自身が差別意識で、トシくんは手がかかる、面倒を見てあげなあかん子、だから、面倒みられる子とみてあげている子、そういう一方的な関係で、クラスのみんなは、嫌なことをこの子たちに押し付けてんねんや、そういうふうに僕は勝手に思っていたんです。この3人の女の子に聞けばいいのに、聞くともしなかったです。学級会で、僕は「どうなってんねん。みんなで助け合って、トシくんをちゃんと送ると決めたんちゃうのか」とか言いました。子どもたちみんな、どこか反省するようなこともあるから、みんな黙ってしまいました。どうしたらええのか、結局、当番制にしようという話が出てきたんです。当番制なら、みんなが平等だからそれでいいんちゃうか、となったその時、いつもトシくんと一緒に帰っていた女の子、授業中に手を挙げて意見を言ったことがない女の子なんですが、その子がぱっと手を挙げて、「この話、止めてください。トシくんを物扱いしているように思います。私はぜんぜん、トシくんと帰るの、嫌じゃない、楽しいんです」とその場で言ってくれたんです。僕はほんまに、頭ガーン。子どもたちも、当番制にしようと言った自分たちが、トシくんとどういう関係を築こうとしていたのか、思いしらされて。でも、学級会で当番制にしようという雰囲気にしたのは、まさしく僕なんです。子どもたちは僕に合わせて、当番制にしようとしたんだと思います。勇気を出して、手を挙げて、言ってくれたことは、僕の教員人生を変えてくれました。提言書提出のことで、周りから「勇気ある」と言われますが、彼女のこの時の一言を思い出して、提言書を書いたわけではないのですが、ひょっとしたら、通じるところがあったのかと思います。宮崎さんは、この話をひつこく、ひつこく、聞くんです。卒業式のことだけ聞きに来てくれたと思っていたら、「いやー、なんか」って言って、いろいろな角度から質問を受けました。さすが、新聞記者さん、こういうひつこさがないとアカンのやなあと思いました」
松井
このときのこと、宮崎さんは覚えていますか。
宮崎
この話を聞き終わった瞬間、記事がもう出来上がったんです。出来上がったのは間違いないと思ったんですけど、それだけではなくて、新聞記者は、いい話を聞くとうれしいし、喜ぶんですけど、あまりにいい話を聞くと、逆に緊張して、わなわなしてくるんです。
松井
どういうことですか。
宮崎
きちんと伝えないとあかんし、へたくそに書いたらせっかくの話が伝わらないし、下手すると新聞に載らないかもしれない、この大事な話を聞いちゃったからには、書かなアカンと思って、「トシくんを物扱いにしていると思います」と女の子が言った時の教室は静まり返ったと思いますが、僕もまさに、久保先生の話を聞いて静まり返りました。この女の子が言った時の教室の情景が浮かんだだけではなく、僕も年齢的に久保先生に近い大人になっているので、久保先生のその冷や汗をかくような、恥ずかしい思いみたいなものに、なんかギュッとなって、そういうのを覚えています。
(つづく)
●編集担当:文箭祥人 1987年毎日放送入社、ラジオ局、コンプライアンス室に勤務。2021年早期定年退職。
〇『僕の好きな先生』(朝日新聞出版)
●MoMoBooks
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