窓岩の窓がきえた
輪島市町野町の曽々木海岸にすむ藤平朝雄さん(84)は、妻の友子さんと息子夫婦、孫の5人で2024年元日をむかえた。
毎年正月には、窓岩の目の前の海でとれたイワノリの雑煮をたべる。すまし汁の白い餅に、磯の香りがこうばしいノリをたっぷりまぶす。
午後2時ごろ、年賀状を書いていて眠気をおぼえ、外にでた。窓岩が日の光をあびてこうこうとかがやいている。2023年は友子さんの病気などがあって大変だった。
「今年こそはよい年になりますように」
「母ちゃんの体がよくなりますように」
窓岩にむかって柏手を打った。55年間この地にすんでいるが、窓岩に手をあわせるのははじめてだった。
2時間後、はげしい揺れが10分ちかくつづいた。岩盤の上だから築60年の家は倒壊はしなかったが、戸もガラスも落ちて、食器棚もたんすもすべてがたおれた。
「津波がきます。至急避難を」
かまびすしく放送がながれる。家の外にでたら、窓岩の「窓」がない。夢かと思って頬をつねったが現実だった。
車で4キロ内陸に避難し、5人で車中泊をした。車いすの友子さんはトイレが大変だ。息子たちがかついで介助し、残雪で手を洗った。星がチカチカまたたいて、美しい星月夜だった。
深夜、津波警報は「注意報」になったとラジオが報じた。翌朝午前6時に自宅にもどったが、玄関は足の踏み場もない。藤平さん夫妻は町野の中心にある東陽中学の体育館に避難した。そこに13日まで滞在することになった。
避難所の菩薩たち
体育館には約200人が避難していた。体操用のマット1枚に2人で横になる。電気も水もない。トイレがたりずドロドロによごれ、食事は、バナナやおにぎりが半分という日もあった。余震のたびに体育館は轟音をたててゆれる。
避難所では、重傷だったひとりが亡くなり、17人の遺体が安置されていた教室にはこばれていった。
そんな状況でも、人々は体育館のあちこちにおかれたストーブのまわりにあつまり、それぞれの体験をおだやかにかたりあった。そして避難者自身がボランティアとしてはたらいた。
99歳のおばあさんは、70代の息子は避難所のお世話係をしているから、自分のことは自分でこなしていた。いつもおだやかな笑みをうかべ、食事の順番も「どうぞ」と若い人にゆずる。「避難所の菩薩様」と藤平さんは思った。
60歳の女性は2年前に夫をなくて義理の両親を介護していた。避難所でもお年寄りの世話をして、トイレの掃除もになっていた。
70代の男性は、体育館聚のストーブに順番に給油し、火加減を調整してまわった。
自衛隊のヘリが荷物をおろすと、だれかがとりにいく。「手伝います」と藤平さんも手をあげたが、「足下もおぼつかないあなたがいったら迷惑になる」と友子さんにとめられた。
ある人は「体をうごかしましょう」と体操を指導する。自宅が全壊した歯科医師は「こういうときこそ歯が大事。ちゃんとうがいをしましょう」とよびかける。粟倉医院の大石賢斉医師は自宅が全壊したのに、学校の一室に診療所をもうけて診察しつづけた。
だれひとりとして大声をあげない。自分のできる仕事をこなし、淡々とおだやかにすごしていた。
藤平さんの脳裏に「能登はやさしや土までも」という言葉がうかんだ。昭和30年代にひろまったフレーズだが、由来をしらべると元禄9(1696)年の旅日記にすでにしるされていた。地元住民さえも古い諺とは知らなかったものが、観光ブームとともに復活したのだ。
「能登にはねばり強く生きるやさしい人たちがすんでいる。過疎で大変だというけれど人間にとって一番大事なものをもちつづけていた。避難所の極限状況で能登のやさしさにふれて、55年よいところにすんでたんだなぁって実感しました」
最悪の災害のなかに一条の光が差してきたと、藤平さんは思った。
あばれ祭りの宇出津のいのち
避難所からは30人ほどが加賀の温泉などに二次避難したが、車いすの友子さんには無理だった。
「電気がつくまでうちにおいで」
能登町の中心の宇出津(うしつ)にいる長女が声をかけてくれた。宇出津は断水状態だが電気はつかえた。1月下旬まで2週間すごした。
宇出津も多くの家々が倒壊している。
町を散歩すると「今年の祭りはだめだろうな」といった悲しげな声が聞こえる。能登最大のキリコ祭りである「あばれ祭り」のことだ。祭りの日は都会にでた子や孫があつまり、東京の下町のようなにぎわいをみせる。みこしがでる白山神社は石灯籠も鳥居も倒壊していた。たおれた鳥居から山上の社殿を見あげ、藤平さんがパンパンと柏手をたたくと、宮司が深々と頭をさげていた。
だが2週間すごすうちに「祭りをできるかもしれんぞ」という声もチラホラきかれはじめた。
「この町はなんていう町だ!」
藤平さんはおどろいた。多くの家がたおれ、断水がつづいているのに祭りに思いを馳せている。「あばれ祭り」は人々の生きがい、というより、体の一部、あるいは宇出津という町の魂のような存在なのだ。
病院のベッドで大伴家持の冊子出版を決意
1月下旬、曽々木の自宅に電気がもどり、帰宅することにした。
藤平さんの地区は、約30戸が地元の水源をつかう簡易水道だ。電気が回復してポンプがうごき、はやくも2月1日から水をつかえるようになった。
ところが2月中旬、ひどい倦怠感におそわれる。2月27日、息子の車で輪島病院にいくと、そのまま3月16日まで入院することになった。
病院も地震でトイレはつかえない。ベッドわきにポータブルトイレをおいていた。看護師たちも被災者なのに、とことんめんどうをみてくれた。
31歳の大伴家持の能登半島の旅について2023年に中日新聞に連載したが、冊子にまとめる作業は地震で中断していた。
病院のベッドに横になり、天井をみつめているとき、天から声がきこえたような気がした。
「お前がやらんでだれがやる!」
「今やらなくていつやる!」
こういう時だからこそ万葉の風を能登の大地にとどけよう。そう決意して2024年3月「能登万葉八景 家持巡見うたの旅」(A4判14ページ)を完成させた。
やさしさが能登再生のキーワード
避難所でも病院でも「能登はやさしや」を痛感した。たんに「やさしい」だけではない。粘り強さをともなった「やさしさ」だ。それこそが能登再生のキーワードだと藤平さんはかんじている。
「高度経済成長をへてだいぶうすれたとはいっても『能登はやさしや』の遺伝子はのこっていた。大変な状況だけど、能登のあすはあると思う。国破れて山河あり。されど永遠、と思いたいですね」
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