大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」59(社会部復帰編3) 安富信

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米西部海岸を襲ったノースリッジ大地震(1994年1月17日)
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「日米都市防災会議」当日に「阪神・淡路」

 平成6年(1994)は、後から考えると色んな意味で曲がり角であり、重要な局面を迎える前の年だった。翌年が戦後50年となる記念すべき年だったが、結論から言えば、阪神・淡路大震災が1月に起き、3月には地下鉄サリン事件が発生した。戦後最悪の災害と事件が相次いだ極めて残念な年だったが、準備と想定をきちんとしておけば、被害をどちらも最小限に食い止めることが出来たのではないかと信じている。
 阪神・淡路のちょうど1年前の1994年1月17日、サンフランシスコでノースリッジ大地震が起きた。当時、関西を中心に防災関係の学者たちは、非常な危機感を抱いたという。アメリカ西部の地震多発地帯でマグニチュード7以上の大地震が発生し、高速道路が倒壊するなど大きな被害が出た。その1年後の1995年1月17日、ノースリッジ大地震から1年後の記念日に大阪で「第4回日米都市防災会議」が開かれることになっていた。当にその日に阪神・淡路が発生したのである。会議の実行メンバーたちは1日目こそ市民向けのシンポジュウムを開催したが、2日目は急きょ神戸の現地調査に切り替え、3日目はその報告会となった。
 ここでも筆者は記憶違いをしていて、ノースリッジ地震のその日に、大阪で国際会議が開かれたと思っていたが、室崎益輝・神戸大学名誉教授に確認したところ、1年後の阪神・淡路のその日だったことがわかった。要するに何が書きたかったかと言えば、一般市民やマスコミはいざ知らず、研究者の間では、日本でそれも関西で阪神・淡路大震災級の地震がいつ起きても何の不思議もなかったということである。一般の市民はとにかく、マスコミの姿勢というか、勉強不足というか、何を伝えようとしていたのか、極めて疑問が残る結果となった。自省を込めて言えば。

記者との闘いで、市職員の危機管理能力向上

 もう一つ深く反省しなければいけない出来事が「松本サリン事件」である。そのことを詳しく触れる前に、またまた横道に逸れてしまって申し訳ないが、枚方支局を去る前に、書かなければいけないイベントがある。この連載でもたびたび登場する加藤譲さんは筆者の3代前の枚方支局長であり、彼が今から34年前というから平成元年(1989)2月に「梅を愛でる会」として始めた花見が、コロナ禍の3年の中断を経て去る4月3日に開かれた。なんだ、ただの花見やないのか? と言うなかれ、歴代の読売新聞大阪本社社会部枚方支局員と枚方市役所の広報課員らとの懇親花見というところが“味噌”である。梅はあまりに寒いから翌年からは桜になったのだが。
 前にも書いたが、大阪府内の支局・通信部はかなりの面で担当市役所に記事提供と言う面でお世話になっていた。根っからの新聞記者である加藤さんはあまり気にいらなかったようだが。多分想像だが、そういう中で彼なりの慰労の場を市職員に提供したかったのと思う。と言っても、会場の枚方市牧野の公園での準備やお酒やつまみ類の用意は市職員がしてくれるのだが。それでも対等に懇親しようというものだ。
 以来、毎年のようにその当時の支局員はもちろん、歴代支局員も招かれて、市の広報課員たちと親睦を深めて来た。これも珍しい“伝統”だ。そして、4月3日夜、満開を過ぎて散り始めたソメイヨシノの下で3年ぶりに牧野公園での花見を楽しんだ。市役所職員OB6人と読売新聞OB5人、現職の読売新聞枚方支局員の計12人が集合した。前にも少し触れたが、この会に来られる市役所職員OBたちは、新聞記者を怖がっていない。もちろん、現役時代は「くそっ」と思ったことも多いに違いない。それでも、あの時代に新聞記者と“闘って”得たものあるという。それは究極に言えば、危機管理事象が起きた時にも対応できる「考え方と能力だ」という。今、筆者は大学教員でありながら、出来るだけ全国の自治体職員、特に基礎自治体の職員方に大災害が起きた際の「住民への効果的な情報発信の在り方」と題した講演・講義を繰り返しているが、詰まるところ、これなのである。すなわち、マスコミを怖がるのではなく、マスコミを1つの広報ツールと捉えて、情報発信するというマインドである。

35年前から続いている読売新聞記者と枚方市役所OBとの花見の宴会(2023年4月3日夜) 右は牧野公園での花見
松本サリン事件を報じる、当時の紙面」

松本サリン、会社員を犯人扱い

 さて、松本サリン事件に戻ろう。今では、この事件が翌年の地下鉄サリン事件の前に、旧オウム真理教が起こした事件であることは誰でも知っているが、発生当時、そうではなかった。平成6年(1994)6月27日午後11時ごろ、長野県松本市の中心住宅街で多数の住民がガス中毒のような症状を訴え、マンション2棟、社員寮1棟の計3棟で7人が死亡、付近の住民47人が病院に運ばれた。長野県警は付近でなんらかの有毒ガスが発生したとみて捜査本部を設置した。7月9日の読売新聞社会面では、「サリン副生成物検出」との見出しで続報があるが、その内容を読むと、猛毒ガスは「サリンの発生源と見られる会社員(44)」との記述があるが、この事件で当初から“犯人”扱いされたのが、この会社員だ。翌年3月に東京で地下鉄サリン事件が起きるまで、ずっと“犯人”とされ、一部のマスコミには実名や顔写真まで晒された。ある意味で、戦後いくつか起きた冤罪事件に匹敵するような、マスコミからのバッシングを受けた。筆者はこの時の報道には関わっていないが、その後も何度かこうしたマスコミ、とりわけ新聞やテレビによる“冤罪”を産み出しているだけに、心が痛むと同時に憤りを感じる。
 翌年、サリンと地震が皮肉にも、日本の大都市圏で、収斂する。

戦後50年を前に、なぜか昭和を象徴する事件や人物が最後を迎えた。グリコ森永事件の最初の事件の時効、田中角栄元首相の死去。日本ではないが、金日成・北朝鮮主席も亡くなった

時代の節目だった「戦後50年」

 この年を調べていて、奇妙に戦後50年を前に、一つの時代が終わりを迎えたことを感じる。もちろん、偶然と言えば偶然なのだが。翌年の平成7年(1995)は年明けに阪神・淡路大震災が発生し、日本の平和な時代が終わった。3月には戦後最悪とも言えるテロ事件・地下鉄サリン事件が引き起こされた。個人的には、京都総局時代に残してきた2つの課題、ひとつはKBS京都の問題、そして、京都も景観論争「高さ制限」も緩和された。野村知将の下、ヤクルトがセリーグ優勝を果たし(1993年10月25日)、サッカーW杯のアジア最終予選で、日本がイランと引き分けてフランスW杯出場を逃した、いわゆる「ドーハの悲劇」が1993年10月28日だった。筆者が枚方支局長でいたわずか10か月の間に、日本社会は大きな節目を迎えていたのだ。

二大政党の政権交代を期待した「小選挙区制」

 そして、もう一つ、大きな政治改革と言うか、選挙改革があった。平成5年(1993)11月16日に衆院政治改革特別委員会が、小選挙区比例代表並立制導入を軸とする政府提出の法案を一部修正のうえ連立与党の賛成多数で可決。後の衆院本会議で可決された。戦後長く続いた中選挙区制から小選挙区制に移行した瞬間である。国民の多くがアメリカのような2大政党の政権交代を期待した政治改革でもあった。当時は。そして、翌年6月29日に、自民、社会、新党さきがけの推す社会党の村山富市委員長が第81代目の首相に指名された。
 紙面探しをしていて、わが家の街の売り出し全面広告を見つけた。まだ、筆者はこの時、新居には住んでいない。(つづく)

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