大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」57(社会部復帰編1) 安富信

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原稿何度も書き直す「洗濯屋」デスクの訃報

 社会部枚方支局長に転勤した。嬉しかった。1年半ぶりに「記者」に復活した。そう、支局長と言っても、大阪府内の支局長は取材をして記事も書ける。7年前に社会部に上がった時は北摂の吹田通信部。今度は北河内の枚方支局だ。

そう書いていた時、訃報が入った。この連載でもたびたび出て来た方だ。あまり、いいように書いてなかったのだが、前に書いたように、筆者にとっては非常に関係が深い方だった。勝手に実名にします。藤井康博さん。享年72歳。若い、若い。本当に残念です。府警ボックスにサブデスクで来られたのが、本格的な付き合いの始まり。まあ、その頃から、性格が合わないというか、筆者とは正反対の実に慎重で思慮深い方だった。そんな生き方が筆者とは正反対だった。だから、正直言ってあまり好きではなかった。にもかかわらず、筆者の記者人生に何度も影響を与えた方だった。府警捜査一課担の時に、サブで来られて反目した。京都総局デスク見習い時代には、組合のオルグで来て“社会部復帰”を預言。社会部阪神支局でデスクをしていた時、社会部次長の藤井さんに何度も阪神支局の若い記者の原稿を見てもらい、社会面に掲載してもらった。しかし、その過程は“過酷”なものだった。ある女性記者は、原稿の推敲の仕方に、「洗濯屋さん。藤井洗濯屋さん」と称した。言い得て妙だった。つまり、社会面に掲載すべき記事を何度も何度も書き直して、納得が行くまで質問を繰り出してくる。だから、「洗濯屋ラスカル・藤井」になった。そして、月日は流れ、筆者が地方部次長で最悪のデスク生活をしていた時、3代目の部長として赴任された。前の部長の名前で何かの申請書を出したら、こっぴどく怒られた。「君はまだ四ノ宮派か」と。とにかく大雑把な筆者とは合わなかった。それ以外にも色々あった。しかし、ここは静かに合掌します。本当にご迷惑をおかけしました。深く深くご冥福をお祈りします。ありがとうございました。そして、ゆっくり休んでください。

市職員がゴーストライター

 話を枚方支局に戻そう。記事の作成システムは、8年前の吹田通信部の時とよく似ていた。地域版の記事は市役所広報課の職員が書いてくれた。今度は部下が1人いる。枚方支局守口通信部のT君だ。と言ってもほとんど、2人とも枚方市役所別館3階の記者室にいた。「地域版は京阪版という名前だったよ」と先日、枚方編を書くために枚方市役所や枚方支局があった同市宮之阪付近に取材に行った後、飲みに誘った当時の職員山下君が言った。そうなのだ。筆者はこの連載を書くために時々、現地を訪れる。この日、枚方市役所近くの居酒屋で杯を上げたのは、30年前の平成5年(1993)当時、市役所広報課で記者たちに記事を書いてくれた宮本君と後に副市長になった山下君だ。
 いきなり、山下君が熱弁を振るう。「あんた、結構変な記者やったけど、なんとなく言ってることはわかった。それで、ぼくが後に広報課長になった時に新聞社から取材があった際に、市長には事後報告でさばいたことがあったよ」。「素晴らしい!それでこそ危機管理の権化だね」と酔った口調で返した。宮本君は真面目だから「記者の皆さんに記事提供したものが、そのまま各社の地域版に掲載されて、とても嬉しかったですよ」とは言うが、本音はどこにあるのかしら?

枚方市役所内にある記者室。ほぼ昔のままだ
市役所近くの飲み屋街と、歩いて通った枚方支局(マンションの1室)からの途中の街

枚方市役所記者室へ「通勤」

 まあ、彼らと飲んで四方山話をしているうちに、忘れていたことをたくさん思い出した。改めて、取材は大切だと感じた。
 ついでに言うと、枚方支局と言っても名ばかりで、取材の拠点は市役所記者室だった。宮之阪のマンション1室の支局から毎朝、二日酔いの身体で市役所まで約15分歩いて通った。途中、天の川の橋を渡る際、ミヤコドリが何羽も飛んでるのを眺めていたものだ。市役所記者室にたどり着くと、記者室のお世話をしてくれる妙齢の嬢さんがお茶を入れてくれる。で、ソファに寝そべって新聞を読んだり、他社の記者とおしゃべりをしたりして午前中を過ごした。あの頃の枚方市役所記者クラブには読売と朝日、毎日、産経、NHK、共同通信が常駐していた。おおらかな時代だ。特に産経のベテラン記者Iさんなんかは、広報課の記事に全面的に依存していた。若い共同の新人に近い記者は戸惑っていたし、毎日の若い記者は、ここからの脱出を図っていた。朝日の記者はほとんど顔を見なかった。

40年続く松江の記者の同窓会

 そう書いてきて、つい先日、東京で昔々のライバル記者たちと飲んだことも書かなければならないな。前にも書いたが、記者になって初めて赴任した地、島根県松江市はいろんな意味で思い出深い。と言っても、あれから40数年。奇跡のように未だに他社の記者たちと“同窓会”をしている。今回も3月1日、筆者が上京することを伝えると、新橋で一席設けてくれた。元時事通信の谷さん、元共同の佐藤君は同期、1年下の元NHK記者塩田君、2年下の元共同森君が集まった。相変わらず、40年前の昔話をしながらもみんな髪が白しい、病気自慢だ。それでも、新橋駅近くのカラオケ店で昔の歌を歌った。塩田君と森君と筆者の3人で、お隣の町、鳥取県米子市にある皆生温泉での昔話で盛り上がった。詳しくは、今のコンプライアンス的に言えば、書きにくい事なので、省略するが。

40年前に戦った他社の記者たち

フクロウの里山で出会った女性にワクワク

 話を枚方に戻そう。ここに、近隣の寝屋川市や交野市の広報課の人たちも来て、記事を置いて行った。まあ、一日中遊んでいても、地域版作成には事欠かない。で、夕方になると、広報課長や補佐、係長、記事担当の職員と市役所に近い飲み屋街、河原町商店街に飲みに出る。調子に乗れば、スナックでカラオケなんかやる。まあ、京都総局のデスク見習い3席と比べると、天国のようだった。 しかし、そんなことを1.2週間もやると、飽きてきた。なんか、面白い事はないかな?と、ヒマを見て管内を歩いた、いや、タクシーで回った。でも、そう簡単に見つからない。そんな時、宮本君が地域版用に書いてくれた記事が気になった。それは、枚方市でも山奥にある里山の話だった。確か、里山の自然を守り育てている会の話だったように記憶する。その中に、その里山には、フクロウがいるとあった。見てみたい、野生のフクロウを、と思って里山に行った。氷室台とか穂谷とか尊延寺が、キーワードだったように思う。
 現地に行った。その会の代表をしているIさんに会って話を聞いた。もっとお年寄りの男性をイメージしていただけに驚き、正直嬉しかった。彼女は初めて来た新聞記者に夢中で、ここの自然の素晴らしさを話してくれた。(つづく)
 

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