「黒田軍団」にもいた茶坊主・ヒラメ
「おなかの赤ちゃんが助けてくれた」の連載で日本新聞協会賞を受賞した中山公さんは、黒田軍団の一員ではなかった。黒田軍団に対しては、どちらかと言えば、あまりいい記憶がないという。一番嫌な思い出は、正月に黒田邸に集まる新年会。100人以上の社会部員がほぼ全員、元旦の朝から、10人から20人までのグループに分かれて、社会部長の黒田清さん(故人)の千里ニュータウンの自宅に新年の挨拶に来たという。1,2時間ほどの滞在だが、子息のためのお年玉を募る箱が回って来たり、軍団のメンバーが出席をチェックしたりしていたという。「後輩のMなんかが偉そうに振舞ってたな。年始回りに来ない記者や全舷で用事があって帰宅する記者に『裏切者!』とか言ってたな。奇妙な光景やったね」と否定的だ。エリート軍団が生み出す裏面だ。それでも、中山さんは「大阪社会部にいたという誇りはあるね」と言う。読売新聞大阪社会部は、この後も司法グループが婦女暴行殺人事件を起こして起訴された少年たちの冤罪事件を追った連載「逆転無罪」などの素晴らしい記事を連発する。社会の弱者に寄り添う「大阪読売社会部の伝統」は受け継がれていた。
曾根崎署に「出勤」、阪神百貨店広報課長と昼ごはん
さて、筆者の体験に戻ろう。昭和63年(1988)5月、上海列車事故の取材から戻り、本格的に大阪市内回りが始まった。前述したが、持ち場は大阪市北部の北、淀川、東淀川、大淀の4区で、担当する警察署は曽根崎、淀川、東淀川、大淀、天満の5署。主に大阪の玄関口である梅田周辺にニュースは集中する。大阪駅、新大阪駅を抱え、阪急・阪神、大丸のデパートに加え、阪急三番街や17番街、阪急東通り商店街やお初天神商店街の繁華街にビジネス街もある。地下街も縦横に巡っており、ちょっとしたボヤでも大きなニュースになる。かと言って、いつも事件が起きるわけではない。朝9時ごろに曽根崎署に“出勤”し、持ち場5署に事件がなければ、基本的にはヒマだった。午前中は曽根崎署2階の記者室でゴロゴロして、夕刊が締め切られる頃(概ね午後1時半過ぎ)になれば、何故か、隣の阪神百貨店の広報課長Kさんが迎えに来て、ホワイティ梅田などの地下街や阪急東通りの名店、「きしめんの天野」やちゃんぽんと皿うどんが美味しい「中央飯店」、とんかつの美味しい「小林」などを巡った。仲良くなるとKさんは貴重な街ダネや時には“事件”も教えてくれたが、残念ながら、50歳代で早世された。
パチンコ屋もストリップも「街回り」
午後からは署回りだ。借り上げタクシーで十三にある淀川署や、東淀川、大淀、天満各署を回る。ほとんどは副署長との雑談だが、気の合う人とは話が盛り上がるが、そうでもない人もいる。毎日、そんなことをしていて飽きてきたので、曽根崎にいる時はパチンコ屋に入り浸り、十三に行くとストリップ劇場にも入った。すべて、「街回り」の一言で片づけていた。事件が発生すると、府警本部や本社社会部遊軍席からポケットベルを鳴らされる。パチンコをしていると騒音に紛れて聞こえない。何度も府警の先輩から「何回もベル鳴らしているのに、何してんだ!」と怒られる。そのたびに「地下街にいたので(ベルが)入らなかったんですよ」と言い訳した。
夜はスナック、ラウンジ、ピンサロ……
夕方になると、泊まり勤務でない時は、港回りと城東回りの記者たちが曽根崎署にやって来る。夜のご飯を食べに来るのだ。たいていは、お初天神通り辺りの居酒屋でビールを飲みながらの食事だ。署に事件の捜査本部が置かれている時は、捜査一課担の先輩たちから電話がかかって来て、曽根崎周辺で飲み食いしながら情報交換をする。後述するが、府警グループは夜回りに行く前に食事をする。概ね午後8時ごろまで。それからそれぞれのネタ元の自宅にタクシーで回る。所轄回りは、事件があれば別だし、真面目な記者は毎日のように夜回りする者もいるが、筆者は概ね遊んでいた。スナックやラウンジに飲みに行ったり、好きな者は当時ピンサロと言った店にも行ったりした。そんな時代だった。筆者と、当時の港回りのN島記者はスナックで飲んで歌うのが好きだったので、長渕剛の「とんぼ」や「しゃぼん玉」を毎晩、熱唱していた。城東回りのM本記者は飲めないのでピンサロに行きたがった。朝日や産経、共同など他社の記者も一緒に遊んでいた。そんないつもの5月中旬の深夜、いや午前2時前だった。まず、産経の記者のポケベルが鳴った。次いで、N島記者のベルも鳴った。「港管内で事件やな。ご苦労さん」と言っていたら、筆者のベルも鳴った。大事件だ!
ソ連客船火災、130字の特ダネ
ソ連の客船「プリアムーリエ号」の火災事故だった。昭和63年(1988)5月18日午前1時20分ごろ、大阪港に寄港中のソビエト連邦(当時)の旅客船「プリアムーリエ号」(4870㌧)の客室から出火、乗客11人が死亡、35人が負傷した。午前2時過ぎに、大阪港湾岸に到着した筆者らは、真っ暗な港で茫然自失として燃え盛る旅客船を眺めているしかなかった。やがて、毛布に包まれたソ連の学生たちが次々に降りて来る。インタビューしなければならないが、ロシア語は全く話せない。本社や周辺支局からロシア語を話せるという記者がやって来た。前にも触れたが、大阪社会部には外国語大学出身者が少なからずいた。大阪外大にはロシア語学科もあり、何人かは卒業生だ。「期待される人間像」だった。しかし、、、ベテラン遊軍記者のM川さんは、ソ連船と聞きタクシーを本社に引き返したという噂がある。ある先輩記者は護岸まで来たが、ずっと無言で燃える船を見つめていた。「俺に構わんでくれ!」と名言を吐いたという。この年の春に卒業したばかりの女性記者は大津支局から駆け付けた。「消火器はなかったのか?」と質問をしてもらった。ソ連の男子学生は不思議な顔をしながら、自分のお腹を指して「ニエット」を繰り返した。信じられないことだが、どうやら彼女は「消火器」を「消化器」と訳したらしい。ホンマに今でも信じられないのだが。そんなこんなで、大阪港には100人以上の報道陣でごった返していた。
その少し前、本社社会部では「奇跡」が起きていた。午前1時20分の火災発生。概ね1時50分前後が朝刊最終版の締め切り時間だ。外国船炎上の一報が府警本部から入って来たのは午前2時を過ぎていた。当然、どこの新聞にもこの大事故の一報は入らないはずだった。ところが、読売新聞大阪本社14版には1面トップに記事が載った。なぜか? 府警本部で泊り勤務をしていた駿河志朗記者(当時捜査3,4課担当)が大阪府警通信指令室のネタ元から内線電話で知らされたのだ。多分、2時少し前。駿河記者はこれを「勧進帳」(前に書いたが、忘れた人のために。原稿用紙に書かずに空で原稿を読んで吹き込む作業)でたたき込んだ。記事は1面トップ5段抜き「ソ連船出火」「未明の大阪港」「乗客295人が乗船」。「18日午前1時53分、大阪港中央突堤W1岸壁で、停泊中のソ連の客船『プリアムリヨ号』(4870㌧)から火の手があがっていると119番。同船は17日入港した。大阪市消防局の消防艇2隻が出て消火にあたっている。同船には乗客295人と乗組員129人が乗船しており、ほとんどが船内にいる模様。乗客の中には、海に飛び込んだ者もいる」。130字ほどの原稿だが、翌日どこの朝刊にもない記事だ。駿河さんの瞬発力でねじ込んだ特ダネだ。もちろん部長賞が出た。船の名称を少し間違えているのはご愛敬だ。駿河さんはこの後、筆者にとって非常に重要な登場人物となる。とりあえず、今回は、「する兄」と呼ばれる、ちょっと無口だが興味深い人物だ、とだけ紹介する。
徹夜取材明け、今度は「銀行強盗」
大阪港中央突堤では夜が明け、日が高く昇って来た。そろそろ、眠たくなって来る昼前だった。またもや、現場の記者たちのポケベルが鳴り響いた。だが、今度はネソ担当の記者だけだった。18日午前11時15分ごろ、大阪市北区天神橋の大阪銀行天神橋支店にピストルのような物を持った男が押し入り、「日本赤軍だ。1000万円を詰めろ」と預金係を脅して紙袋に1000万円を詰めさせて逃げた。ネソ担当と一課担の一部が現場に急行。夕刊3版から記事をたたき込む。てんやわんやだ。夕刊はもちろん、1面トップはプリアムーリエの1報、肩の位置にこの銀行強盗、社会面もソ連船と銀行強盗で満載だ。当に、事件事故の大阪の面目躍如たる日だ。しかし、このままで済まないのが大阪の本当の「怖さ」だ。(つづく)
コメント