大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」36(社会部編12) 安富信

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ソ連船火災、銀行強盗、さらに梅田の繁華街ボヤ騒動

 プリアムーリエ号が大炎上し、ネソ管内の銀行に強盗が入った。全然寝ていない。ああ、しんど!と思いながら、曽根崎署に戻ったのが、昭和63年(1988)5月19日夕。少し、記者室で仮眠を取っていた。夜9時半すぎ、またもポケベルが鳴った。「もう嫌や!」と社会部に電話すると、「阪急三番街で火事や。現場に走れ!」。フラフラで地下街を抜けて三番街へ走った。北ブロック地下2階の中国料理店の調理場付近から火が出て天井を10㎡だけ焼いて間もなく消し止められた。10分ほどのボヤだ。しかし、地下街は怖い。店から屋上に通じている各店共通のダクト内に火が燃え移り、煙が地下1階、地上1階の通路、さらにその上の阪急梅田駅コンコースまで広がった。大阪市消防局から消防車、排煙車など23台が出動、11時15分ごろ煙がなくなるまで、梅田の地下街は大騒ぎになった。当時、地下街にはサラリーマンやOLら1万人以上がいたという。

梅田の地下街でのボヤ。1万人もの人に影響が出た

 記事は一面左肩、第二社会面トップに書き分けられ、大事件並みの扱いとなった。そう、これがネソ担当のもう一つの恐ろしさだ。普通の場所ではボヤ、ベタ記事にもならないが、日本有数の繁華街でボヤが起きると、大騒ぎになるのだ。それりゃあそうだ。1万人以上が「昨日の火事、私、近くにいたよ。大変やったわ」と翌朝にチョイと自慢げに勤務先で話すものだから。片手に新聞を持って。ニュースとはある意味そんなものだ。1年間のネソ担当でそんなニュースが何度かあった。
 そう言えば、まだ吉本新喜劇が梅田花月劇場にあった頃、昼間にボヤが発生した。曽根崎署から走って2分。「往生しまっせ!」のギャグで有名な人気漫才師が舞台の最中。彼らは落ち着き払って、「記者さんも駆けつけて来たようです。落ち着いて一旦、避難しましょう」と観客に呼びかけてくれた。騒ぎにはならなかった。

翌日、銀行強盗が民家に立てこもり

 流石にこれで済んだと思うでしょう。しかし、ネソ担当には神も仏も無い! 翌20日午前中は何事もなく推移した。しかし、夕刊の締め切りが過ぎ、昼寝の時間に入って1時間くらい経ったかな? またもポケベルが鳴った。今度は、銀行強盗に入った男が逃走中、お年寄りを人質に取って民家に立てこもったという。もう笑うしかない。ノロノロとタクシーを呼んで東淀川の現場に行った。
 状況はこうだ。20日午後2時50分ごろ、大阪市東淀川区淡路西、京都銀行淡路支店に包丁を持った男が押し入り、200万円を奪った。行員の追跡で男は札束をばらまいて逃げたが、途中通行中の女性に襲いかかるなどして2人にけがをさせたうえ、近くの無職のお年寄り男性(73)方に入り、お年寄りを人質に取って立てこもった。大阪府警捜査一課と東淀川署員ら130人が民家を包囲、、、、
 まあ、大事件だ。捜査一課事件で殺人はもちろん大事件だが、あと2つある。それは誘拐と立てこもり。この連載でも前に触れた昭和54年1月に起きた三菱銀行北畠支店立てこもり事件(梅川事件)は衝撃的だったし、もっと古い立てこもりの大事件は昭和47年2月に起きた連合赤軍による浅間山荘立てこもりがある。長引けばテレビ中継されることになる。今流に言えば、ヤバイ事件なのだ。必然的に新聞社も力が入り、府警記者クラブ(通称ボックス、長屋)が現場に出張ってくる。捜査一課長が臨場して、広報課員が現場で広報する。記者側も一課担はもちろん、府警キャップをはじめ、二課担、防犯担らほとんどのボックス員が臨場する。携帯電話のない時代、ハンディトーキーという大きな無線機を各自が持たされ、キャップの指示を受ける。

大事件連発4日目。銀行強盗の男が人質を取って民家に立てこもる

傘を求める記者に「そのまま濡れてください」とキャップ

 その日は天気が下り坂で、臨場して数時間経ち、日が暮れた頃から雨が落ちてきた。記者たちは、府警が張った現場境界線のすぐ近くで待機しながら、途中経過を原稿にして吹き込む。府警本部を出る時に傘を持たなかった記者も多い。当時の一課担の一番下のMさんが無線を通して言った。「傘がありません。Mは濡れています。傘を持ってきてください」。キャップはつれなく言った。「そのまま濡れてください」。無線機から漏れたこのやり取りに現場では、他社の記者たちから失笑が漏れた。発生から約6時間後の8時45分、スキを見て突入した捜査一課特殊班によって男は取り押さえられ、現行犯逮捕された。41歳の元セールスマンだった。18日未明に始まった市内回り地獄の4連ちゃん大事件も終わった。

「出自」で格付け 朝日記者のカースト制

 ネソ担は基本的には楽しい持ち場だ。他社の記者ともよく飲みに行く。東京から来た同年代の朝日の記者と仲良くなった。本人曰く、「自分は幹部候補だから、ちょっと大阪でも視察に行って来い、と言われて来たから仕事しなくていいんや」とうそぶく嫌な奴だった。しかし、おしゃべりで朝日の内情を漏らすものだから面白くて付き合った。お初天神通りの行きつけの焼き鳥屋でビールを飲んでいたら、彼はとんでも無いことを言い出した。「安富さん、知ってる? 朝日の記者はAからDのランク分けがあるのを」
 なんとなく、前から気になっていたことだ。よくできる記者で特ダネをいっぱい抜かれたのに、東京本社どころか大阪本社の勤務にもならない記者がいた。松江時代のS記者や吹田通信部のN記者らだ。それは、入社する時に決まるという。入社試験の出来か? と聞いたが、首を振る。なんと、“出自”だそうだ。政治家やその地方の実力者の子息はA、もちろん学歴もあるが、東京、京都、早慶などの有名大学出身で入社試験の成績の良いものがB、その次にC、Dと続くそうだ。入った時からこの”カースト制度”は続くという。
 翻って、わが読売新聞では、東京、大阪、西部(九州)3本社の別採用で、ほとんど人事交流はない。稀にあるが。大阪本社では一時期(昭和57年ごろ)に地方採用という制度で、地方記者(つまり地方支局しか回らない)を採用したが、数年後にはシステム自体が雲散霧消して、地方採用で部長以上になった記者もいた。それに比べると、日頃リベラルな主張を言うのと反比例した非情な制度だと感じた。この機会にと思い、知っている記者のランクを聞いた。本当に嫌な奴は筆者だった。

韓国人女性殺し、保険金がらみか?

 閑話休題。8月になって、少し落ち着いてきたと思ったら、曽根崎署管内で殺人事件が起きた。10日午後1時15分ごろ、梅田の新阪急ホテルで宿泊女性の遺体で発見された。首に浴衣の腰ひもが巻かれた窒息死だった。同宿していた男性が行方をくらましており、事情を知っているものとみている。と記事には書かれている。こういう場合は100%この男が犯人と相場が決まっているから、記事の扱いは小さい。朝刊第一社会面3段だった。すぐに解決するとみられ、捜査一課は捜査本部を設置しなかった。こういう場合は、所轄署が捜査の中心となる。ラッキーだ。刑事課長とは仲が良い。果たして、I刑事課長から、どうやら保険金絡みの殺人事件のようだ、との情報を得た。

曽根崎署管内で殺人事件発生。捜査一課担を目指す筆者は張り切ったが

 被害女性は韓国人で、日本にいる兄を訪ねてきたらしい。そう続報を書いて、兄の住所がある横浜市に捜査一課担当の先輩記者と2人で出張することになった。強烈に記憶に残っていることと、あやふやなことが混在する。34年前だもの。兄の自宅マンション近くの親戚のお宅に行き、殺された女性の顔写真を手に入れた際、ライバル朝日の一課担のT記者が取材に来た。玄関の内側で2人は声を潜めて隠れた。このT記者、父親が天声人語を書いていた朝日の有名な記者で、彼も慶応の野球部投手で鳴らした敏腕記者だったが、後にややこしいことに絡んで朝日を辞めた。

女性の兄に突撃取材、放水に追われる

 横浜市消防局に取材に行くと、なぜか、この兄のガソリンを使った放火容疑事件が話に出た。ここのところは実は筆者はよく覚えていない。それから直接、兄のマンションを訪ねた。直当たりしても得る物はない、と筆者は消極的だったが、先輩は果敢に攻めた。古いマンションの5階か6階だったかな? 一度訪ねた時、不在だったので、郵便受けの書類を漁ったら、生命保険会社からの保険金の加入通知が来ていたので、メモした。(不正行為だ)。再度行った時にブザーを鳴らしたら、反応があった。なんとなく嫌な予感がしたので、2人はカバンをマンションの廊下に置いた(多分、何かあればすぐに逃げられるようにと)。この判断が一世一代の大失敗だった。しばらくして、ドアの下から水がチョロチョロと出てきた。やばい!と思ったが、先輩は突進した。筆者は先輩の後ろに隠れるように前進した。果たして、彼とホースが現れて、2人はビショ濡れになった。仕方ないのでエレベーターで階下に逃げた。一階から見上げた時、2人のカバンが宙を舞っていた。幸いなことに筆者のカバンは隣のマンションの屋上に不時着したが、先輩のカバンは放物線を描いて地上に落ちた。ガシャッという変な音は今も思い出す。中に入っていたカメラの断末魔だった。2人はランドリーがあるサウナに行き、濡れた服を洗濯、乾かした。なんとも言えない先輩の顔だけを覚えている。事件は未解決になった。(つづく)

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