大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」4 安富信

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自転車で15キロ離れた火事現場へ

スクラップブックには残っていないが、最初の1か月で忘れられない出来事がある。支局内研修を終えて、「外」に出て数日後だったと記憶する。地方版の締め切りを終えて、いつものように先輩たちと支局近くのおでん屋で飲み食いしていた。ポケットベルが鳴ったので、すぐに支局に走った。例のI支局長が赤鬼のような顔で仁王立ちしていた。
「どこで、何をしていた!」。やばいっ、と思ったが、正直に言った。「おでん屋で酒を飲んでました」。「八雲村の絨毯工場で大火事だ。だが、もういい、酔っ払いは現場に行くな!」。
実は、恥ずかしい話だが、大学時代の最後のスキー旅行でスピード違反をして、車の免許は3か月間停止中だった。あきれた支局長はなんと、自転車を調達してくれた。新聞販売店で使っている大きくて重たい新聞配達用の自転車。白地に黒で「読売新聞〇〇販売店」としっかり書かれていた。この自転車で事件現場に行くものだから、車で駆け付ける他社の記者より随分と出遅れたが、現場の刑事さんたちには、「おっ、自転車か。御苦労さんやな」と顔と名前を覚えてもらった。
しかし、この日の現場は、松江市の隣の八雲村(現松江市)の絨毯製造工場だった。支局から15㎞はあった。それでも真っ暗な中、自転車で1時間以上もかかって現場に着いた。まだ赤々と燃えていたが、当然締め切りも過ぎていたし、写真はボツ。支局長は言った。「明日から支局内研修のやり直しだ」。飲酒が原因の失敗はこの後もかなりやったが、これが第1回目だ。奉公のやり直しだ。嗚呼!
山陰地方の長い梅雨が明けると、地方支局には高校野球の地方予選が大きなイベントとなる。夏の甲子園球場出場を目指しての高校球児の県予選を1回戦から詳報する。早朝から球場に行き、スコアブックを付け、写真を撮り、原稿を書く。当時の島根県予選の参加校は30数校だったと記憶する。1週間程度の予選の間、連日野球漬けだった。代表校が決まれば、支局の若手記者が甲子園までついて行き、同行取材をした。筆者も3年目から5年目まで5回連続春夏甲子園取材に行った。

出雲弁と閉鎖性に苦労、でもモテた

ところで、島根県という土地は、筆者にとってどんなところだったのか。1974年(昭和49年)に公開された松本清張原作の映画「砂の器」の印象が強かった。東北以外でズーズー弁を話す唯一の地方というくらいしか知識がなかった。実際、出雲弁と呼ばれる方言には苦労した。それこそ、砂の器の舞台となった奥出雲地方は、訛りが強く、お年寄りの話す言葉はちんぷんかんぷんだった。語尾の「ねー」が訛って「にやあ」と猫の鳴き声のように聞こえた。もっと苦労したのは閉鎖的な県民性。正確に言えば、出雲部といわれる松江市や出雲市周辺は閉鎖的で、石見部と呼ばれる浜田市や益田市周辺は漁師気質で開放的だったが。とにかくなかなか心を開いてくれない。
それでも、少しずつ覚えたての出雲弁を使うが、アクセントが関西弁なので、「あんた関西人かね」と敬遠された。しかし、自然豊かで、日本海の幸、宍道湖の七珍味は素晴らしく、穏やかな性格が多い出雲の県民性が次第に好きになっていった。それに、若い女性には、都会から来た新聞記者はモテた。夜の街では特に。

朝日支局長が酔ってけんか、ドカ雪の駅で転落……

仕事を覚える前に、お酒の飲み方をマスターしてしまった。それに、他社の記者とは、よく自分の会社の上司の悪口を言い合って飲んだものだ。40年近く経っても、その当時の記者仲間と東京や大阪で“同窓会”をするのだから、良き時代だったのだ。愚痴のほとんどが、デスクと呼ばれる支局の次席の逸話。陰で「机」と揶揄した。うちのデスクはまだ優しい方だったが、聞くと他社は酷かった。支局長で破天荒だったのは、ライバル朝日新聞のI 支局長。大阪社会部で名を馳せた記者だったらしいが、地方の小都市では目立ち過ぎる。飲み屋で他の客とけんかになって、お店のショーウィンドウに2人で突っ込んで、器物損壊で書類送検された。うちの支局長は、それを記事にしろ!と筆者は命じられて書いた。「朝日新聞松江支局長、酔ってご乱心」の2段記事が島根版に載った。それでもI支局長は更迭されなかった。
冬は特に辛かった。当時の松江は2、30㎝の積雪は普通だった。昼間に気温がマイナス9度まで下がり、宍道湖が凍ったこともあった。マイカー取材で冬季はスパイクタイヤを履いたが、慣れない若い記者たちはしょっちゅう事故を起こした。JR木次線にこの冬初めてのラッセル車が走ると聞いて、車で2時間、出雲坂根駅近くのスイッチバックをするところで、カメラを構えたが、積雪3m以上もあり、駅員さんに落ちないように気を付けてと言われていたにもかかわらず、ホーム脇に転落して雪に埋もれ、引っ張り上げてもらった。幸い、写真は上手く撮れて、社会面のトップを飾った。

1980年1月23日 読売新聞大阪本社朝刊社会面

事故死の子の「顔首」取り

それでも、1年目は全国版を飾るような大きな事件は少なかった。春が来て、新人さんが来ると筆者も頼りないながら先輩になった。ところが、歳を聞くと同級で誕生日は8か月ほど早かった。それでも、先輩は先輩だ。生意気にも新人さんを連れて、刑事さんたちに紹介すると、冷やかされた。まさに「少年探偵団」だった。
後輩を連れて、苦労するのは、新聞記者として苦しいことがあっても弱音を吐けないことだ。当時、最も嫌な仕事が顔写真取得(通称顔首取り)だった。事件や事故で亡くなった人の顔写真を現場近くの親戚宅や学校などで手に入れ、新聞に載せることだ。大抵、苦労する。なぜ、新聞記事に顔写真が要るのか? 正直言って今も答えられない。しかし、当時は、「この悲惨な事故を後世に伝えるために、ぜひ、必要なのです」(なんのこっちゃ!)と言っていた。特に、幼い子供の事故は胸が痛み、顔写真を取るのが苦しかった。そんな事故が、松江市の隣町の東出雲町で起きた。3歳の坊やが水路に落ちて死亡した。1年生を連れて現場に行くが、取れない。1日かかった。最後は亡くなった坊やの祖母に頼み込んで取った。後味が悪かった。

1980年5月9日 読売新聞大阪本社島根版

この5年後、羽田発のジャンボ機が御巣鷹山に墜落した空前絶後の大事故で、読売新聞は亡くなった500人以上の方々すべての顔写真を掲載したということで、確か、社長賞が出た。どうかしている。この数年後からは、顔写真掲載の意味がようやく問われ始め、その後しばらくは、新聞に被害者や犠牲者の顔写真の掲載は少なくなった。2001年6月の大阪教育大付属池田小学校無差別殺傷事件が起きるまでは。

2年目は県警キャップ、汚職事件に右往左往

「切った!張った」と言われる「強行犯」は捜査一課の扱いで、おおざっぱな性格的に好きだった。苦手なのは、知能犯と呼ばれる捜査二課の事件、特に、贈収賄事件は性に合わなかった。隠語で「サンズイ事件」と呼ばれるのもだが(汚職の汚の漢字の偏で)。しかし、2年目から県警本部キャップを務めた身としては、逃げるわけにはいかない。2年目の春にいきなり、松江市役所の係長が収賄事件で逮捕・起訴されたが、端緒もつかめなった。それから、半年後だったか、時期は忘れたが、中海干拓汚職事件があった。これは、ある刑事部の偉いさんが、「捜査二課でサンズイ事件やってるよ」と教えてくれた。年下の後輩たちと必死に裏取りに走ったが、全くつかめない。夜の9時を過ぎて、ぐったりした身で、事件に強い先輩記者Kさん宅に泣きつきに行ったら、なんと、捜査二課長と一緒に酒を飲んでいた。捜査二課長は笑って何も教えてくれなかった。その2時間後、県警本部で贈収賄事件検挙の発表があった。
因みに、K先輩は事件の概要を把握していたというが、筆者らの成長のために、記事を書かなかった、という。恐ろしい人だ。(つづく)

やすとみ・まこと
神戸学院大現代社会学部社会防災学科教授 
社団法人・日本避難所支援機構代表理事
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