乳首山を望む田んぼ
福島県二本松市の西にそびえる安達太良山(1700メートル)の中腹には、5月末というのに雪の斑点が残っている。午前10時過ぎには雲が切れ、乳首のようにとがった山頂が姿をあらわした。智恵子抄で有名な山だが、
「昔は安達太良山なんて名前で呼んだことなかった」と、この地で有機農業を営む大内信一さん(1941年生まれ)。地元では「乳首山」と呼ばれているそうだ。
大内さんは借地も含めて水田2町(2ヘクタール)、麦や野菜3町3畝(3.3ヘクタール)をつくっている。
水を張った田を無数のアメンボがスイーッスイーッと滑る。有機農法の田は初夏の命のうごめきを感じさせてくれる。
2021年5月24日、この田んぼで田植えを体験させてもらった。
苗がびっしり植えられた長方形の育苗箱(長さ58センチ×幅28センチ)を畔にならべ、息子の督(おさむ)さん(1973年生まれ)が操る田植え機が1往復するごとに4枚ずつ積み込む。田植機はガチャコン、ガチャコンと4条ずつ苗を植えつける。2町の田植えに丸2日かかる。田植機を1974年に導入する前は家族総出で10日かかったという。私は1年前、3時間だけ手植えを体験したが、翌日は筋肉痛になった。
「田んぼで牛馬を使ってたのは私らの世代まで。それからトラクターが入った。でも田植え前の作業が大変で、その後の(手植えの)田植えが疲れとりだったな」と信一さん。3時間で腰が痛む作業が「疲れ取り」とは……。疲れが取れない作業はどれだけきつかったのだろう。
雑草とのたたかい
見なれた田植えと何かがちがうことに気づいた。
ふつう田植え時の水は、田の土の一部が水面から顔を出すひたひた状態にして、田植機を走らせる位置を示すしるしを泥の上につけるが、大内さんの田は深さ数センチの水が張ってある。深水は雑草対策という。
「有機農業の勉強会でも、話題の中心は稲の雑草です。みんな試行錯誤しています」と督さん。
これまでもさまざまな方法を試してきた。
アイガモ農法は、田の周囲にネットや電気柵を設けるが、アイガモの動きが悪くて除草効果が少ない年はかえって作業負担が重くなった。水田の生物がすべて食い尽くされるのも気になった。最後は、ひと晩ですべてのアイガモをキツネに殺されて断念した。
米ぬかによる除草は、田植え直後に散布し、地面を遮光するとともに、米ぬかが腐敗して土壌表面が酸欠状態になり、雑草を抑えるという原理だが、酸素不足を好む雑草のコナギが勢いを増してしまった。紙マルチやチェーン除草なども試みてきた。
今の方法は5年前に督さんが導入した。
田植え前に水を入れて土を砕いてかきならす「代かき」は通常2回だが、3回に増やして芽吹いた雑草を切り刻む。肥料が多いと雑草がはびこるから田植え前に肥料を入れるのをやめた。さらに「深水」を組み合わせることで雑草の生育を抑えている。深水だから、田植機を使った作業に通常の倍の時間がかかるという。
「今のところ息子のはじめた方法が一番です」と信一さんは評価する。それを督さんに伝えると
「そんなこと、おやじは僕には言ってくれません」
督さんによると、この方法をはじめた当初、信一さんはよい顔をしなかった。督さんが目を離すと肥料を入れることもあった。
「おやじが肥料を入れてしまうから、今のやり方をはじめて実質3年かな。代かきも、僕はざっとやって手を抜くから、おやじにしたら見てられんかったんだと思います」
有機農業の仲間が「もう息子の代なんだからまかせな」と説得してくれたという。
有機農業への切り替え
信一さんは中学を卒業してすぐ農業の道に入った。
当時は米と麦、大豆、養蚕が中心で、なすやきゅうり、かぼちゃ、人参、大根、白菜といった野菜は自給用だった。
青年団運動を通して三重県に本部がある全国愛農会と出会い、各種の研修会に参加した。
愛農会は、京大農学部を出て和歌山青年師範学校で農学を教えていた小谷純一(1910~2004)が戦後退職して農業をはじめ、若い農業後継者たちと農村の改善運動をすすめるために結成した。戦争で働き手を駆り出されて田畑は荒れ、食糧不足が深刻だった。農家は増産技術を求めていた。運動は全国に広がり、すぐれた農業者を講師にむかえ、食料増産の講習会を各地で開いた。一時は会員数が10万人を超えた。1963年には、日本で唯一の私立農業高校である愛農学園高等学校を三重県伊賀市に創設した。
愛農会で学んだ大内さんは多角経営で所得を増やすため、養鶏と野菜の販売をはじめる。重労働から解放されるために、稲の除草剤なども使いはじめた。
1954年の日米MSA協定(相互安全保障協定)の調印以後、米国で余っていた麦や大豆が、食糧難だった日本になだれ込んだ。それによってパン食の学校給食が一気に広まった。小麦と大豆の輸入増によって畑作が衰退し、水田への転換が進んだ。だが1970年には減反政策がはじまり、無理して開田した条件の悪い水田は畑にもどすことになった。
多収をねらって農薬散布の回数が増えた1970年代、農薬の害や有機栽培の話題を耳にするようになる。1971年には日本有機農業研究会が結成された。
その年、愛農高校では「農薬の害と有機農業の重要性」という講演会が開かれた。講師をつとめた医師は、農家の人たちに胃病や肝臓病が急増している原因は農薬や化学肥料にあると警告した。それまで愛農高校では、農薬と化学肥料を使用し、農業で高収益をあげる教育に重点を置いていた。講演会後、小谷校長は生徒と教職員を集め、「自分のやり方はまちがっていた。これからは無農薬でいきます」と宣言した。
福島県内でも愛農会の会員が中心になって有機農業を学びはじめた。
ある夏の日、信一さんは妻の美知子さんと田んぼで汗だくになってイモチ病防除の農薬を散布していた。そのときふと思った。
「今までは農薬の害は消費者のことと思っていたが、農民自身の健康の問題ではないか」
折しも美知子さんは妊娠していた。農薬散布の苦しさを通して、生まれてくる子たちへの影響を他人事ではないと実感した。以来、全面的に有機農業に切り替えた。
養蚕のカイコは農薬のついた桑は食べてくれないから、以前から農薬を減らしたいとは思っていた。だから有機農業に踏み切りやすかったという。
1978年には17人で二本松有機農業研究会を設立。農民と消費者の健康と、土と自然環境を守る農業をめざして、消費者グループや生協と提携し、顔の見える関係をつくってきた。
福岡正信さんの「穂まき」
野菜はうまく育たなければもう一度種を播くことができる。失敗してもその年のうちにやり直せる。稲はそうはいかない。田植え時の1回勝負だ。この地で田を耕して17代目という信一さんは毎年のように育て方を試行錯誤する。「まだ50回しか(米作りを)やってない」と口ぐせのように督さんに語るという。
「50回しか」と聞いて、愛媛県伊予市の自然農法家、福岡正信さん(1913~2008)を思い出した。
僕は1992年から94年と、2002年から05年に愛媛県で新聞記者をしていた。
とくに1993年前後は福岡さんの山や農園をたびたび訪れた。
田を耕さず、肥料を入れず、除草もしない。稲を刈りとる前に麦の種をまき、麦を刈りとる前に種もみをまく「不耕起直播」の米麦連続栽培を実践していた。種もみをまく時は大きく育った麦があるから雑草がはびこったり、鳥に食われたりしないのだ。
周囲の一般栽培の稲は1穂あたり80粒程度だが、福岡さんの稲は1穂に200から300粒も実る。根っこを引き抜いて比べると、福岡さんの稲の根は隣の田の稲の3倍以上に広がり、細かい根毛がびっしり生えていた。
1993年の夏は長雨がつづき、気象庁が梅雨明け宣言を8月下旬になって取り消すほどの大冷害だった。全国の作況指数は「著しい不良」の水準90を大きく下回る74だった。タイ米が輸入され「平成の米騒動」と騒がれた。愛媛県でも作況指数は87だったが、福岡さんの田は平年と変わらなかった。
「水や肥料のやりすぎで、関東以西の水田では、8月半ばにはほとんどの根が腐っている。根が腐るから虫や病気にやられる。水を適切に管理し、健全な根が張っていれば、大部分の被害は防げます」と福岡さんは断言した。
2004年に久しぶりに訪問した。90歳をすぎて足が不自由だが、数百メートル離れた田んぼまで30分かけて這って通っていた。
しばらく雑談したあと、福岡さんはぼくの目を見て、
「あなたの宗教はなに?」と尋ねた。
「文化的には仏教なんだけど、はっきりわかりません」と答えると、急に厳しい表情になり、
「そしたらね、このくらいで話を打ち切りましょ。誤解されます。あれほどつきあっとってね、自分の思想が何かということをわかりません、なんていう人には話すのはいやです。帰ってください」と言った。
科学者は物を分解していけば生命の根源がわかると信じて陽子や電子を発見した。遺伝子も解析した。だがミクロを究めても「生命」は見えてこない。むしろ、遺伝子操作や核エネルギーなど、自然を崩壊させる方向に向かった。
農業技術者は収穫を増やそうと肥料を開発し、作物を病気から防ぐために農薬をつくった。だが、肥料によって一時的に生産が増えても、長期的には地力が衰え、さらに多量の肥料や農薬が必要になる。「何もしない」福岡さんの自然農法の収量を大きく上回れないどころか、一定面積に投入するエネルギーが、収穫がもたらすエネルギーを上回るようになった。その結果が、アメリカなどの砂漠化だと福岡さんは説いた。
福岡さんは、人間が汚す前の、神が創造した豊かな大地をつくり、果樹や野菜の「自然型」をとりもどせば、エデンの園のような世界が実現できるはずだ、と考えていた。だから科学よりも宗教を大切にした。
しばらくして機嫌が直ると、実験中の「新しい米作り」について語りはじめた。
野生の稲は田植えどころか種をまくこともない。穂をそのまま地面に落とすだけだ。その姿から着想し、1平方メートルにひとつずつ稲穂を田にばらまく「穂まき」を試みているという。
「この農法だと、素人でもプロの農家以上の収穫をあげられる。自然農法を70年やってきて、ようやく結論が見えてきました」
その後、私は転勤で愛媛を離れたから、穂まきの結果を確かめることはできなかった。
福岡さんは2007年末に入院するまで田を這いまわっていた。2008年8月6日、往診の医師に「もう何もせんでいい」と点滴をやめるよう伝え、14日、「わしは今日死ぬる」と家族に告げ、16日朝、すりおろした桃を3口すすってまもなく亡くなった。
大内さんや福岡さんの話を聞いていると、現代の科学には神の摂理である「農」を解明できるはずがないのだと思わせられる。
うどんも納豆も畑から
昼食の食卓にならんだサラダのスナップエンドウはシャリッとかむと甘みがほとばしる。自家製大豆でつくった納豆も豆の味が濃い。
冷やしうどんも、畑の小麦でつくったという。
かつてはどの家も小麦や大豆をつくっていた。合併前の旧村ごとに小麦粉を粉にしてうどんなどに加工する業者があった。
「添加物なしのうどんは当たり前。天気が悪くて湿気があると酸っぱいうどんになるけど、だれも気にしなかったねえ」と美知子さん。大内家は約6反(60アール)で小麦を栽培しているが、周囲には小麦をつくる農家はほとんど残っていないという。
原発事故後に放射能を計測して安全を確認しながら増産した人参ジュースは、すりおろした実がそのまま入っている。加えたのは酸化防止剤がわりのレモン果汁と梅エキスだけ。砂糖が入っているわけではないのに果物のように甘かった。
厳しい気候が育む豊かな食文化
2020年5月には、阿武隈山中の旧東和町の山あいにある菅野正寿さん(1958年生まれ)の田で手植えを体験させてもらった。カエルが合唱する深水の田で、泥にはまって一歩踏み出すのも苦労した。
菅野さんが営む農家民宿「遊雲の里」の夕食は、畑でとれた野菜がずらりとならぶ。「道の駅ふくしま東和」は、大豆、青豆、黒豆、ささげ豆、白豆、小豆など豆の博覧会のようだった。
阿武隈山地は昔からたび重なる冷害に襲われた。天明大飢饉などの教訓から、特産物(養蚕、葉煙草)や酪農、綿羊を振興し、小麦、大豆、ジャガイモ、粟、きび、エゴマなど多様な雑穀も栽培した。とくにジャガイモは阿武隈地方では「かんぷら」と呼び、冷害に備えてどの農家もつくってきた。厳しい環境だからこそ多様な作物を栽培し、豊かな食文化が育まれたという。
小さなジャガイモの「みそかんぷら」
市場に出せない小さなジャガイモ(都市部でも八百屋で時折格安で販売している)を使う菅野さんのレシピを真似てみた。
▽材料
・直径3センチ以下のジャガイモ 10個程度
・みそ 大さじ2
・砂糖 大さじ1
・みりん 大さじ1
▽作り方
①みそと砂糖とみりんを混ぜておく。
②ミニジャガイモをよく洗って皮のまま水からゆで、沸騰して2,3分で火が通ったら火を止めて、水を切る。
③多めの油で炒めたあと、①にからめたらできあがり。【つづく】
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