大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」31(社会部編7) 安富信

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デパート、月給2カ月分の女性用スーツが爆売れ

社会部長の命令で上海列車事故の「特派員」は「前特派員」として上海市内の街回りに変わった。事故から1か月半後の5月上旬にスタートする夕刊国際面で、メインとなる連載だ。タイトルは「いきいき上海」。太田一水・上海列車事故取材班キャップは言った。「君は今、ネソ回りだから、街ネタを取るのに慣れているだろ?ぼくはもう何年か前のことだから忘れた。君が主体的にやれ」。なんだかな? と思ったが、とにかく街に出た。
 ネソ回りでも、街ネタと言えば、まずはデパートだ。早速、奥村宗洋・カメラマンと連れ立って、「上海華聯商夏」(旧上海第十百貨店)へ向かった。そこで見たものは、古今東西、若い女性が注目するファッションだ。赤、ピンク、青などの原色を基調にした最新ファッションをまとったマネキン4体の頭上に、「人はだれでも美しいものを着たがる」という意味の文字が躍っていた。西ドイツ(当時)製の女性用のスーツが200元(約7,000円)で飛ぶように売れていた。平均月給が100元ちょっとと言うが。上海支局の助手さんに通訳してもらってインタビューした。「そうねえ、安くも高くもないわ。給料は100元だけど、ボーナスが毎月80元出るから、2か月貯めると買えるわ」と24歳の女性。27歳の女性は「高いものは目で楽しんで、安いものを買うのよ」とも。高度経済成長の道を歩み始めたばかりの中国第2の都市の面目躍如といったところか。とにかく、楽しい取材だった。昭和63年(1988)5月9日の夕刊に連載1回目が載った。「安富信・前特派員」の署名で。

  列車事故で取材に行った特派員が「いきいき上海」の連載を書いた

公衆電話3台の上海にポケベル、でも「緊急時は手紙」

2回目は、「三種の神器」。日本では昭和40年代の初めに流行った3C時代「カー、クーラー、カラーテレビ」に対して、上海では「冷蔵庫、カラーテレビ、オートバイ」だった。特に、自転車天国だった中国が変わりつつあり、3000元もするオートバイが、第一百貨店では、毎月200台以上も売れるという。女の子を後ろに乗せ、一休みしていた20歳の男性は言った。「ぶっ飛ばすと気持ちいいよ。高いって? 親父に買ってもらったよ」。三種の神器は飛ぶように売れていた。助手さんは嘆いた。「かつて中国人の美徳は質素だった。それが忘れられている。心配ですね」。どこの国にでも冷静に将来を危ぶむ人がいる。次は学校にでも取材に行くか?
そう考えていた時、エレベーターの中で突然、ポケットベルが鳴り響いた。ピピッピピッピピッ~ 最も嫌いな音だ。なんで、上海で鳴るんだ。いや、筆者の物ではない。さすがに持ち歩いていない。一緒に乗っていた若い男性のポケベルが鳴ったのだ。しかし、ベルが鳴っても、上海ではまだ公衆電話が普及していなかったので、ほとんど返事の電話が架けられないという。太田キャップが叫んだ。「面白い、これや!上海でもポケベルが鳴った」だ。3回目が決まった。さすがに太田キャップが書いた。さすが、大阪読売社会部だ。
上海にポケベルが現れたのはこの数年前。ディスコの登場とほぼ同時期で、外資系企業のビジネスマンの間で「これは便利だ」と流行ったが、鳴らしてもほとんど返事がない。上海には当時、公衆電話はたった3台しかなかった。だから、非実務的だった。ステータス・シンボルとして持ち歩いている人が多いという。ホテルのフロント係が言った。「上海では緊急な用事を伝える時は、手紙が一番っていうわ。手紙ならイライラして待たなくても、確実に相手に届けてくれるから」。なんとものんびりした時代だった。

同上

ハイリャン!で乾杯 阪神支局の「社内スパイ」を聴く

 そうやって連日、街を歩いたが、もちろん、夜は飲みに出た。上海の中華料理店は日本人向けにマイルドな味が多く、お酒は紹興酒や古酒が美味かった。奥村カメラマンは強かった。しばらくしてどこで覚えてきたのか「ハイリャン」(海量)という言葉を使い始めた。大酒飲みのことだ。それから、我々は飲むたびに、乾杯するたびに、「ハイリャン!」と叫んだ。太田キャップと筆者は比較的やせ型だったが、奥村カメラマンは、6つ先輩で堂々とした体格、押し出しも強く、声も良く通る。東京生まれだが、初任地の広島が気に入って、定年退職後、広島に移住した変わり者だ。上海取材をきっかけに仲良くさせてもらい、その後も何度か飲みに連れて行ってもらった。最近でも広島出張の際はご一緒する。
旅先の取材はお互いを近くする。太田キャップがここでも、グリコ森永事件の取材の苦労話を聞かせてくれた。彼は、初任地は奈良支局だったが、2場所目は神戸、その次に社会部に上がり、阪神支局に配属された。後述するが、阪神支局というのは、尼崎、西宮、芦屋、宝塚などの兵庫県の東部の地区を担当するのだが、なぜか各社とも社会部管内だ。大阪府内に匹敵する大事件が頻発するからだろう。朝日新聞阪神支局襲撃事件や江崎グリコ社長誘拐事件だけでなく、兵庫県警警察官の不祥事や尼崎市の議員カラ出張問題など、全国版記事を賑やかすことが多い。太田キャップは、グリコ森永事件の真っただ中に神戸から阪神支局に異動になった。当時のY本次席(この人も後に社会部長になり、筆者の不倶戴天の敵となる)から、神戸支局の記者がどんな取材をしているか、どんなネタを持っているか、探るように言われたという。つまり、社内でスパイをしろ!ということだ。つまり、兵庫県警担当記者が西宮署の幹部や刑事たちに夜回りに来て聞いた情報をとって来いということだ。あの人ならそれぐらいのこと言うだろうな。ちなみに、太田キャップは大阪外国語大学モンゴル語科卒業。中国のお隣の国の言葉を勉強したから、上海特派員に選ばれたのかな? まさか! これも後述するが、大阪読売には外大出身者がなぜか多く、様々な伝説を残すことになる。阪神支局は「社会部の梁山泊」と言われる良き時代もあった。筆者も後に赴任するが、その時の為政者である社会部長や支局長、次席の人柄でガラッと変わる支局でもある。

余った30万円はへそくりに すぐばれて嫁さんに10万円の贈り物

話は上海に戻るが、そんなこんなで1週間くらいはいたかな? 上海の交通事情が相当に悪いとか、表向きの自由化が進んで、外国映画を若いカップルが楽しんでいることや、教育ママの登場によってひとりっ子政策で育てられる子供たちが大変だ!などと書き、「万元戸」という商売で一獲千金を狙う若い世代がいるとか、何とか7回を書き上げて、ようやく4月末に帰国が許された。やっと暇が出来たので、華東師範大学の馬梅助教授に電話したが、彼女はもう大学にいなかった。あっ、帰る間際に落とし前をつけておかなければならないことがあった。入国する時に取られた30万円のビザ代だ。支局長らに聞いても、ぼられ過ぎだというので、居場所を調べてもらい、空港で待ち合わせた。明らかに相手はビビっていたので、少し大きな声を出して交渉した。20万円返してもらった。
50万円を掴み金で飛んだ上海列車事故取材だったが、上海の物価がめちゃくちゃ安く、1週間余りの滞在で20万円も使わず、30万円も余った。(東京の奴ら、いくら余ったんや!)。編集庶務という会社の経理にその旨を正直に報告すると、担当者は邪魔くさそうに言った。「返してもらってもややこしいから、何か領収書でも付けてください」。今なら信じられない会話だろう。景気が良かったのだ。仕方ない? ので、通訳代としてサインをもらっていた助手さんの領収書を出した。30万円の余剰金は結婚して初めて出来た嫁さんに内緒のお金、へそくりだ。早速、曽根崎署の隣にあった銀行で口座を作った。「家には連絡しないでね」と付け加えて。果たして、真面目な銀行員は家に電話した。嫁さんに10万円くらいのプレゼントをしたような覚えがある。
帰国して、わかったことだが、曽根崎署に大変な“珍客”が来ていた。上海列車事故に便乗した大阪府警の卑怯な発表が、列車事故の2日目に断行されていた。つまり、筆者らが上海に飛んだ翌日のことだ。(つづく

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