大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」91 編集委員編② 安富信

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 2007年7月16日。月曜日で海の日、祝日だった。午前10時13分、新潟県中越沖地震が起きた。大きな地震が発生した日はどれもよく覚えているのだが、この時の記憶はあまりない。ただ、祝日の朝、ジョギングをしていたような。当時住んでいた兵庫県三田市でも僅かに揺れたように覚えている。早速、被災地に取材に行く準備を始めた。

大きな被害を受けた新潟県柏崎市内
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中越沖地震、火災で原発停止

 3年前に起きた中越地震と震源地は少し西に寄っていたが、同じ新潟県西部地区での大地震だ。中越地震を機に知り合いになった被災地中間支援組織「中越復興市民会議」を立ち上げ、事務局長だった稲垣文彦さんに連絡を取り、取材に行くことにした。
 マグニチュード6.8。新潟県柏崎市、長岡市、刈羽村、長野県飯網町で最大震度6強。死者15人、負傷者1346人、住宅全壊1331棟、半壊5710棟の大地震だった。特に、柏崎・刈羽原子力発電所内で火災が起き、運転を停止したことが記憶に残る。

新潟県中越沖で発生した地震の震度分布

初ボランティアの長男「お父さん仕事してるんや」

 この時は、私事のエピソードがある。我が家の話で恐縮だが、新潟県中越沖地震を語る上で、避けられない話だ。当時、我が家の長男が高校に入ったばかりだったが、何故か中学まで続けていたサッカー部に入らずに、ぶらぶらしていた。妻が言った。「地震の被災地に取材に行くなら、この子を連れて行って、ボランティアをさせて」。なるほど、もうすぐ夏休みだ。良い考えかもしれない。長男に聞くと、「行っても良い」という。稲垣さんに事情を話すとあっさりと「良いですよ。ぼくたちが面倒見ます」受け入れてくれた。
7月末、長男を連れて中越沖の被災地に入った。JR長岡駅前のビジネスホテルに1週間ほど予約を取って、筆者は2泊3日ほど長岡・柏崎市などを取材して周り、長男を稲垣さんに託して帰阪した。結局、長男は1週間の予定より3日ほど延長して帰って来た。仮設住宅などでのボランティア活動が楽しかったようで、少し大人になったように見えた。ありがたいことだ。筆者には直接言わないが、妻には、「お父さん、ちゃんと仕事しているんや」などと言ったそうだ。
 後に中越に何度か取材に訪れたが、聞けば、長男を直接面倒を見てくれたのは、稲垣さんのチームでボランティアをしていた現大阪大学大学院人間科学研究科准教授の宮本匠さんだ。今でも宮本さんに会うたび、「長男さん、元気ですか?」と聞かれて、「就職して結婚した」と伝えたら、懐かしそうな顔をしてくれる。

柏崎で学んだ商店街再興の道筋

えんま通り商店街

 編集委員の仕事として、新潟の2つの震災で学んだことは、中越地震では中山間地での復興の在り方で、中越沖地震では、中心商店街の再興、復興への道筋だった。後者は、当時新潟工科大学工学部建築学科准教授で現在、徳島大学大学院社会産業理工学研究部教授の田口太郎さんに付き合って取材、記事を書いた。地震で大きな被害を受けた柏崎市の「えんま通り商店街」の復旧。復興に取り組む研究だった。読売新聞の解説面でこの取り組みを掲載した。やはり、現場を訪れて学ぶことは多かった。田口さんに出会わせてくれたのが、当時、長岡造形大学造形学部准教授で現兵庫県立大学大学院減災復興政策研究科准教授の澤田優浩さんだ。この人も人と防災未来センターの関係者で、ここでも人防の人脈が取材に役立ったのである。

中越沖地震の教訓をまとめた記録誌
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