〈『キャメラを持った男たち』にでてくる映画のこと〉③震災フィルムのこと 井上実

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 『キャメラを持った男たち』の公開のさなか、「自分のところにも関東大震災の記録フィルムがある」と問い合わせがありました。川崎市の方で、時期も経緯も不明ですがとにかく昔から自宅にあったそうです。フィルム缶に記載があり、震災の記録映画だということは知っていたのですが映写機があるわけでなく、フィルムをばらして確かめることもできなかったのでそのままにしていたそうです。

 後日そのフィルムが送られてきました。35㎜の可燃性プリントでした。大正期の映画フィルムのほとんどは可燃性で、取扱いに注意を要するものです。

 映写機にかけると投光の熱に晒されることから、ワインダーでゆっくりフィルムを転がして確かめることにしました。

●可燃性フィルムについて

chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://kirokueiga-hozon.jp/images/hozon/pdf/nitratefilm.pdf

発見された『東京の大震災大火災』の35㎜ポジフィルム。赤っぽいのは染色技術によるもので、染色フィルムは当時の流行だった
岩岡巽

 タイトルには『東京の大震災大火災 岩岡商會撮影』とあります。はじめて見た題名でした。内容は震災キャメラマン、岩岡巽が撮影されたとされる他の映画とほぼ同じもの。ただプリントの保存状態が素晴らしく、高細度な映像で、火勢や煙の流れ、街や人々の様子などが驚くほど鮮明に写されています。記録内容に新たな発見がなくても、細密な映像情報という点で、このプリントもまた関東大震災を知る上で貴重な価値をもつものといえます。

 関東大震災の記録フィルムでは、この岩岡による撮影をベースにした版が多く発見されています。岩岡商會は映像素材会社として高い評価を受けていました。今ならAFPとかロイターとかアルジャジーラのような映像ニュース会社と言えます。関東大震災の〈活動写真〉は速報性だけでなく、センセーショナルさゆえの需要もありました。大正期はまだ配給会社による大規模な映画興行が確立されていない時代です。おそらく映画館ごとにバイヤーがいて、岩岡商會でプリントを買い、おのおの冒頭にタイトルをつけて上映するという自主配給・自主上映がおこなわれていたと思います。多くの〈岩岡版〉がみつかっている背景にはそのような経緯が考えられるのです。

この3枚の写真は様々な岩岡の撮影した映像を元につくられた作品タイトル

 関東大震災の記録フィルムは最初は映画館で、映写機が普及するにしたがって地域単位での自主的な上映の場で活用されていきます。フィルムが地方のお寺や神社といった人々が集まりやすいスペースを持つ施設から発見されるケースが多いのはその証といえます。

●関東大震災映像デジタルアーカイブサイト

https://kantodaishinsai.filmarchives.jp/

〈動画をみる〉→〈全編をみる〉→〈作品詳細〉へと進むと作品によっては発見までの経緯を確かめることができる

その他にも国立映画アーカイブが保存する震災フィルムの全体像を掴むことができるので興味がある方は訪ねてみてください

 大地の烈震が街をあっというまに崩壊させた凄まじさ。その後の火災の恐ろしさと焦土の地平線ありのままに写す映像の力は観る人の肺腑を揺さぶるものだったでしょう。被害をなすすべもなく見つめる人々や一方で復興へと向かう者たちの強いまなざしといった、人間の弱さや強さを伝えるものとして観た方々もいるでしょう。震災後も毎年9月1日に上映されたことが伝わっている記録もあります。上映する側も、観る側も、このフィルムの価値を認め合って、大切にしてきたことを感じさせてくれます。

 こう見ると震災フィルムの上映は、かつて心ある人々たちの手で盛んにおこなわれていたドキュメンタリー映画の自主上映運動とよく似た軌跡を持っていることがわかってきます。震災フィルムの上映を嚆矢として記録映画の重要性とその力が共有され、後のドキュメンタリー映画の上映形態に繋がっていったのです。

 フィルムアーキビストのとちぎあきらさんによると、大正期の映画フィルムの中でも、震災フィルムだけはとびぬけて多く発掘されているとのことです。溝口健二ほどの名匠であっても作品は残っていません(もっとも溝口が大家となるのは昭和に入ってからで、大正期は数多の監督のひとりでした)。これには可燃性フィルムという保存に向かない物質の宿命もあるかと思いますが震災フィルムもまた可燃性です。当時の劇映画はあくまで人々の娯楽のためにつくられるもので、残そうという意識はなかったと思われます。震災フィルムはその点、消費されるものではなかった。災害を忘れないために、後世の人達の手から手へと受け継がれた文化遺産だった。だから100年を経ても残っているのだと私は思っています。

 『東京の大震災大火災』のように、今もどこかに発見されることを待ちながら暗がりの中で眠っている震災フィルムがあると思います。『キャメラを持った男たち』の公開がその目ざめの契機になったとすれば、演出者としてこの上ない喜びです。

この2枚は2023年15回DMZ国際ドキュメンタリー映画祭(韓国・ゴヤン市)

 『キャメラを持った男たち』の公開に関連しては、思いがけない話題がありました。

 今年9月に韓国のDMZ(南北非武装地帯)国際ドキュメンタリー映画祭が開催され、招待作品として上映してくださったのですが、そのあとドキュメンタリー映画監督のアン・ヘリョンさん(元慰安婦、宋 神道の闘いを記録した『オレの心は負けてない』、セウォル号沈没の真相を記録した『ダイビング・ベル』の監督)から、関東大震災の記録フィルムが震災直後朝鮮半島でも公開されていたことを教わりました。アン監督は日本における朝鮮人問題にも大変詳しい方ですが、映画の公開に際して、韓国の公文書や新聞資料にあたって震災フィルムの朝鮮半島における上映のことを調べてくださったのです。

 調べによると9月8日に半島にフィルムが届き、10日にはソウルで上映されたとのこと。

震災フィルムが最短で公開されたのが、〈日活版〉と呼ばれる高坂利光撮影によるもの。9月7日に京都で現像し、その夕に新京極で封切りされています。日活という大手の映画会社の版ですので新京極上映分以外にも複数のプリントを作成していたのでしょう。それにしても京都での現像の翌日には朝鮮半島に届き、検閲も異例の早さでおこなわれなければ10日の公開には至らないわけで、関東大震災が、いかに朝鮮併合下の中とは言え国際的な関心を集めた大惨事だったことがわかります。

アン・ヘリョン監督(右端。左から2人目は『送還日記』のキム・ドォンウォン監督。DMZ国際ドキュメンタリー映画祭スタッフと共に)
この3枚は『関東大震災實況』(日活版)

 当時の新聞記事によると、帝都東京の壊滅ぶりを観た朝鮮の人々はみな一様に衝撃を受けたそうです。アジアにおいて、大日本帝国は欧米と肩を並べるほどの強国でした。憧れと目標となる国、それが日本でした。その首都が機能不全になるほどの惨状にある。これは支援せねばと気運が高まりを見せたと同時期に、同胞に対する理不尽で酷い暴力がかの国でおこなわれているというニュースが届きはじめるのです。

 アン監督は来日の際に震災フィルムの上映に関する史料を持参してくださるそうです。『キャメラを持った男たち』をつくることで、震災フィルムがどう観られたかについてのあらたな視点を発見することができました。これもまた、フィルムの発見と並ぶほどの歴史的、社会的価値を持っていると思っています。

〇いのうえ みのる『キャメラを持った男たち-関東大震災を撮る-』演出

●『キャメラを持った男たち-関東大震災を撮る-』公式サイト

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