大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」54(見習いデスク編2) 安富信

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夜な夜な歌って鬱憤晴らし

 中森明菜、松田聖子に米米CLUB、ドリカム、、、
 夜な夜な歌って鬱憤を晴らした。木屋町三条を下がった地下1階のカラオケスナックで。マスターは確か「橋本さん」だった。いつも一緒になる夜勤明けの看護婦さん2人と「DESIRE」を踊りながら歌った。カヨちゃんが「学園天国」を歌って盛り上がり、亘、脇、M原君トリオのキャンディーズが受けた。ホンマに毎夜だった。みんな、ありがとう!50歳代後半になってるよね。ほとんどが大阪読売の幹部で残っておられるので、イニシャル、若しくは愛称で、卒業された方は実名で、すみません。

上段=新しく建て替わった京都総局 先斗町界隈 木屋町三条界隈 
下段=少し下がった店に毎夜通った 先斗町入り口近くにあったお好み焼き屋さん

マイホーム、起工式に転勤内示、棟上げ式に異動

 ところで、この連載、書いてる途中に次から次へと思い出すことがある。もちろん忘れてしまったことも多いのだけど。で、昨夜ふと思い出したこと。
それは、転勤だ。そしてそれに伴う悲劇。筆者は今回の京都転勤が、入社13年で4回目。32年間の記者人生で転勤があと5回あるのだけれど、この時が最悪だった。それは、記者の世界で都市伝説のようにある、「家を建てる→転勤」に見事に嵌ってしまったからだ。

 前年(平成3年)秋に大阪社会部遊軍になったので、しばらくは大阪本社勤務が続くと勝手に思い込んでマンション住まいをやめて戸建てを探していた。当時は、バブル経済が弾けて家を購入する絶好のチャンスだった。今から考えると、それから金利がどんどん下がるのだけど。休みの度に妻や子どもたちとドライブがてら大阪や兵庫の郊外を見て回った。理想は、神戸市南部や阪神間、大阪北部だったが、高い高い! で、神戸市北区や三田まで足を伸ばした。
 実家が神戸市灘区だったので、妻の希望は「車で30分以上」離れた所。三田市内のフラワータウンやウッディタウンは理想に近かったが、どこも10倍20倍の抽選で、当たらない。仕方なく三田の一番奥にあるガーデンタウン(つつじが丘)にたどり着いた。ここは、注文住宅ではないが、ある程度、好みの住宅を建てることが出来て抽選はなく、予算的にも何とかなりそうだった。妻の実家は島根県松江市の隣町だったが、妻はこの新居になる地区を見て「うちより田舎やね」と言った。

 当時、加藤さんに相談したら、「三田か? 遠くないか。まあ、建てたいなら好きにすれば」と言われた。連載を一緒にしていたM川さんは「社会部員は14版地区から出たらアカンよ。社会部から出るつもりか?」と否定的だった。当時の14版地区とは大阪府内と阪神間。三田市は13版地区だった。果たして、半年後にM川さんの”予感”が的中したのだが。
 で、資金計画を立て、住宅のデザインも決めて年末に契約した。2月中頃の起工式は転勤の内示が出た日で、異動日の3月1日は棟上式という皮肉な結果となった。家族はその時、娘のお友だちが京都市内に転居したばかりだったから、喜んで付いてきた。
 ちなみに、この新居は最寄りの駅までバスで10分。JR宝塚線で大阪まで約1時間という立地だった。ゴールデンウィークの頃に新居は完成したが、もちろん住めないので、週に一度の休みの度に、お弁当を作って京都から1時間の新居にピクニック気分で行き、雨戸を開けて空気を入れ替えた。その家が建ってから約40年。今は妻と2人で住んでいるが、家族全員で一緒に暮らした期間は10年もない。その訳は後に。

新人記者におでん屋で説教

 地獄の見習いデスク生活に半年後、変化が訪れた。Y総局長と飲む度にもう1人の県版デスクを要望しといたが、ようやく聞き入れてくれた。学研支局からK阪さんが来た。筆者より歳上だったが途中入社でデスク経験はなかった。しばらくして代わる代りに深夜までの当番デスクをするようになった。勤務表に遅番の○が付いてない日は、夜9時過ぎに自由になった。しかし、生活が変わる訳ではない。単に飲みに行く時間が早くなっただけだった。新人記者のT上君とT山君を引き連れて木屋町六角の路地にあったおでん屋に行った。毎回、言うことは同じだった。「今日は説教しないからな」。大将は笑いながら「そんなこと言っててもまた、説教始まるよ」。結局1時間後にはいつものようになっていた。それが12時近くまで続き、それから例のカラオケスナックへ。

 勝手に新人記者の教育役を買って出た訳で、特にT上君は、毎日のようにH次席に叱られていた。それもそのはず。新人記者は毎朝9時頃には、担当する所轄署数か所を回って前夜からの事件事故の有無を確認し、総局デスクに電話する決まりだったが、彼はいつも寝坊して遅れた。H次席に「○○署に行ったか?」と聞かれ、行ってないのに、「ハイ、行きました」と答える。しかし、事前にH次席は○○署に電話を入れて来てないことを確認済み。隣の席でH次席が「嘘つくな!アホ」と毎日のように怒鳴っていた。酒席で、そういったことも含めて、取材だけでなく生活態度なども注意した。記者はたまらないだろうな。この頃から、筆者の勘違いが始まったのだ。

当番デスク、社会部復帰めざし張り切る

 そんな見習いデスク生活でのやり甲斐は、日曜日などの休日。筆者だけが総局の当番デスクをする時にあった。その際は県版だけでなく全国版への出稿も1人でやる。だから、休日の当番を期待していた。そこそこの事件が起きるか、この日のために特ダネを準備しておくよう若い記者たちに命じていた。主客転倒だな。大事件なら、当然、次席たちが出勤して来る。本社にいる地方部次長の中には、筆者を買ってくれていた人もいた。その1人が社会部で仲が良かったY田さんだ。その次長が当番の時は張り切っていた。果たして、学研支局のF島君が、自衛隊大久保基地の隊員が市民への暴行事件を起こしていたことを掴み、連絡してきた。やったぞ! 早速Y次長に連絡、最終版まで見事に社会面トップを飾った。翌朝出勤したY総局長は褒めてくれたが、H次席は「何でオレに連絡してこない」と不満たらたらだった。

ある日、以前に取材したことのある嵐山保勝協会の事務局長がお土産話を持って筆者を訪ねて来た。美空ひばり関連の話題ものだった。新人のT上君の持ち場だったので、彼に取材を命じて書かせた。数日後、第二社会面のトップを飾り、T上君は同期の中でトップを切って総局長賞を獲得した。彼は他の同期に自慢げに電話しまくったという、アホやな。未だに、こんな事を覚えているなんて何と小さい男だな、と思うが、当時の筆者は、こうやって地方部内での地位を上げ、ゆくゆくは社会部への復帰を画策していた。(つづく)

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