大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」53(見習いデスク編1) 安富信

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スナックママら4人殺害事件

 京都総局に飛ばされる前に、大事なことを書き忘れていた。捜査一課担失格の身としては、苦しいことだが、警察庁広域指定事件だ。
 それまでの主な広域指定は、114グリコ森永事件、116朝日新聞阪神支局襲撃事件などがあるが、筆者が大阪社会部遊軍にいた半年の間に、島根県松江市、兵庫県姫路市、京都市でスナックママら4人を殺害したとして逮捕された広域指定事件119号の西川正勝元死刑囚(2017年死刑執行)が、大阪市内で最後の事件を起こして、逮捕された。
 まだ、お正月気分が抜けない平成4年(1992)1月5日午前10時45分ごろ、西川元死刑囚が大阪市天王寺区のアパートに押し入り、女性落語家の桂花枝さん(当時27歳)の首を締めて14万円を奪って逃げた。2日後に西川元死刑囚は逮捕された。

警察庁広域指定119号事件を報じる読売新聞

名物写真記者、取調室を激写

 ここで、写真部のスーパースターの登場だ。ボスの加藤譲さんの同期のU原さん。彼は大阪読売写真部の有名人。筆者がネソ回りや一課担だった頃に殺人や立て籠もり事件があれば必ずU原さんが現場にいた。関係者以外立ち入り禁止の白いテープの前に仁王立ちし、若い警察官と睨み合っていた。彼は筆者を見つけると言った。「安富君、向こうで警官と揉めてくれ」。で、揉めているうちに、彼はテープをかい潜って現場に近づきシャッターを押す。もちろん、直ぐに押し出されるが、一瞬の隙を突いて撮る姿勢は流石だった。そのU原さんが、またもややった!今度は、スケールが違った。

西川元死刑囚が取り調べを受けていた調べ室を若い記者から聞き出し、ドアを開けてシャッターを切る。脱兎の如く逃げるU原さん。追う刑事。天王寺署近くであえなく”逮捕”され、カメラを召し上げられ、目の前でフイルムを引き出されたという。数ある写真部の武勇伝の一つに過ぎないのだが。いつもこの話を思い出すと、思わず笑ってしまう。
ちなみに、広域指定事件の第一号は昭和39年(1964)5月に31府県にまたがって起きた連続学校金庫破り事件だった。以後、永山則夫事件(108号)、勝田(113号)、広田(115号)、宮崎(117号)と続き、現在、204号事件(マブチモーター社長宅強盗殺人など)となっている。

後輩の地方転勤に涙したビッグボス

 広域指定事件と言えば、やはりグリコ森永事件。その解決に今も心血を注いでいる、ビッグボスの加藤譲さんは、この時の筆者たちの地方部総支局への転勤に際して涙を流した。他人の転勤に泣く人なんか、いなかった。少なくとも読売新聞には。栄転ではあっても。しかし、この人は泣いた。この年平成4年(1992)3月の定期異動で、筆者の同期(1979年入社)で社会部にいた上杉成樹君(故人)と、S君、I君は、それぞれ神戸総局、和歌山支局、広島総局に転勤となった。上杉君は、兵庫県警キャップという大阪読売の事件記者の上がりポストとも言える部署だったので、まあまあ、だったが。S君は、筆者や上杉君と一緒に府警ボックスの捜査4課担をしていたが、遊軍にもならずに、和歌山支局3席になった。加藤さんは、この3人を前にして、社会部遊軍席で涙した。特にS君に「遊軍にもなれずに、申し訳ない」と頭を下げた。こんな人、いないよ。後にも先にも。

 という訳で、京都総局に行った。とにかく、3月1日から地獄の県版制作に取り掛かった。赴任前に何度か京都総局に行き、引継ぎを受けた。その際、総局長のYさんに「何をするんですか? 府警キャップですよね」と聞いたら、「何言うてんねん!県版デスクや。これから君はデスク見習いや」と言われた。当時、京都総局には総局長の下に次席が2人(社会部系と地方部系)その下に3席の主任2人がいた。前任者の3席2人も社会部系と地方部系で見事に構図が分かれていた。筆者が行った時の総局長は地方部系だった。神戸や京都総局の総局長職も見事に社会部系と地方部系で分配していた。

 当然、地方部系総局長は社会部系に冷たいし、ある意味で怨念を抱いている。実際、筆者が赴任した時、Yさんにこう言われた。「いつまでも社会部風を吹かせとるんやないで。君も今日から地方部の人間や」。あほらし。社会部系の次席のHさんとは社会部におられる時からそりが合わなかったし、京都総局ではしらけていた。もう一人の地方部系次席のHさんとは第1期京都時代に一緒に仕事をした人だが、明らかに先輩デスク風を吹かせた。

地域版肥大化、地獄のデスク見習い

 どんな生活か? ホンマに地獄だった。当時、読売新聞は全国紙として部数1000万部を誇り、「朝日新聞に勝利した!」と言って、次は地方紙と戦っていた。そのために地域版の充実を図っていた。と言ってもやることは紙面の充実というより肥大化だった。情報量を増やせ!とばかりに紙面の数を増やした。通常、地域版は第1県版と第2県版の2面だけだが、この数年前から第3県版を創設して、異常なまでに記事数を増やした。
 具体的に当時の京都総局の地方版とデスク稼業を紹介しよう。だいたい、出勤は9時過ぎ。コーヒー飲むのもそこそこに、すぐに第3県版作りに取り掛かる。この面は前前日組みといって、翌日の紙面ではなく、翌々日の紙面を作る。必然的に生のニュースではなく、いわゆる「ヒマダネ」といったいつでも使えるネタのオンパレードだ。正直言って、これがニュースか?といった話や、極端に言えば、「変わった形のキュウリが獲れた」なんてのもあった。「隣の家で牛が生まれたからってニュースにならない」と言われた“マスコミ論”が目の前で崩れ落ちていた。それを午前中、隣の次席が夕刊対応をしているのを横目で見ながら、3県づくりをする。時には、夕刊時間帯に大きな事件があれば、「お前、ぼっーとしてないで、手伝えよ」と言われてデスク仕事を手伝わされる。夕刊が済むと次席たちはさっさと昼ご飯を食べに出るが、3席は後だ。
 
 遅い昼食を済ませて帰ってくると、第2県版づくり。3県より少しニュース感がある記事を選ぶが、ここも基本的には明後日の新聞だ。なぜか次席は全く手伝ってくれなかった。この作業をようやく終えると、第1県版に取り掛かる。もう、日はとっぷりと暮れかけている。ここからようやく明日の紙面だ。明日の紙面は複数作り替える。当時の京都総局では最大5種類の紙面を作った。地域に密着した紙面づくりを目指したから。京都は大まかにいって北から丹後、丹波、京都市内、山城の4地区に分かれていた。丹後と丹波の大部分は、統合版地区で夕刊がない。丹波の1部と山城、京都市内は夕刊が出る地域なので、地域性と共に朝刊だけの地域か夕刊だけの地域かで紙面を変える。よって、当時の京都は、丹後、丹波、丹波セット、山城、京都市内の5種類の紙面を作った。特に、丹後、丹波までの紙面とそれ以降は総替えと言っても良いくらい、大幅に変えた。
 
 統合版地区から次々に送られて来る原稿をさばく。当時は、ほとんどがFAXで生原稿が送られて来た。1枚3行の原稿用紙で数十枚、場合によっては100枚も送って来るベテラン記者がいた。ちぎっては投げちぎっては投げの状態だった。京都市内版まで来ると深夜になっていた。当時の締め切りは午前0時近くだったと記憶する。こんな状態が毎日続く。これに週に1度の泊まり勤務を挟み、休みは平日1日だけ。前任者はこの仕事を2人でやっていたが、筆者の時は、相方の3席が「この仕事が向いていない」と総局長に“評価”されて、外回りになったものだから、ずっと1人だった。

平成4年(1992)3月17日付の京都版各版

飲んで歌って4時まで宴会の日々

 このままでは倒れるか、発狂する、と本気で考えた。そこで考え出したのが、県版終わってからの“宴会”だった。当時の京都総局には、駆け出し支局を終えて京都にやってきた元気いっぱいの20代後半の記者が揃っていた。府庁回りの亘孝夫さん(61)(現在、瀧津孝のペンネームで歴史エンターテインメント作家として活躍中)や総局遊軍のM君やM原君、府警キャップのH中君や司法担当のHさんらがいたので、彼らに「オレが県版見終わるまで、どこかで待ってろ。そこから飲み始める」と号令をかけた。真面目な彼らは待っていた。午前0時過ぎから、先斗町のお好み焼きなどを食べて飲んでから、木屋町で朝までやっているカラオケスナックに行き、4時ごろまで歌って踊って帰宅する、という毎日だった。ある日、小学校1年生だった娘がマンションから出ようとしたら、ドアが開かない。外からドアノブを握ったまま、廊下で寝ていた筆者がいた。(つづく)

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