ベトナム戦争枯葉剤被害ドキュメンタリー映画「失われた時の中で」 坂田雅子監督インタビュー 文箭祥人

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ベトナム戦争と枯葉剤被害

映画「失われた時の中で」は、坂田雅子監督による「花はどこへいった」(2007年)、「沈黙の春を生きて」(2011年)に続く、ベトナム戦争の枯葉剤被害をテーマにした最新作にして集大成。

9月4日、大阪・十三の映画館「第七藝術劇場」での上映後、トークショーが行われ、その後監督にインタビューした。

坂田雅子監督

ベトナム戦争はおよそ50年前に終わり、枯葉剤被害は遠い過去のことのように思う人は少なくないだろう。最初に、ベトナム戦争と枯葉剤被害の概要を振り返る。図書館に並ぶ中高生の教科書を読み、まとめた。

第2次世界大戦中、アジアの民族独立運動が成長した。1945年9月、ベトナム民主共和国の独立が宣言された。植民地宗主国のフランスはこの独立宣言を無視し、力でおさえつけようとしたため、インドシナ戦争が勃発。敗れたフランスは撤退し、休戦協定が締結され、北緯17度線を境に北ベトナム、南ベトナムが成立・共存した。北ベトナムは中国、ソ連が支援し、南ベトナムはアメリカが支援した。

南ベトナム政府の強権支配に対して1960年、南ベトナム解放民族戦線が結成され、北ベトナムの支援を受けながらゲリラ活動を展開する。アメリカはベトナムの情勢を、民族独立よりも冷戦構造の一環とみなした。アメリカはベトナムおよび周辺諸国が連鎖反応的な共産化をおそれた。1965年、アメリカは北ベトナム爆撃を開始し、南ベトナムに地上軍を派遣し、ベトナム戦争が始まる。

日本政府はアメリカの軍事行動を支持した。沖縄などの米軍基地から艦艇や爆撃機が出撃。戦車や艦船の修理も日本で行われ、企業には軍事関係の注文があった。この頃、日本商品の輸出が伸び、高度経済成長の一つの要因となった。

アメリカ軍は、1961年から1971年まで、有毒なダイオキシンをふくむ枯葉剤を空から大量に散布した。ゲリラが潜むジャングルを枯らし、ゲリラの隠れ場所をなくするためだ。自然が壊され、住民やアメリカ兵らに人体への被害が発生し、さらに世代を超えて遺伝する染色体異常が起こった。

枯葉剤被害の実態と夫が残した言葉

映画「失われた時の中で」は、枯葉剤被害者とその家族にカメラを向け、枯葉剤被害の実態を伝えるドキュメンタリー。坂田雅子監督の夫グレッグ・デイビスさんが残したさまざまな言葉を縦糸にして組み立てられている。

グレッグ・デイビスさん @2022 Masako Sakata

1970年、坂田雅子さんはアメリカ人グレッグ・デイビスさんと結婚する。

グレッグさんはベトナム戦争帰還兵。高校を卒業したばかりの1967年5月、兵士としてベトナムへ。

グレッグさんの言葉。

「ベトナムの共産主義者を殺すことで自由を守るのだと教えられた。僕らは急速に大人になり、指導者たちは信用できないと悟った」

グレッグさんは除隊後、京都を訪れ、坂田雅子さんと出会う。やがて、グレッグさんはフォトジャーナリストの道を選び、ブータンやビルマ、カンボジアといったアジア各国へ取材に行く。中でもベトナムへは何度も行く。

2003年、グレッグさん急逝。

坂田監督はインタビューでこう話す。

「夫が枯葉剤が原因だと思われる病気で亡くなったことが映画をつくるきっかけです。本当に死は急にやってきて、これから一人の生活をどうやっていけばいいのかわからない中、無我夢中でわらにもすがる気持ちで始めたのが、枯葉剤について知ろう、知ったことを映画にしようということでした」

坂田監督はパンフレットにこう書く。

「グレッグは彼の死によって、私に新しい生を与えてくれたのかもしれません」

映画制作の経験がなかった坂田監督は2007年、最初の作品「花はどこへ行った」を制作、上映した。

グレッグさんは、1990年代、枯葉剤被害の現実を見ている。この時に書かれた手記が映画にでてくる。

「犯罪は続き被害者は容赦なく増え続ける。人間より利益の方が大事なのだ」

坂田監督は最新作についてこう話す。

「私が見てきた被害は氷山の一角でしかないですが、それをまとめて映画にすべきだと被害者たちの声が私の背中を押して、つくらせたのがこの映画です」

映画「失われた時の中で」は、被害者とその家族の姿を映し出す。坂田監督は2004年から継続して、被害者とその家族を取材・撮影。時が過ぎ、歳を重ねる被害者、高齢化する家族の姿をとらえる。

娘が眼球を欠損して生まれ、26歳になる今も寝たきりの生活が続く。母は女手ひとつで育ててきた。母は歳をとり健康もすぐれない。

生まれた二人の息子は目を開けることができず、奇声を発するのみだった。母は息子をリハビリに通わせたくても経済的な事情で叶わず、上の子どもは数年前に亡くなった。

次女が知的障がいを持ち、長男が「頭が二つある」という重い障がいを持って生まれた家族は、父が枯葉剤の影響と思われる病気で亡くなり、母親が生活の一切と長男の身の回りの世話を担う。長女は医者か先生になりたいと言っていたが、経済的な理由でその夢は叶わなかった。長男は26歳で生涯を閉じた。

……………

坂田監督はこういう。

「枯葉剤によって傷ついた人たちと言われるが、この言葉では十分言い表せないほど被害は多様で、根深いです」

一方、こうも言う。

「たいへんな生活の中でも希望を忘れずに生きている人たちに出会って、私も少しずつ癒されいき、生きる力を与えられてきました」

映画は、夫婦でブティックを経営する男性や病院事務の仕事をする女性の姿も描く。

Don’t forget! 枯葉剤被害

映画で伝えたいことは?坂田監督はこう話す。

「ベトナム戦争が終わり、平和条約が締結されて、国と国との間では一応、決着はついています。キッシンジャーもノーベル平和賞をもらいました。しかし、戦争の傷はいつまでも消えません。1973年にベトナム戦争が終わって50年になろうとしています。枯葉剤の被害はこのまま、何もしなければ、忘れ去られてしまう。過去を少しでも現代に表出させ、声なき人の声が届く助けになればいいなと思い、映画をつくりました」

さらに。

「Forgive, but don’t forget! これはベトナムの人たちがモットーとしている言葉です。許すけれど忘れるな、です。ベトナムの人たちだけではなく、私たちも忘れないようにしなくてはいけない」

映画の後半、パリ郊外の裁判所のシーンから始まる。

ベトナム戦争の戦場リポーターとして取材中、枯葉剤を浴びた女性。その後、最初の子どもを出産した時、心臓に4つの疾患があった。今はフランス国籍を取り、フランスに暮らすベトナム人女性だ。

この女性は、モンサントやダウ・ケミカルなどの化学企業に対して、枯葉剤を製造した責任を問う。しかし、「訴えは受理できない」との判決が下る。この女性はこう記者会見で話す。

「今日の判決によって私たちは大きく前進しました。この犯罪を過去から現在に出現させたからです」

被害者への補償はどうなっているのか

被害者に補償はないのだろうか、坂田監督に聞いた。

「アメリカ政府は、ベトナムの被害者への補償に関して放置している状態です。アメリカ政府が責任を認めたら、多額の賠償金を払わなくてはならない。そうすれば、これから戦争もできなくなる。枯葉剤を製造した企業は、アメリカ政府の命令に従っただけなので責任はないという立場です。一方で、被害を受けたベトナム帰還兵に対しては、アメリカ政府は補償し、枯葉剤製造企業も多額の和解金を支払っています」

アジアをめぐる国際関係の影響があるという。

「ベトナム政府はベトナム戦争の被害について、アメリカ政府を責めようとしていません。対中国との関係です。ベトナム政府とアメリカ政府は、敵の敵は味方という感じで、今や協力関係にあるわけです。アメリカ政府の立場は、過去のことは水に流して、これから先、いい関係を築きましょう、誰が悪かったのか問わなければ、人道的な立場で助けるというものです。ベトナム政府はある程度、受け入れつつあります」

枯葉剤に汚染されたアメリカ軍基地の除染については、アメリカは責任を認めている。除染が終わった基地もあれば、これから10年かかる基地があるという。また、枯葉剤によって甚大な環境破壊が起こり、たくさんの動物がいなくなったという。

映画の最後半、グレッグさんの言葉がよみがえる。

「戦争のアクションは誰にだって撮れる。本当に難しいのは戦争に至るまでと、その後の人々の生活をとらえることだ。その中に本当に意味のあることがあるんだ」

トークショー、桂良太郎さん(左)と坂田雅子監督

上映後のトークショーに登壇した日越大学(ハノイ国家大学)客員研究員の桂良太郎さんは多くの人に観てもらいたいと熱弁。そしてこう話す。

「グレッグさんは『考えてくれ』と言っていると思います。ダイオキシンとは何ぞや?!戦争とは何ぞや?!」

ベトナム戦争が日本でもベトナムでも忘れ去られようとしている現実を踏まえ、こういう。

「忘れ去ってしまうことの恐ろしさ。知らない間に戦争に加担してしまうことにつながります」

坂田監督が取り組む支援活動

今後、枯葉剤被害の問題にどう取り組んでいくのか、坂田監督に問うと、被害者支援を行っているという。

「『希望の種』奨学金を運営しています。枯葉剤被害者の⼦どもやきょうだいを対象とした奨学金基金です。学校に通うのに1人1か月2500円かかります。3年間で3万円です。学校に通えば、手に職をつけたり、次のステップに進むことができます。さらに家族の負担も減ります。2010年からおよそ10年で、1000万円以上の寄付が集まり、100人以上の子どもたちが学校に通いました。『本当に助かりました』、『うれしいです』と言ってくれます。みなさんの協力を得て、続けて行きたいと思います」

もうひとつの支援にもかかわっている。

「建設中の『オレンジ村』にも寄与したいと考えています」

枯葉剤被害者を支援する「枯葉剤被害者の会」(VAVA)のホーチミン支部が2022年から2024年の工期で「オレンジ村」の建設の予定している。施設はリハリビステーションやケアセンター、職業訓練所、農場などで、各世代の支援にあたる。

終わらない枯葉剤被害

世代を超えて遺伝する染色体異常によって引き起こされる枯葉剤の被害、これから新たな被害はうまれるのか。

ベトナム戦争を取材した報道カメラマンの石川文洋さんの寄稿文が映画パンフレットに掲載されている。

石川さんはホーチミン市内の病院の資料を受け取った。

「2016年、この病院だけで、65,198人の赤ちゃんが産まれ、11,811人が枯葉剤の影響と考えられる障がいをもつ子どもだった。そのほかに、死産、胎内死、流産などの数字がある」

そして、こう記す。

「ベトナム戦争中に直接、枯葉剤を浴びた兵士や農民を第一世代とすると、その子、孫、曾孫と今、第4世代の子にまで影響が現れている。今後、第5、第6、その後の世代に先天性障がいがなくなるという保障はない」

○映画「失われた時の中で」

http://www.masakosakata.com/longtimepassing.html

●「奨学金基金 希望の種」

http://www.masakosakata.com/seed_o_hope.html

○ぶんや・よしと 1987年MBS入社。2021年2月早期退職。 ラジオ制作部、ラジオ報道部、コンプライアンス室などに在籍。 ラジオ報道部時代、福島原発事故発生当時、 小出裕章さんが連日出演した「たねまきジャーナル」の初代プロデューサー

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