大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」81 暗黒の地方部次長編3 安富信

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安富さんの顔を浮かべてウンコします

 再開2回目なのに、またもや尾籠な話からで申し訳ありません。朝トイレに行く時に必ず思い出す人物がいる。福原幸治君だ。今、何歳かな? 会社の期で9つ下だから、60、おぅっ、もう還暦かな? その福原君が今回の主人公だ。
地方部次長時代に最も長く一緒に仕事をして、助けてもらった後輩だ。筆者同様、極めて危険で有能な人物なのだが、読売新聞を途中退社した。その彼を何故、毎朝トイレの中で思い出すのか? それはねえ。
 地方部次長時代の通常勤務を以前にも書いたが、夕刊勤務の日は朝8時に本社地方部の席に付かなければならない。筆者は比較的時間に厳しいタイプだから、7時40分には着席していた。しかし、福原君はいつも、10分以上、遅刻して来た。注意すると、彼はいつもこう言った。「朝、2回ウンコするんです。でないと、調子が出ない。今朝も安富さんの顔を浮かべてしてました。文句あります?」という訳です。

明石歩道橋事故で休日返上

 まあ、そんなことは置いて、彼と一緒にした大きな仕事は、まずは、やはり明石歩道橋事故だ。
 2001年7月21日夜8時40分ごろ、兵庫県明石市大蔵海岸通1のJR朝霧駅と大蔵海岸を結ぶ高架式歩道橋上で、将棋倒しが起きた。歩道橋には、第32回明石市民夏まつりの花火大会を楽しんだ帰りの人でごった返していて、まだ花火会場に行こうとする群衆と帰ろうとする群衆がぶつかって事故が起きたのだ。小学生以下の児童9人を含む11人が死亡し、183人が重軽傷を負う大事故になった。

明石歩道橋事故を伝える読売新聞
事故直前の歩道橋を撮った写真      ぎっしり詰まる歩道橋、事故の実態が一目でわかる

 その夜、筆者は妻のふるさと、松江に妻子3人と帰省していた。酷い事故だと思ったが、まさか帰省を中止して事故取材に加わるとは思っていなかった。しかし、翌日、四ノ宮地方部長から電話がかかって来た。
「明日本社に上がり、その足で神戸総局に向かってくれ」と。
 記者人生で何度目かの休み返上呼び出しだった。仕方ないから、妻子を置いて帰った。
 翌日から事故取材班が置かれている神戸総局に福原記者と一緒に行った。聞けば、前夜まで本社地方部から応援に来ていたT次長とO主任と、神戸総局のデスク陣とそりが悪く、交代となったようだ。こういう時はやりにくい。初動で上手くいかなかった取材班の軌道修正をしなければならない。明石市内に現地本部を置いて、福原君に仕切ってもらった。7,8人程度の若い地方の記者たちが応援取材に来ていたが、福原君は若い記者の心を掴むのが上手かった。たちまち取材班のムードが変わった。
 そして、四ノ宮部長からの指示はシンプルだった。
「事故発生直前の歩道橋の写真を手に入れろ」
 福原君は取材班の中から数人をピックアップして、歩道橋の直近にあるマンション(10階建て以上?)に手当たり次第に電話を架けさせた。数日後、当たりがあった。神戸総局のI記者と洲本支局のT記者(いずれも女性記者)が、事故直前の歩道橋を撮影した写真とビデオを持っている女性を探り当てた。21日午後7時ごろの写真だった。文字通り「ごった返して」いた。これが27日の夕刊1面を飾った。

コンビで地方応援、やりたい放題

 神戸総局近くのホテルに何日も泊まり込んで、取材を続けた。毎夜毎夜、居酒屋で「反省会」と称して飲み食いした。そんな時の福原君は絶好調で楽しかった。彼は大阪府警捜査一課担当記者として数々の特ダネを連発した記者だった。取材後の弾け方も捜査一課担のものだった。女性記者2人には、部長賞が出た。
 これをきっかけに、安富・福原コンビは、大阪本社地方部管内で大きな事件事故や、ややこしい問題があると、総支局に応援に行かされた。神戸総局には再び森永乳業問題で、奈良支局には奈良県警警視の疑惑……などなど。ただ、2001年10月の鳥取県西部地震だけは、福原君は行かなかったのだが。
 総支局によっては、コンビが来ると、その事件の指揮を丸投げするところがあった。ある支局では、次席が事件指揮に加わらず、自分の好きな仕事だけをしていることがあり、2人は怒った。
「僕たちは失礼させてもらいます」と脅した。事件の最中に早く帰宅しようとする総局長をどやしつけたこともある。
 まあ、やりたい放題、言いたい放題だった。(つづく)

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