大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」46(社会部編22) 安富信

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つらい「1課担」時代に筆鈍る

 この連載を始めて、初めて1か月近く間が開いた。年末で卒論の点検、新年の学生たちの災害調査の発表準備などなど、いろいろあって、と書いてはみるが、要は行き詰ったのだ。いや、少し飽きてきたのかもしれない。45回までは快調に苦も無く書いてきたのだが、壁にぶち当たったのだ。それもこれも、この一課担時代が事件の解決が少なく、抜きもなく続いてきたからだ。でも、心配ご無用!もうすぐ、このしんどい一課担時代も終わりますから。

替え歌の天才、偉そうな同僚嫌い転職

 懐かしい人に会った。年末の12月25日夜、一課担で苦労を共にした元フジテレビプロデューサーの味谷和哉さん(65)と東京浅草の居酒屋で待ち合わせた。なんと、30年ぶりらしく、お互いに第一声は「まだまだ若いなあ!」だった。30年の歳月を感じることもなく、昔話に文字通り花が咲いた。味谷さんと言えば、仕事はさて置き、あだなを付ける名人で、替え歌、いや新作づくりの名人だった。高校野球の甲子園取材班で一緒に仕事をした時の島倉千恵子の「本気かしら」になぞらえた「本記かしら、いいえ雑感さ♪♪」や、筆者の1年先輩で有名なI記者の「井手ですが音頭」を思い出した。
特に「井手ですが音頭」は秀逸で、Iさんは立派な特ダネ記者なのだが、自己主張が強く、いつもご自分が一番仕事をしている、とおっしゃっていたのを揶揄した歌だった。歌詞はいたって単純で「井手ですがあ~、井手ですがあ~、誰が何と言おうとも、僕が井手ですがあ~~」。これを何度も繰り返すのだが、本人が痛く気に入って、宴会などで何度も歌っておられた。それがおかしくて。
「天才味谷」は早く読売新聞を辞めて、テレビに移ったのは大正解だった。俳優を上手く使って、ドキュメントドラマの秀作を多く作ったからだ。それでも、今更ながら「何で辞めたの?」と聞くと、「一課担は楽しかったですよ。降格されて市内回りに戻ったころが一番楽しかった。でも2課担の人たちをはじめとして、会社の上層部を狙う偉そうなひとが嫌いやったですね。安富さんはそうでもなかったから、好きですよ」と褒められたのかな? 女優の常盤貴子と中国に長期ロケに行った時の逸話などの自慢話もあって、3時間があっという間に過ぎた。あんまり話が面白いので、来期の大学の授業での「マスコミ論」のゲストスピーカーとして来てもらうことに。ついでに言えば、昨年「教育と愛国」というドキュメンタリー映画を監督した毎日放送の斉加尚代ディレクターにも、このマスコミ論に招いた。宣伝ですが、来期の私の授業に、東西のドキュメントドラマの名手がそろい踏みすることになります。

3連続で女児殺害

 ともあれ、一課担の終盤に差し掛かる。この時期はいわば、「女児災厄3連続事件未解決」だ。平成2年(1990)秋から同3年(1991)にかけて大阪府内の各地で女児殺害事件が3件発生し、いずれも未解決なのだ。
 平成2年10月14日午後5時25分ごろ大阪府豊中市刀根山の内科医(48)方2階奥の浴室内で、2女の小学5年女児(11)が浴槽内でぐったりしているのを帰宅した内科医が発見。救急車で病院に運ばれたが、首を強く絞められており重体。母親が不審な若い男が玄関から出て来るのを目撃しており、大阪府警捜査一課は盗みに入った男が女児に見つかって居直り、殺害を図ったとみて豊中署に殺人未遂事件の捜査本部を設置した。男は20歳前後で約1.7㍍、中肉、長髪で口ひげを生やしていたという。

馬が合わぬ「2課担」記者

 特徴的な犯人像で、阪急蛍池駅近くでも目撃されており、犯人は早期に逮捕されると見込まれていた。しかし、事件は迷宮入りとなった。この事件でよく覚えていることは、発生間もなく現場に駆け付け、一通りの取材を済ませてタクシー車内で原稿を書き上げて臨場した府警ボックスのサブキャップFさんに筆者の原稿を見てもらい、本社に原稿を吹き込むのを待っていた。ところが、2課担出身のFさんは細かい点に気を取られて質問を繰り返すばかりで、早版地域(高知や島根県などの遠隔地)の締め切り時間が迫って来る。それでも質問を繰り出すFさんに思わず怒鳴ってしまった。「とにかく、ごちゃごちゃ言っていないで、原稿を送ってください」。このFさんとはその後もことごとく、ぶつかる間柄となる。
 少し解説すると、発生ものといって殺人や強盗事件などは全体像を掴むには、時間がかかり、場合によってはわからないことばかりの段階で、原稿を作成して本社に送らなければならない。しかし、2課担は汚職や詐欺など概ね事件が固まってから公になるものだから、じっくりと原稿に向かうこととなる。この差が大きく、2課担や司法担当記者らとは、息が合わないことが多かった。デスクになって他人の原稿を見る場合も、この差は歴然としていた。

女児襲撃事件を報じた読売新聞1面と社会面
続報
女児は残念ながら亡くなった

「ベンチで泣く男」記者は関与を確信

 7か月後、次の事件が起きた。平成3年(1991)5月9日朝刊社会面トップ記事。
大阪市東淀川区西淡路のマンションで会社員(43)の長女で小学1年生女児(6)が6日夕方から行方不明になった。女児は自宅近くの公園で1人で遊んでいて行方がわからなくなった。大阪府警捜査一課は何者かに連れ去られた可能性が高いとみて誘拐容疑事件の捜査本部を東淀川署に設置、公開手配した。翌日の続報記事では、「不審な中年男」の目撃情報が出ている。そして翌日、わが一課担史上、最も印象に残っている「続報」記事が出た!
 その名も「ベンチで泣く男 目撃」。社会面トップ記事だ。筆者の記事ではない。コンビを組んでいた永田広道記者渾身の続報だ。実は、筆者は長い間、この記事をバカにしていた。よくある”続報”としては「非常に面白い記事だが、まあ、本筋に迫るものではない。いわば、まあ、あれ、だ」と。昨年8月末、熊本市内で永田さんに再会した時、その真意を聞いた。彼は極めて真面目だった。30年経った今も、あのベンチで泣いた男が極めて重要参考人に近いと確信していた。筆者は忘れていたが、永田記者はその直後に東北地方に出張に行き、この泣いた男の背景を取材に行ったとか。今では時効でもう書けないが、泣いた男には、深い事情があったのだという。女児は10日午前、自宅から5キロ離れた守口市のマンション貯水槽の下で遺体となって発見されたが、この未成年者誘拐、殺人、死体遺棄事件も未解決になってしまった。

またも女児誘拐不明事件
最も印象的な続報「ベンチで泣く男」
またも遺体となって発見
ひき逃げ? 難航する捜査

3連続未解決「心の傷」に

 そして、それから4か月後、3つ目の事件が起きる。
 今度の現場は、大阪府吹田市内本町。先の事件の大阪市東淀川区西淡路から北東2,5㌔と非常に近い。4歳の女児が9月11日午後から行方不明になり、大阪府警捜査一課は何者かに連れ去られた可能性があるとみて13日午後に吹田署に捜査本部を設置し公開捜査に踏み切った。女児も近くの公園で遊んでいて不明となった。女児は4日後の15日朝に、自宅から4㌔離れた淀川河川敷の水辺で遺体となって発見された。生存中に淀川に投げ込んで水死させた極めて残忍な事件だったが、これも迷宮入りとなった。

3つ目の事件が起きた。またも女児誘拐不明だ
遺体で発見
続報は書かれるが、、、
またも、未解決に

 3つの事件は、筆者が一課担史上最悪の未解決事件。それも3人とも幼い女児で、事件が解決を見なかったことが、後の記者人生に「心の傷」となって残った。そんなころ、筆者が駆け出し時代に初めて書いた特ダネ記事の事件の続報が紙面に載った。

 こちらは無罪!やりきれない!(つづく)

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