大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」47(社会部編23) 安富信

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対馬で紀行文取材「掲載できるレベルやない」

 さあ、そろそろ悪夢の捜査一課担当も終わりだ。色々書いてきたけど、平成3年(1991年)秋、憧れの「遊軍」になった。記者になって12年余。ようやくか、やっとか、早々か。その前に、一課担時代やその前に起きた事件、事故の「後始末」がやって来た。
 と言いながら、この夏、社会部に来て初めて紀行文を書く出張に出かけた。以前からなんやかんやと声をかけてくれていた松江支局の先輩、藤本晋・社会部次長からお呼びがかかった。「一課担ご苦労さん。たまには息抜きに旅に出ないか?」。ホンマに珍しいパターンだ。府警ボックスにいる間に事件とは全く関係ない紀行文の出張などありえなかった。当然、加藤譲・府警キャップは難色を示した。しかし、まあ、一課担になって2年半近く、ほとんど、いや全く業績を上げていない一課担キャップに嫌気がさしていたのだろう。最終的には「行ってくれば」と許してくれた。
 で、行った先は対馬。なんの下準備もせずに、ほとんど事前調べもないままに、対馬に行った。確か8月、夏休み気分だった。当時の紀行文のタイトルは「風と歩く」だったかな。とにかく、狭苦く暑苦しい府警ボックスから出たかった。暗い事件から抜け出したかった。3泊4日くらいだったかな? 恥ずかしながらほとんど覚えていない。通常、こうした紀行文は写真部のカメラマンと2人で行く。社会部の遊軍記者の息抜き取材だ。毎年、タイトルは変わるが、中身は日本のどこか、たまには世界のどこかに行って、主人公の生きざまとその地方の風土を描く。もちろん、筆力が必要だ。当時で1行15字×200行もあったから、3000字以上かな。生半可な筆力では書けないし、カメラマンの写真は極めて重要だ。
 なのに、初めて任された紀行文なのに舞い上がるだけで、予備取材もほとんどせずに現場に向かった。同行した八木良樹写真部員とは空港で落ち合い、「今回は何を取材するんですか?」と聞かれても、「決めてないんや。まあ、3日もあれば何か見つかるやろ」といった調子だった。酷いもんだ。八木記者もあきれて「取材先が見つかったら、連絡ください。ここの天然記念物のイリオモテヤマネコでも探してみますわ」と言って別れた。で、1日島内を取材して、どうやらこの島は、江戸時代から朝鮮半島と船での交流があったことを知り、それを基に組み立てることにした。
 「朝鮮通信使」といい、江戸時代に朝鮮王朝が日本に派遣した外交使節団である。豊臣秀吉の朝鮮出兵が両国の関係を悪化させたが、後に徳川家康の命を受けた対馬藩の粘り強い交渉の結果、国交を回復し1607年から1811年までの間に12回来日したという。「これだ! その努力と苦労を知る人物に取材して、ちょいちょいと書いたら出来上がり!」と、対馬市厳原地区に残っている交流船などを撮影し、関係者から話を聞いてまとめた。
 果たして、藤本次長の反応はいかに? 散々だった。「掲載できるレベルではないが、まあ、君は府警ボックスで2年半埋もれとったから、しゃあないか。なんとかして載せるわ」と言われて数日後、掲載された。酷い記事だった。情けなかった。で、この記事の掲載は次回に回します。
 今回初めて、過去の記事を探さずに敢えて、記憶だけでここまで書いた。やっぱり、ディテールが甘いな。すみません、ちょいと実験的にやってきました。取材も執筆も、入念な準備なければ書けない。当たり前のことを66歳になって再確認した。

「マイカー横転」報告したら「電車事故や、現場行け」

 読者のみなさんはもう、お忘れでしょう? 筆者が捜査一課担になったばかりの時に兵庫県尼崎市内で起きたスーパー長崎屋の放火殺人事件。その処分が出た。
処分は、まあ、こんなもんだろう。

次いで、一課担になったばかりの業過事件、花の万博で起きた、ウォーターライド転落事故だ。まあ、こんなもんだ。
もう一つ、この連載では全く書いていないが、実に思い出深い事故があった。それが、これ。


小さな事故、送検記事だが、筆者にとっては大事故だ。というのも、この電車が事故を起こしたこの時、まさに筆者は珍しく夏休みを取ったその日だった。平成元年8月某日。一課担になって初めてもらった夏休み、というか2日以上の休みだった。確か、4日ほどもらったような記憶がある。その初日、うちの妻と娘(当時5歳くらいかな?)は夏休みになると、妻の実家である島根県八束郡東出雲町(現松江市)に帰省する。で、筆者も休みが取れれば、この実家に行く。結婚して6年目ぐらいだろうか、やっと休みが取れたので、朝早く大阪府吹田市の自宅からマイカーを飛ばして、向かっていた。
半端ない大雨の日だった。悪い予感がしていた。その日に限って何故か道を間違えて、神戸市北区辺りで迷ってしまった。急な下り坂、土砂降りの雨の中、ハンドル操作を誤った瞬間、タイヤが浮いた。いわゆるハイドロプレーニング現象だ。ハンドルが効かない! 咄嗟に逆ハンドルを切った。左側の斜面にせり上がり、車がもんどりうった。天井が下になった。逆さまになったけど、けがはなかった。運転席の窓ガラスを割ってはい出た。立派な自損事故だ。当時は携帯などなかったので、公衆電話までかなり歩いて、府警ボックスに電話を入れた。「大変だったな」と言われた次の言葉が、「天王寺駅で電車がぶつかった。すぐに現場に行ってくれ」だった。笑うしかない。
大破したマイカーを近くの自動車解体工場に預けて、バスに乗って電車に乗り継いで天王寺駅まで行った。駿河キャップが悲しそうな顔をして「帰っていいよ」と言ってくれたのを今も覚えている。翌日、大破した車の処分をして色々手続きをしていたら、妻と娘が心配そうに帰って来た。いろんな思い出があるものだ。

雲仙普賢岳噴火、カメラマン犠牲に

 この年、もう一つ忘れられない大災害があった。筆者は現場に行っていないが、後の防災人生に大きな影響を与えた災害である。雲仙普賢岳噴火である。結論を先に言うと、この噴火災害の被害者はマスコミ関係者であり、加害者でもあった。その中に読売新聞大阪本社写真部のカメラマン田井中次一さん(当時53歳)がいた。

 この災害は、後に防災の研究者になって、雲仙普賢岳を訪れた時、様々なことを学んだ。そのことは、後に書くとして。ともかく、この時点では、災害現場に行ったマスコミ関係者が大噴火に巻き込まれて多くの報道関係者が亡くなった。田井中カメラマンとはほとんど、一緒に仕事をしたことがなかったが、とにかく当時は大きなショックだった。それ以外は今は書かない。

信楽鉄道事故

 もう一つ、現場に行っていないが、この年、痛ましい列車事故が起きた。滋賀県信楽鉄道事故だ。これはまさしく人災事故だった。地方部管内の事故だったが、社会部からも多くが応援取材に行ったが、筆者は社会部捜査一課担だったので、行かず終いだった。大きな事件や事故、災害に不思議とよく遭遇する運命だが、列車事故だけは縁がなかった。松江の特急やくも号事故、余部鉄橋での事故、そして、尼崎市の福知山線脱線事故、、、

 やりきれないな!このような事故は。
 で、最後にこの頃紙面を賑やかしていた事件。それはイトマン事件。2課事件は好きじゃないので、記事だけの掲載にします。しかし、それが、後に、、

 今回は以上です。(つづく)

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