限界集落襲った鳥取県西部地震
2000年10月6日午後1時30分、大阪市北区扇町の読売新聞大阪本社3階の編集局が揺れた。震度3くらいだったかな。地方部次長として夕刊当番デスクだった。夕刊最終版の締め切りまで数10分。確か神戸総局次席のYさんと電話で裁判原稿のやり取りしていたように記憶する。結構揺れた。
鳥取県西部を震源とするマグニチュード7.3の地震だった。米子市などで最大震度6強を観測。夕刊が締め切られた直後、四ノ宮地方部長が言った。「直ぐに準備して大阪空港から米子へ飛んでくれ」。
そう、大阪空港内にある読売新聞の格納庫に置いてあるヘリコプターで地震の応援取材に行け、ということだ。社会部にいた震災担当のT主任と2人でタクシーを飛ばして空港へ。ヘリは飛び立ち、米子空港まで一飛び、1時間ちょっとで着いた。
米子市の中心部にある米子支局には夕方5時ごろに到着した。古谷支局長は、駆け出しの松江支局時代に隠岐通信部にいた先輩記者だ。温厚な記者で怒ったのを見たことがない。この時も柔らかい笑いで迎えてくれた。「ご苦労様です。よう来てくれました」。
米子市内は思ったほどの被害はなく、電気や水道、ガスなどのライフラインは生きていた。被害が大きかったのは、米子から南に行った岡山県境に近い日野町や日南町だった。高齢化率が高く、老朽化した住宅の多くが全半壊し、古くからの街並みが壊れた。いわゆる「限界集落」と呼ばれる地域。復旧・復興の道のりが危ぶまれた。この地震に際して、大阪読売では地方部次長の筆者や社会部のT主任をはじめ、総支局から10人前後の応援が駆けつけ、取材班を編成。2週間ほど取材活動を続けた。
専門的な知見も必要だということで、本社科学部から川西勝記者も来た。初めはこの川西勝記者が大嫌いだった。無愛想で夜に宿舎のホテルの大浴場で会っても知らんぷり。「やっぱり科学部の記者とは合わんな」とその時は感じていた。しかし、数年後、彼とは大の仲良しになるのだから、人生ってわからない。それは後ほど書くとして。
威張る本社記者
元来、地方部という組織は、現地取材班や応援取材に行った記者やデスクに対しても、本社にいる記者や主任の方が偉そうに接する悪い伝統があった。本社で新聞作りの近くにいる、というだけで勘違いする記者が多い。この時もそうだった。現場で汗水垂らして取材して来たことに、本社にいるM主任が、悉くいちゃもんを付けてきた。それは周りにいる部長や次長に対して、自分は仕事をしているのだ!というアピールだった。現地で取材をしている記者たちにとっては、たまったものではない。したがって、筆者はこのM主任と何度もぶつかった。卑怯だが、四ノ宮部長に直談判して担当を外してもらった。この地震取材には、こんなつまらない思い出しかない。情けない。
「住宅再建に補助」大特ダネ
しかし、本社に帰還して暫く経った時に、大きなニュースが飛び込んで来た。
鳥取県が、地震で全壊した家の再建に最大300万円を補助するという。鳥取支局で県政を担当していたN記者の大特ダネだった。当時、阪神・淡路大震災を体験した神戸などの被災地を中心に、全壊や半壊した家の再建に国からお金を出してほしい、と国の被災者を支援する補助金制度の設立を求めていた。筆者も当然の政策だと思っていた。しかし、財務省は「個人の家の家を再建する資金を国が出すことは、私有財産の形成に当たる。だから、出せない」という態度を崩さず、事態は改善しなかった。
そんな中で、鳥取県が独自で被災地支援に乗り出したのだ。片山知事は後に、こう言った。
「あのまま鳥取県西部地震の被災地に住宅再建の補助金を出さなかったら、西部地区の多くが復興どころか、復旧もままならない」
素晴らしい。全くその通りだ。あれから20数年。苦しい中でも、閉じた市町はない。鳥取県のこの取り組みは、後に、国の「被災者再建支援金制度」に大きな影響を与えたのだ。
N記者が取ってきた特ダネは、その日の朝刊一面トップを飾った。しかし、鳥取や島根、高知などの早版地区だけだった。いわゆるセット版といわれる近畿地方の版からは、準トップに下げるという。筆者は必死にこの記事の重要性を訴えた。しかし、ダメだった。翌日、朝日、毎日は夕刊で一面トップ、社会面トップの書き分けで追いかけて来た。四ノ宮部長が言った。
「こんなにニュースバリューのある記事だったのか? なぜ、もっと訴えなかった?」
アホらし!あれだけ訴えたやん! とにかく、筆者にとっては、せっかくのN記者の大特ダネを完璧に活かすことが出来なかった、苦い思い出しかない。(つづく)
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