スタンドバイミー@水道筋「あの頃ぼくらはアホでした」⑥ 安富信

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お風呂って、東京の銭湯まで行っとったん?

 「あんた、何時間お風呂行っとん? 東京の銭湯行っとったんか?」
 おカンが呆れて言った。銭湯に行くと言って家を夕食後の7時過ぎに出て、10時過ぎまで帰って来ないからだ。小学高学年から中学2年頃まで、小川くんらと灘区内にあるお風呂屋さんを巡るのがブームだった。昭和38年に開通した東海道新幹線、40年代には「ひかり」で行けば東京まで3時間10分だった。
 やっさんが大内温泉で、小川君は将軍湯がホームだった。どちらも自宅のすぐ近く。「灘区内には最盛時54の銭湯があった」と同区のHP「なだだな 憩いの場MAP」に記されている。確かにそのくらいはあった。水道筋界隈では200mに一軒くらいは、お風呂屋さんがあったような。昭和40年代、神戸市民は銭湯と呼ばずに、「風呂屋」とか「お風呂屋さん」と呼んでいた。ほとんどの家に内風呂などない時代。だれもが銭湯に通っていた。だから逆に、テレビの人気ドラマが高視聴率を記録した際、「銭湯が空っぽになった」と表現された。その上、この辺りでは何故か、将軍湯以外は皆「◯◯温泉」という店名だった。しかし、地下から涌く温泉ではなく、沸かした湯だった。

㊧ホームの大内温泉。自宅は信号の向こうだった ㊨屋台の串かつ屋の北側に、白井温泉があり、中村座があった 
㊦水道筋温泉MAP。銭湯が54もあった。

 「今日はどこに行く? 北か南か、はたまた西か? よし、今日は富士温泉にしよう!」てな具合の簡単な打ち合わせをして、プラスチック製の風呂桶に石鹸とシャンプー、タオルを入れて目的地に向かう。今はないが、富士温泉は水道筋から北に200mほど、阪急電車の踏切手前にあった。特に変わった風呂屋ではない。要するに、毎日同じ所に行くのがつまらない、というのが理由だ。失敗もある。水道筋5丁にある屋台の串かつ屋さんを北に曲がってすぐの所に「白井温泉」があった。小川君と何気なくのれんをくぐると、同級生の女子M木さんが番台に座っていた。あわてて逃げて帰った。このM木さんとは別に恥ずかしい話があるが、後述する。
 お風呂で何をしていたか? ずっと湯船のタイル縁に座ってしゃべり続けた。他愛のない話ばかり。それこそ、②で紹介した、昨夜のアメリカドラマ、コンバットやウルトラゾーンの話を延々と。それともこの頃、爆発的な人気だった深夜ラジオの話。昭和41年(1966年)4月放送開始の朝日放送「ABCヤングリクエスト(ヤンリク)」、1年後の4月に追いかけるように始まった、MBSラジオ「歌え!MBSヤングタウン(ヤンタン)」。そして、昭和45年(1970年)、最後にラジオ大阪「ヒットでヒット バチョンといこう!」が満を持して登場した。
 ヤンリクは深夜0時になると、笑福亭仁鶴が「にかく、あたまのマッサージ!」と大声で叫んで始まるコーナー。小学生には滅茶苦茶受けて、布団の中で笑い転がった。リスナーの書くハガキを読み、受け答えが絶妙だった。キダ・タローの「ミキサー完備 スタジオ貸します」も懐かしい。今だから言うが、「ミキサー完備」はキダ・タローの本名だと思い込んでいた。
 ヤンリクに代わって人気が出たのが、ヤンタン。アナウンサーの斎藤努と、まだ若手だった桂三枝(現6代目文枝)コンビが人気を呼び、テレビ番組「ヤングおー!おー!」に発展した。超人気番組だった。笑福亭鶴光、アリスの谷村新司、ばんばひろふみに加えて、明石家さんま、島田紳助・松本竜介コンビ、笑福亭鶴瓶、原田伸郎、やしきたかじん、嘉門達夫、西川のりお、チャゲ&飛鳥、ダウンタウン、渡辺美里など多彩なパーソナリティが次々に登場する。特に、鶴光のちょっとエッチな会話が密かに?(爆発的に?)人気を呼んだ。
 しかし、中でもバチョンでの浜村淳の「思い出は映画と共に」は思い出深い。深夜0時になると、ニニロッソの「夜空のトランペット」が鳴り響き、浜村が厳かに語り始め話題の映画を紹介するコーナー。これも、リスナーのハガキを紹介しながら映画の内容と見事にマッチングしていた。初恋や失恋話がほとんどだった。40分か50分も続く浜村の名調子だが、ほとんど筋をバラしてしまう「ネタバレ」だったが、かまやしなかった。そんな話を延々と風呂屋でやっていた。 
 銭湯話のついでに尾籠な話。やっさんが乳児の頃、家族3人はおカンの実家・高橋米穀店に居候していた。親父は米屋の丁稚奉公をしていたらしい。今はない「黒潮温泉」に行っていた。1歳になったばかりか? いつもはおカンが連れて行くのだが、この日は珍しく親父が連れて行った。案の定、やっさんは、湯船の中でうんちを漏らしてしまった。大騒ぎになった、と後から聞いた。

 灘温泉の外観と内部の露天風呂(HPより)。やっさんはこの露天風呂が大好きだ

 後から聞いた話のついでに、もう一つ。④で出てきた劉外科で、1歳になる前、脱腸の大手術をやったらしい。かなり厳しい容態だったとかで、手術途中に呼吸が何十秒か止まったという。両親が「ダメか」と思った瞬間、大声で泣き始めたという。どこまで本当か、わからないが、60数年以上経った今でも、鼠蹊部に2筋の大きな手術痕がある。

お気に入りの「高田屋一色店」(左)と「串かつ船越」

 こんな体験が影響しているのか、今でも月に1,2度、水道筋を訪れ、灘温泉に浸って、近くの居酒屋「高田屋一色店」や「串かつ船越」で一杯やる。灘温泉は昭和8年(1933年)に六甲道店が創業、5年後に水道筋店が開設され、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた。同9年(1997年)に六甲道店で地下深く掘削したところ、天然温泉が湧き、平成13年(2001年)には水道筋店でも温泉が湧出した。六甲山や摩耶山の麓にあるため。ピクニック客らが多く訪れ、いついってもお客さんでいっぱいだ。湯船に浸かっていると、時々、子どもの頃から知っているおじさんの顔がある。串かつ屋の親父さんとはよく会う。しばらくして見えなくなると、寂しいものだ。大学時代にバイトしていた寿司屋の親方が最近見なくなった。数年前、「やっさんやろ!安富やろ!」と見知らぬおじさんに声をかけられた。中学時代のサッカー部の同級生の大城君だった。(つづく)

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コメント

コメント一覧 (1件)

  • ずいぶん、少なくなった銭湯♨️ですが
    湯上りの高田屋、船越の串カツは未だ変わらぬ下町文化です。まあ、近所の将軍湯♨️では、映画館の無料券よく貰いました。今や灘区に映画館がなくなったのは淋しい限りです。

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