ぼくらはストーカー少年探偵団!
「よし、お前は向こうの道から、オレらはこの路地から抜けて行く。撒かれるな!抜かるな!」
昭和41年秋の夕暮れ頃? 神戸市灘区市立稗田小学校5年生の5人組が二手に分かれて、1人の女子を追跡する。憧れの1年上の6年女子を。ボーイッシュでめちゃくちゃ可愛い先輩。後に中学・高校とずっと先輩だった人だ。
「ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団🎶」と歌いながらか、はたまた、当時テレビでやっていた「忍者部隊月光」のチーム気取りか? いや、アメリカドラマ「スパイ大作戦」(原題:ミッション・インポッシブル)気取りだったのか。
水道筋商店街の南、6時間目の授業が終わり、南隣にある児童公園・稗田公園に集合した、いつも遊んでいる、オレ、やっさんこと安富信、デコッパチこと小川明夫君、ケー坊、ながふく君に、馬ボンの5人組だ。
この日は、極めて重大なミッションだった。5人全員が「好きだ。カッコいい」と口を揃えていた彼女の自宅を突き止めることになった。路地から顔を出したり引っ込めたり、不審な行動を繰り返しながら、5人は行く。公園からわずか5分、200mもいかないうちに、彼女の自宅は突き止められた。表札を確認して5人全員が頷いた。
「任務完了!」
今なら、立派なストーカーだ。
大なり小なり、ぼくたちの放課後はこんなことばかりしていた。想像力ばかり走りがちな歳ごろ。本気でアホなことを真面目にやっていた。
やっさんは昭和31年2月生まれ。敗戦から10年、池田勇人首相が所得倍増計画を発表し、31年7月に発表された経済白書には、「もはや戦後ではない」と明記された。それから10年弱、高度経済成長の真っ只中だ。
水道筋商店街は、神戸市灘区の阪急王子公園駅と六甲駅の間にあり、450mあるアーケードの下に、最盛期には8つの商店街と4つの市場約500余の店がひしめいていた。その南の地区は、戦後建った文化住宅やアパート、路地を挟んで平屋の長屋が密集する下町だった。
やっさんの家は、すぐ東に都賀川が南北に流れる大内通の1地区。幅3m、長さ30mほどの路地を挟んで10軒ほどが連なり、突き当たりには両側に10軒、裏にも10軒、500平方メートルほどの中に30軒以上がひしめきあっていた。1軒当たり30平方メートルもない、貧乏長屋だった。
やっさん家は、角地で6畳と4畳半2間に、小さな三角間があって、サラリーマンの父と共働きの母、8つ下の弟の4人家族。2段ベッドの下にやっさんは寝ていた。壁には、あべ静江の大きなポスター、弟は石野真子が推しだった。朝早くから子供の歓声が響く路地だった。
この長屋には、どの家にも2〜3人の子どもがいた。稗田小学校に通っていた児童は20人以上いた。当然、生い立ちや兄弟姉妹関係、もっと言えば、お父さんの職業も知っていた。
ちなみに隣のF家は、市電の運転士の父と、母、姉妹2人の4人家族。
この小さな地区内にもキリスト教を広める「学校」があった。1軒の家で、週に一度、夜に布教の会が開かれた。と言ってもその家のお母さんが、「フランダースの犬」とかの紙芝居を読んでくれるだけの軽い布教だったが、なんか「ハイカラ」だった。「水曜学校」と呼んでいた。同級生のK島宅だった。信仰が深まれば、近くの教会に日曜礼拝に行く。やっさんは深まらなかった。
都賀川を渡った東側の地区には、「子沢山の路地」がいくつもあった。やっさん家と同じような20軒長屋に40人近くの小学生がいて、同級生が20人もいた。小学校のすぐ南のアパートにも同級生が10人もいた。卒業アルバムを見ると、1クラス42〜44人で6クラス計261人。小さな教室に子供がひしめき合っていた。数年上の団塊の世代はこの1.5倍はいた、というから凄まじいものだ。とにかく、日本の社会は「子どもの時代」だった。だから、やることなすこと、小学生にとって楽しいことばかりだった。
稗田幼稚園時代からの最古の友人・小川明夫さん(69)とは今でも年に数回、飲む。そしていつも話題に上るのは、あの頃のことだ。
「やっさんが骨折した時の話、ケッサクやね」
「かっちゃんのお母さん、若くて美人やったね。うちらのオフクロと違って」
「そうそう、美人の先輩を追跡したことあったな! まるでスタンドバイミーや」
小川君がそう言った時、閃いた。「スタンドバイミー@水道筋や!」と。
1970年(昭和45年)に大阪万博が開かれる前の昭和40年代前半、関西それも神戸の下町に育った悪ガキたちの“青春前の時代”を、思い出の水道筋を舞台に辿ってみよう。(つづく)
コメント
コメント一覧 (2件)
記憶力抜群だね!
小学校のことは無論、昨日のことも覚えてないわ。
キレイなお母さんの息子、人気者のかっちゃん、小学生ながら小顔で足長く7頭身、当時、私ら赤塚不二夫ワールドの3〜4頭身が標準でした(笑笑)
これホンマ