輪島市町野町の山あいにある金蔵集落は「限界集落のトップランナー」と評されている。64世帯156人(2011年)の里に、歴史や民俗の研究者やボランティアの学生らが頻繁に出入りする。地元の米でつくった酒を、埋蔵金伝説にちなんで「米蔵金」と名づけ、パッケージをデザインしたのは外部の若者だった。
その活動の中心になっているのが、NPO法人「やすらぎの里 金蔵学校」だ。「あなたが先生、私が生徒」「私が先生、あなたが生徒」をスローガンに、住民が知恵をだしあい、さまざまな活動を展開してきた。(年齢は取材当時)
陳情より汗をながして「万燈会」
「やすらぎの里 金蔵学校」理事長の石崎英純さん(60)は「かつては金蔵も行政にたよりきっていました」とふりかえる。
1980年代後半、過疎と高齢化に歯止めがかからない状況に、だれもが危機感をいだいていた。半導体製造工場に勤めていた石崎さんが「金蔵の将来を考える会をつくろう」と集落の総会で提案すると、「ぜひやれ!」と拍手喝采された。
有志で会合をかさね、地域活性化の策として、当時計画中だった能登空港と最短距離でむすぶ道路の建設をもとめることにした。市議をとおして市役所に陳情をかさねたが、10年たっても実現しなかった。
1997年、123年の歴史をもつ金蔵小学校が廃校になった。地域の中心であり、思い出のつまった校舎は、活用法が見つからないまま、維持費がかかるためとりこわされた。
校舎がなくなると、心に穴が開いたような寂しさにおそわれた。「陳情をくりかえすより、みずから汗を流し、その成果をもとに道路の必要性をうったえよう」と、2000年に有志7人で「金蔵学校」をたちあげた。
まず、ムラの入口に「やすらぎの里」の看板をかかげる。ツツジ1000本を3年間かけて植樹し、散策道を整備する。歴史や民俗文化を掘りおこし、毎月のようにイベントを打ちつづけた。
02年8月16日には、メンバー7人でカップ酒の瓶5000本にロウソクをたて、寺の境内やあぜ道にならべる「万燈会」をもよおした。明かりの数は年々増えて2010年には3万本に。当初は「売名行為だ」と批判もされたが、5年目からは地区全体で主催するようになった。全国的に注目され、大学や国・県の協力も得られるようになった。
「みずからがむしゃらに行動することで、多くの人が協力してくれるようになってきました」
石崎さんはふりかえった。
寺社の行事で栄えた歴史にまなぶ
郷土史にくわしい井池光夫さん(83)によると、金蔵には5つの寺と3つの氏神があり、年間150日はなんらかの行事があった。
浄土真宗の寺で毎月もよおされる「お講」では「もっそう盛り」の白米がふるまわれ、戦時中は、輪島や宇出津から重箱を手にした参拝客がおとずれた。
「物もらいが金蔵にはいると1週間は道に迷った」という言い伝えは、道の複雑さにくわえ、寺などで食事にありつけることをしめすという。
「金蔵学校」では、フキと豆腐と野菜の煮しめや、小豆と豆腐(大豆)の「いとこ汁」など、寺の「お講」の精進料理を村おこしに活用できないか検討している。
「昔から金蔵はイベントで人をあつめて栄えてきた。歴史からまなべることはたくさんある。村おこしのヒントは必ず古いもののなかにあるとぼくは思っとります」
井池さんは断言した。
「総掛かり」でため池を管理
集落からつづら折りの林道をのぼっていくと、木々の隙間から緑の水面がのぞいた。山のくぼ地に最大10万トンの水をたたえる「保生池」。明治初期に掘られた全長188メートルの隧道をとおって金蔵地区の棚田をうるおしている。
30年ほど前、隧道の補修にはいった井池光夫さんは、コウモリがへばりつく壁面の各所に、でこぼこした痕跡を見つけた。干ばつ克服のため、先人がくわで手掘りした跡だった。
金蔵にある13のため池は、サンショウウオなどの両生類が生息し、タカやオシドリが飛来する「生物多様性」のゆりかごだ。その維持管理は、各池の水を利用する農家だけではなく、金蔵地区の全世帯が「総掛かり」でになってきた。
かつて金蔵には7世紀に創建され8坊をかかえる大寺院「岩倉山金蔵寺」があった。1527年に当時の七尾城主に村ごと焼きはらわれたが、跡地に5つの寺が建った。5寺の檀家総数は地区の世帯数の10倍の600戸にのぼる。寺のもたらす富によって周辺地域の中心地として栄えてきた。
戦前、地区の寄り合いは区長の屋敷でひらかれた。奥座敷には11人の親作(地主)、中の間に自作、茶の間に自小作、台所には小作があつまる。区長選任などの重要事項は奥座敷で決め、「これでええか」と中の間に同意をもとめた。それ以外には「こんながに決まったぞ」と結果をつたえるだけだった。
井池家は金蔵随一の大地主だったが、地区で運営していた「金蔵信用販売購買組合」が1935年に破綻した際、井池さんの父が全財産を処分し、没落した。父は3年後に47歳で亡くなった。
戦後の1948年、農地改革で力をつけた小作出身の若者たちは「親作」支配に反旗をひるがえし、区長選挙にみずからの代表を当選させた。親作出身の前区長は「生意気な。やれるならやってみい」と引き継ぎをこばみ、両者は全面対立した。
「あんちゃん、立会人になってくれ」
両者から仲介をたのまれたのが、当時20歳の井池さんだった。手打ち式の日、前区長は「井池のあんちゃんが来たんなら、わたっさい(わたす)」と言って、土地台帳などを新区長に手わたした。
水道普及も「総掛かり」
農林水産省に勤めた井池さんは75年、住民に請われて区長に就任する。当時、水道導入の是非をめぐってもめていた。水道管の本管は公共事業で建設されるが、各家までの配管は自己負担だ。本管から数百メートルはなれた家はとても工費をはらえない。
井池さんは、工費を全世帯で平等に負担する「総掛かり」の案をうちだした。本管の近くの住民は当然反対する。
「そういうこと言うがなら、本管の道を変えるぞ!」
「ため池も総掛かりでしてるじゃないか」
強引に説得し、地区全体がまとまった。ほかの地区では、本管から遠いため今も水道がない家が少なくないが、金蔵は明治以来の「総掛かり」精神によって、地区全体がまとまり、全戸に一気に水道が普及した。
21世紀の村おこしをめぐっても、時にはげしい反対の声があがる。だが金蔵には、団結して水問題に対処し、親作と小作のきびしい対立をのりこえてきた経験がある。
「総掛かりでため池を守ってきた記憶があるから、金蔵はなにがあっても最後にはまとまるんです」
井池さんはそう確信している。
女性グループで特産品開発
金蔵ではイベントが毎週のようにもよおされ、視察や見学もたえない。「若い学生や外国人がこがいに来るところはないぞ」と住民の声も明るい。雑草が生い茂っていた空き地には桜が植樹され、年2回だった田の草刈りは3回に増えた。
だが、村おこしをはじめた2000年に84戸297人だった人口は、2011年には64戸156人に減った。交流人口が増えても、特産品の販売などによる収入増がなければ定住にはむすびつかないのだ。
2010年秋、最大の課題である特産品開発をになうグループが誕生した。
きっかけは夏の「万燈会」だった。学生114人がボランティアに来ることになり、「やすらぎの里 金蔵学校」の石崎理事長は60-70代の女性におにぎりづくりを依頼した。
「石崎さんは金蔵のために一生懸命してるし、手伝おう」
十数人の女性が応じた。
以来、イベントや視察があるたびに食事づくりの声がかかる。秋、休耕田でそだてた大豆と能登の塩でみそを手作りすると、視察者から「みそ汁がおいしい」と絶賛された。
女性たちは本格的に食品加工を手がけるため「金蔵あかり会」を結成した。空き家を改造した「寺寺(じーじ)の家」を拠点に週に1、2回あつまる。手作りのみそは山椒みそや柚みそに加工し、地元米の餅は、柚餅やかぼちゃ餅などにしたてた。春には山でノブキをとって箱詰めして出荷した。視察客には山菜料理を1食1500円で味わってもらっている。
「女性が動いて地産地消の物づくりがはじまった。まだ小遣い銭程度だけど、若い人が定住できる経済的環境づくりをめざして、あきらめずにすすんでいきたい」と石崎さんはかたる。
「金蔵学校」ができてから10年余の村おこしのなかで、女性主導のグループは「あかり会」がはじめてだ。だが金蔵では、婦人会や婦人消防団などの活動が昔からさかんだった。「婦人会の集まりにいく」と言うと夫は文句を言えない雰囲気があったという。
「昔は婦人会長は5つの寺の坊守さん(奥さん)がビシッとしきっていたから、男の人に文句を言わせなかった。女の人ががっちりまとまれるのはお寺のおかげかも」と崎田とも子さん(61)。
高度経済成長をへて女性が働きにでるようになり、小学校の廃校で運動会などの行事もめっきり減った。同年代の女性が親睦をふかめていた「若妻会」も高齢化で解散し、婦人会も年に1度あつまる程度になっていた。そんななか、「あかり会」は定年退職後の女性の活動拠点になりつつある。
「ここではみんな本音で物が言えるし、これだけ女があつまればたいがいのことはできる。ここは金蔵の『希望のあかり』よ!」と田中みなみさん(64)。
「まさに若妻会の再結成ですね」と私がたずねると、
「アハハ、若妻会ならぬババ妻会だけどね!」と笑い飛ばした。
避難生活ささえたイベントや伝統行事の経験
万燈会は高齢化のため2016年に終了し、「あかり会」も活動を休止した。
選挙人名簿の有権者数は、選挙のたびに7~10人減る。従来は集落の集会所和室が投票所になっていたが、有権者が100人を切り、2020年以降は約4キロはなれた町野地区の中心部で投票しなければならなくなった。
一方、金蔵出身者の子である30代の若者が「孫ターン」して集落の農作業の「担い手」となった。Iターン者はベルギー人をふくめて計5人に増えた。
2023年1月には「防災計画・危機管理マニュアル」を作成した。地震は「震度5強」、大雪は「積雪1メートル」、大雨は「1時間100㎜、あるいは24時間200㎜」といった基準を超えると「危機管理態勢」を発動する。区長や集落委員、婦人消防隊長らは集会所に集合し「災害対策本部」を設置する。
だれがだれの安否を確認するか、情報をどう集約するか、区長不在時はだれが指揮するか……二重三重で確認するかたちをつくった。
「あとは災害ごとの具体的な対応を考えて、実際に練習せんならんなぁ」
そんな話をしているなか能登半島地震がおこり、「マニュアル」の真価が問われることになった。
私は地震から2カ月後の2024年3月半ば、海沿いをたどる国道249号は寸断されているから、南側の珠洲道路から峠をこえて金蔵を再訪した。
棚田のわきに車をおき、カフェ「木の音」がある慶願寺方面にくだっていくと、集会所の前で2人がたき火にあたっている。2011年に取材した井池光夫さんの息子で、区長をつとめる光信さん(68)と由起子さん(68)夫妻だった。自宅は大規模半壊だから、集会所で寝泊まりしている。父の光夫さんは2月、入院先の病院で95歳で亡くなったという。
井池さんは元日、一家4人ですごしていた。午後4時すぎ、前年5月5日と同程度の地震がおきた。東京の娘から安否確認の電話があり、「大丈夫だよ」とこたえた刹那、激烈な揺れがおそい、キャーッとさけんでいるうちに電話が切れた。
井池さんは集会所にむかい「災害対策本部」を設置し、安否確認をはじめた。
金蔵の住民は95人だが、帰省している家族をふくめて103人が集会所にあつまった。10人は別の建物に避難した。
高齢者や障害者が室内で横になり、若い人は車中泊だ。停電で周囲は真っ暗で水もでないが、各家から正月のごちそうをもちよって食べた。
車道はくずれ、携帯電話もつながらない。翌日、町野地区の中心ではたらく住民の安否を確認するため、ひとりが約4キロの山道を歩いていった。最後まで連絡がとれなかった2人は、海沿いの白米千枚田で孤立していることが10日になってわかった。
1月5日、自衛隊が南の旧柳田村方面から水や食料をはこんできて孤立状態が解消された。地震直後に「広報担当」に任命された「孫ターン」の若者は、電話がつうじないなか、SNSで安否情報を発信しつづけた。
金蔵の女性たちは、毎月の「お講」で、30~40人分の料理をつくってきた。そのための大きなガス釜も常備している。避難生活でも司令塔役がテキパキと指示して毎日100人分の食事を用意した。「お講」や「万燈会」などのイベントによって住民は組織活動をまなんできた。
「イベントにきてくれた人たちが多くの支援物資をもたらし、知恵と元気をあたえてくれる。『総掛かり』の村おこしの経験は今回の地震でもおおいに役だっています」と石崎英純さん(73)は話す。
水道は7月になってもつかえない家もあるが、電気は1月21日に復旧した。水道が未整備だった半世紀前、どの家にも井戸があった。それを思いだし、古い井戸に電動ポンプを設置し、集会所の水洗トイレや台所をつかえるようにした。二槽式洗濯機も2台導入した。
住民がもどるためにも集落に仮設住宅を
金蔵の属する町野地区に隣接する南志見(なじみ)地区は11集落に約700人が暮らしていたが、地震で道路が寸断されて孤立した。1月9日、視察におとずれた県議会議員が「あす朝までに荷物をまとめて地元をはなれてほしい」と突然よびかけた。ほぼ全住民が1月10日と11日の2日間でヘリなどで集団避難した。
金蔵は「集団避難」の提案にはのらず、それぞれの人の判断にまかせることにした。
道路は寸断され、水道もない。家は危険だ。当初は大半が金沢方面に避難した。1月14日には井池さんや石崎さんら9人だけが集落にのこっていた。だがその後、ポツリポツリと避難先からもどってきて、3月14日は31人になった。金蔵では地震発生以来毎朝、情報を共有するため全住民が参加するミーティングをひらいている。
現在、各地で仮設住宅の建設がはじまっているが、金蔵の集落への建設は計画されていない。遠くの仮設住宅に入居し、「水道や道路の復旧は2年」とつきつけられたら自宅にもどることをあきらめる人もでてくる可能性が高い。
「住民をちりじりばらばらにしたら、コミュニティはこわれてしまう。農村集落が崩壊してしまいます」と石崎さん。
そんな危機感から金蔵の井池区長らは3月4日に輪島市役所をおとずれ、「コミュニティ維持による生活の質の確保を図りながら人口流出を防ぐため、金蔵集落において仮設住宅を建設・設置願いたい」という市長あての要望書を提出した。
集落に仮設住宅ができれば、仮設住宅から自宅の清掃や修繕にかよえる。集会所をボランティアの活動拠点にすれば、自宅を整理・修理する作業もスピードアップする。
「金蔵は1527年に破滅を経験している。それにくらべれば今回の地震はたいしたことない。江戸時代に同規模の地震がおきたら、あたふたせず、隣家同士で協力して家をたてなおしたでしょう。田んぼが2つに割れたら2枚の小さな田んぼにする。それが千枚田ですよ。人がいたから破滅からもたちなおれた。『人』が一番大事なんです」
井池さんはそう力説した。
住民のなかには、建て替えの資金がない人や、「老い先みじかいし、家にカネはかけれん」という人もいる。地区住民の意向を調査し、災害復興公営住宅10棟の集落内への建設を要望した。
4月末からは、二次避難をしている人たちに「あなたのことをわすれていませんよ」とつたえるため「金蔵新聞」を発行している。
21世紀の「ツラガエ」に期待
家の住人がいれかわることを金蔵では「ツラガエ」という。たとえば小作人の男が亡くなり女だけの世帯になると、おやっさま(地主)は元気な男に「あっこに婿にいけ」と命じる。「(旦那と)離縁してあしたからあっちの家にいけ」と若い嫁をほかの家にうつらせる。集落の労働力を確保するのが最優先だから、住居はあちこちに移動したのだ。井池さんの祖母も、前夫と離縁して井池家に嫁入りした。
「俺たちが生きているあいだに金蔵の3分の1の家はツラガエします」と井池さんは予想する。
現在金蔵には空き家が20軒以上あるが、多くの人は家を手ばなそうとしない。その家でそだった兄弟が反対するからだ。だが金蔵で生まれた世代が退場する10年後には、家の処分が一気に増え、移住者の受け皿になるだろう。現代のツラガエは都会からの移住なのだ。
井池さんは復興公営住宅のプロジェクトを「新しい寺」と位置づけている。そこに集落の内外の人が「講」のようにつどい、新しい知恵やきずなをつむぎだす場にしたいからだ。
Iターンで金蔵に移住した30代のベルギー人男性は、ベルギー大使館から贈られたビールをみんなでたのしんだ際にこう言った。
「日本人ははたらきすぎです。『3時すぎたらビールをのむ集落』で売りだしましょう!」
井池さんはその発想のやわらかさに感心した。
「そんな話が実現して集落でビールをつくれたら、金蔵はおもろい! って新たな人がまたきますよね。外の人は私らにはない発想をする。いろいろな可能性がうまれてくるような気がするんです」
カエルが合唱する棚田をながめながら、午後3時からベルギービールをのめる里ならば、私も移住してみたい。
「外」とつながり、「総がかり」で村おこしをすすめる金蔵は、「ツラガエ」で住民が交替しても生きのこっていくのだろう。
金蔵地区 三方を山に囲まれた標高100メートル前後の盆地。地区内に5つの寺(浄土真宗4、真言宗1)があり、最盛期は約100世帯500人がすんでいたが、2011年は64世帯156人。2024年3月の住民登録者は53世帯95人。2023年は13軒が水田をいとなんでいたが、2024年は、ため池や水路などの被害で2軒に減った。
「金蔵区規約」には、「金蔵区民は『将来の集落に対して責任を持つ』ことを念頭に『総掛かり』という制度の下、最大限の奉仕により、将来の集落の姿を見ようという努力を怠ってはならない」と「総掛かり」が明記されている。
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